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KANAN Ⅰ  作者: 真柴 亮
28/36

帰宅 2



 親爺には殴られた。車なんぞに興味はないと、家を出て行った兄貴と自分しか子どものいない男所帯だったし、小さな町工場が集まるこのあたりでは珍しい女技師だったから、この町では娘のようにかわいがられていたからだ。当然、車が好きだという理由で単身上京してきた小娘が、社長さん社長さんと懐いてくれたら、親爺としては可愛がらないはずがない。

 迷惑かけないから産ませてほしいと頭を下げに来た真知子から全てを聞くや、何も知らないままで呼び出された惇が部屋に入るなり、いきなり拳で横っ面を殴られた。

 なんの身構えもしていなかった惇は壁まで吹っ飛び、目の前に星をチカチカさせながら事の顛末を聞かされたのだ。

「女の真知子にここまでさせといて、野郎のお前は何をして落とし前つけるつもりだ!」

 久々に聞いた親父の怒声は、腹まで響いた。自分の情けなさに涙が止まらず、ただひたすらに膝をつき、額を地面に擦りつけて許しを請うた。

「謝る相手は俺じゃねえだろうが!」

 親爺は今度は胸倉を掴み、汚い顔を真知子に向けさせる。やめてほしいとは言えなかった。そして、手を放した親爺は背中を強く叩いた後、惇を真知子へと向き直らせたのだ。

 ごめんね、と真知子の顔が謝っていた。その顔に、惇は父親に殴られたとき以上の衝撃を覚えた。謝るのは俺の方だ。月並みな台詞が口から漏れた。

「すまん……、ごめん、ごめんなさい。すみませんでした!」

 真知子と比べなくても惇は馬鹿だ。言葉にできたのは謝罪の定型句だけ。その後、どうやって場が納まったかは実は定かに覚えていない。

 両親と揃って両手をついて、田舎の真知子の家に謝罪と挨拶に行ったことだけは確かだ。取るものもとりあえず、工場を休む連絡さえ、東京駅の乗り継ぎ待ちの時間に班長の家に公衆電話から電話を掛ける始末だった。

 それから、心を入れ替えてやってきた。真知子が加わった何の変哲もない日常は、これから先も続いていくんだろうとなんの疑問もなく思っていたのに。

「はい、できたよ」

 思案に耽る惇の目の前に置かれたのは茶漬けだった。夕飯の残りだったのか、不揃いにほぐされた鮭が入っている。カップ麺を選ばなかったのは、健康志向というよりも、残飯処理を優先した結果だろう。

 出してもらったものにケチをつける理由もなく、惇はずずっと汁を吸った。

 冷えた身体に熱い茶づけがしみ込んでいく。芯まで冷え切っていたらしい身体は、酒でもないのに五臓六腑に染みわたるかのようだ。

「お前よぉ……」

 定位置になった右隣に座った姉女房は、机の上に肘をついて、冷たくなった指先に息を吹きかけている。突然妊婦になった紅一点の従業員の扱いに困った親爺は、無い頭をひねって彼女の仕事から力仕事を免除した。すると、できる仕事は限られてくる。手持ち無沙汰に困った真知子は、嫁と言う立場を主張して、今では店の事務仕事の半分を担うようになっていた。自然、整備油を使わなくなった手は元の白さを取り戻しつつある。綺麗な手だとなんとはなしに思いながら、惇は思い切って尋ねてみた。

「俺が殺されたら、どうする?」

「死んだら、じゃなくてかい?」

 妊婦にするには重い話題を振った自覚はあった。馬鹿なことを言うんじゃないと叱咤されるかと思いきや、彼女は意外にものんびりとした相槌を打って、掌の上に顎を乗せた。

「……おぅ」

「さあねえ、どうしようかねえ」

 何を考えているのか、惇には分からない。頭がいいと言えばコウも同じだが、女の考えることは予想さえつかないのだ。茶漬けを啜りながら答えを待つ惇に、真知子は頬杖をついて窓の方を見る。

「ただでさえ、町工場ってところは危ないからね。うちだって、なんかの拍子にチェーンが切れたりすれば、死んじゃったりするんだからね」

 溶接の最中に飛んだ破片で片目が見えなくなったり、耳が二股になったりそういう話は珍しくもない。最近の医術はすごいもので、そうなったとしても案外仕事を続けていけたりするものだから、この界隈では病院は有能な人の集まりだと言う信奉者が多い。そのくせ、ただの風邪ではかたくなに行きたくないとごねる親爺連中が多いのも事実だが。

「でも、そういうんじゃなくって、殺されたらってことだよね?」

 どうしようかなぁ。小さく呟いた女の中で、答えはいくつも用意されてあるようだった。じっと答えを待つ。真剣みを帯びた表情に何かを感じ取ったらしい。こちらを見つめて来た真知子の膨れた顔の割に小さな目を見つめ返していられずに、茶漬けを掻きこむふりをした。

「あっちゃん、なんか、危ないことがしたいんだね?」

「ぐほっ!」

 米粒で噎せた。本当に女という生き物はよく分からない。一体どこからそんな正解ど真ん中を射抜くことができたのだろう。

「大丈夫!?」

 顔を赤くして噎せこむ背中をばしばしと叩かれる。物腰は柔らかいくせに案外力が強い。身を捩ってそれから逃げて、噎せ終わるのを待つ。

「ふーっ」

 ぬるくなったお茶を飲み干して一息つけば、真知子が心配そうな顔でお変わりのお茶を急須から注いだ。

「……あんで、分かんだよ」

 悔しまぎれに聞いてみる。どうせ、この女を相手にして勝てたことなどありはしないのだから今更だ。拗ねた声になっていることも分かっていたが、ガキの頃から知られている相手に気取って見せても仕方がない。

「うふふー。もう一つ当ててあげよっか」

「なんだよ、気持ち悪いな。やってみろよ」

 白くて丸い顔がにこにことこちらを見てくる。視線を逸らして不機嫌を装ってみても、懲りない女は得意げだ。

「悩んでるんでしょ? あっちゃん、やりたいことがあるのに、やりたくないかもって」

「…………おぅ」

 見透かされた隠しごとを女にしても無駄であり、見栄を張るには気力が残っていなかった。肩の力が抜ける。殺された竜兄の復讐。仇を殺したいわけでもないのに、復讐ができるならしたいと思う気持ちがくすぶっている。樹壱のように、藤のように、猛や京のように、即断してやってやるぜと言えたら、こんな変な燻りはなかったのだろうか。

 もやもやとした気分で考えこむ惇の手に、温かな手が重ねられた。

「ね、それって、うちのせい?」

「あ?」

「うちが、赤ちゃん、お腹に居るから、あっちゃん我慢してる?」

 悲しそうに伏せられる目を、見たかったわけではなかった。肉付きのよう手はぽちゃぽちゃと柔く温かい。そうだった。この柔さに負けたのだ。変わらない柔らかな手は、初めて真知子を抱いたときのことを思い出させた。

「……(ちげ)ぇよ」

 惇は掌を返して柔い手を握り、しっかりと答えた。

 大雑把に言えばそうだった。だが、綿密に言えばそうではなかった。

 嫁がいるだとか、子どもができるだとか、父親になるだとか。

 そういったものを全部ひっくるめて、何一つたりとも実感が沸かないし責任を持てるかと詰め寄られたら今でも自信があるわけではない。それでも、自分にできる限りのことをやるのが、自分にできる精一杯なのだろうと思っているのだ。やりたい、と胸を張って言えることではないけれど、やらなければならない、とは思っている。俺がやらなきゃ誰がやる、とまで格好いいことも言えないけれど、お前がやらなきゃ誰がやるんだと親爺に凄まれたら、その通りだとしっかり頷く程度の覚悟は持っているのだ。

 我ながら中途半端な覚悟だと思う。それでも、その中途半端な覚悟を放り出すことはできないとも思う。煮え切らない気分を持て余し、惇は黙ったまま空になった茶碗を見つめていた。

「ね、あっちゃん」

 そろりと音がして、真知子が腕に頭を寄りかからせてきた。体積はあっても背丈がそんなに高いわけではない真知子の頭は肩には届かず温もりだけを腕に押し当てている。身じろぎせずにそれを受け入れていると、繋いだ手がしっかりと握られた。

「昔にね、学校の先生が言ってたんだけどさ。迷ったら、想像してみるんだって。それをやってる自分と、やってない自分。それで、どっちの自分が嫌だなって思うか、考えてみるんだって」

 真知子の声は、身体と同じでとても柔らかかった。綺麗も可愛いも照れくさいし嘘くさいしで世辞にも言えなかったが、自分にはもったいないくらい温かい女だとは思う。

「あっちゃんが、やらない自分のがヤダなって思うんなら、やったらいいよ。うちは反対しないよ」

 真知子は微笑み、惇はたじろいだ。

「だって、うち、あっちゃんがやりたいことやってイキイキしてんの見るの、好きだもん」

 本当に、女と言うものは、どこまで男を見透かすものなのか。

 自由を与えて甘やかしておきながら、決定と言う責任から逃げることを許さない。優しくも厳しいこの女は、やはり自分にはもったいないくらいの良い女なのだろう。

 惇はもう一度、おぅと小さく答えてから寝るぞと言って立ちあがった。帰りを待っていただけなのだろう。口実にされた腹の赤子は大人しくしているらしい。ふたつ返事でこたつのスイッチをオフにした真知子をからかってやろうかどうか考えて、惇はさっそく助言通りにやってみた。

「おい、真知子。腹の子が暴れてんじゃなかったんか?」

「えっ、あっ!」

 真知子の白い顔がさっと朱に染まる。照れたおたふく顔を揶揄うように見やった後、惇はそっぽをむいた頭の上に手を置いた。





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