帰宅 1
家に帰ると、中から腹の膨れた女が出て来た。田舎の年寄りが編んだような変な色の肩掛けは、どれだけ不格好に分厚くても今日は冷える。まして真夜中だ。雨が降れば雪になるだろう寒さに、駐車場から歩いただけでも鼻が赤くなった惇は急いで家の中に入った。
「お前、寝とけって言っただろうが」
「だって、あっちゃん。お腹の中でバタバタされて、寝てらんないんだよ」
「だったら温かくしとけ。出てくる必要ねえって言ってんだろ」
元々縦と横の比率が、上から見た車みたいな女だった帰宅1。孕んだと言われても疑うような体形だったが、流石に半年も経てば見て分かる。そうなれば男はぎょっとしてしまうもので、あれだけぞんざいに扱っていた女がまるで壊れ物のように見えてくるから不思議なものだ。
へらりとした気の抜ける笑みを浮かべながら奥に戻る姉女房の後ろについて居間に入る。石油ストーブが焚かれている小さな部屋はかじかんだ氷の手を溶かすのに十分な温かさだった。上着を脱いで部屋の端に放り投げ、ミカンの皮が散乱するこたつの中に潜り込む。
このあたりでは珍しくもない二階建ての狭い一軒家は、タキガワモータースの看板の裏手にある安普請だ。一階部分は店の修理場と事務所になっていて、外の階段を上がったところがこの家になる。
「晩ご飯は? 食べて来たのかい?」
「食ってねえ」
「あれ。じゃあなんか作ろうか」
世話焼きの女房は、さらに重くなった腹をよっこいしょと上げてこたつから立ちあがる。食欲など沸くわけがない。断ろうとするよりも素早い行動に、止めるタイミングを失った惇は、ああ、と生返事をしながらこたつ台の上に頭を乗せた。
寝てられないと言ったくせに、台の上は熱い。おそらく寝ずに起きていたのだろうことが分かってしまうあたり、案外こいつも抜けている。裏工作など思いもつかない性格は、惇も似たり寄ったりだったから、些細な嘘くらい見逃してやろうと、言及は避けた。
「カップ麺でいーや。その前に茶ぁくれ」
「はいはい」
答えながら手には茶筒を持っている。割れ目の入った急須は惇が子どもの頃からの現役者だ。父と母はもう寝ているのだろう。我が家に別の女がいて、それが自分の女房だという。そいつの腹には自分の子がいて、後数か月で出てくるというのだ。
奇妙な現実が、惇の周りをやわやわと締め付けてくる。ストーブの上のやかんからはしゅんしゅんと音を立てて湯気があがっていた。なんの変哲もない、我が家の光景がひどく遠い。
ぼんやりと目を閉じた惇は、目の前の闇に身を委ねながら、峠で聞いた話を思い出した。
竜兄は、殺されました。復讐します。
コウの声をまだ耳が覚えている。くそったれ。何度目かになる悪態は、口からでているのだろうか。珍しいことでもないからか、既に家の者は反応すらしない。最初こそ、注意を向けていた女房の真知子でさえ、今ではなにも言わなくなった。
去年の今頃、と惇は考える。ひとつ年上だった竜矢は、今の自分と同じだった。女を孕ませて結婚するのだと足抜けを宣言した。幸せそうだったから、きっと惚れた女だったのだろう。『フォース』の間でもひと悶着起きた彼の恋路は、こんな形で終結するのかと少し意外に思っていた。
あの人は、どんな気分だったんだろうか。遊んでられなくなった。守りたいものができたんだと笑っていたあの人は、殺された最期の瞬間、惚れた女と腹のガキに、何を言っただろう。
守りたいものができた、というならば、今の惇もそうだった。
復讐に前向きな気持ちはある。だが、協力を請われて当然のように飛びついた他の仲間たちを後目に、惇は家に居る太った女のことを思い出していた。
別に惚れた女というわけではなかった。竜矢の死を、受け入れたくなくて荒れていたころに、一番手近にいた女がこいつだっただけの話である。もしかしたら、ちょっとくらいはそんな変な気を起こすかもしれなかったが、恋愛というにはほど遠い関係だったと真知子も分かっているだろう。
四つ年上の真知子と出会ったのは、惇が中学を卒業した春のことだった。そのころの四つ上といえば、かなりの差がある。田舎の高専を卒業したばかりだった真知子は、長い春休みを少しばかり早く切り上げて、就職先に選んだタキガワモータースに転がり込んできた。
ひねくれ者のガキだった惇が、開口一番にデブと呼びかけるような女でも、若ければ可愛く映るものらしい。女の子に酷いことを言うもんじゃないとお袋はこっぴどく惇を叱ったし、親父は向かいの馴染みの息子が不動産屋に勤めている縁で、近くにボロだが安くていいアパートを世話してやった。
当時、惇は電車で数駅行ったところにある工業高校に進学が決まったところだった。名前さえ書けば受かると言われているような高校である。自動車専門の学科があるわけでもなく、単純に学力が足りなくてそこしか受けさせてもらえなかったのだ。嫌なら行かなくていいから家の手伝いをしろと言われれば、車は好きでも親の跡を継ぐのには難色を示したい年頃だった惇は、仕方なしに通学を選んだ。
そこへやってきたのが、横田真知子を名乗るおおらかな体形をした女だったのである。
惇としては非常に面白くなかった。モータースのおっちゃんたちだけでなく、ご近所さんも寄ってたかって彼女をもてはやした。ご自慢の愛車でちょっと風を切れば、もっと綺麗でかわいい女はいくらでもいるというのに、車好きでいつも整備油の匂いをさせてへらへらと笑うだけの太った女を、町工場のアイドルのように扱うのだ。
その上、経験はなくても高専の出身である。技術を習ったことがあるというのは大きい。大学は金持ちの入るところだったから、高専出身というのはこんな小さな町工場では出世頭の花形なのだ。
片や、惇の方はというと、お前が行ける高校などここだけだと投げやりに言われた高校に行くしかない惨めな御身分である。十五の背伸びしたい年頃に現れた新星は、目の上のたんこぶでしかなかった。
今思えば間が悪かったのだろう。例えば惇が二十歳の頃にやってきたとすれば、跡目を継ぐ決心もついたあたりだったから、嫁にしようとあっさり惚れたかもしれない。へらへらと笑う顔は見れば腹が立ったが、見られなければ見られないで物足りなさを感じたものだ。
ガキはガキでもいっぱしのふりをした思春期の思い込みは激しい。必然的に、惇の抱いた劣等感も強かった。
そんな数年越しの劣等感まみれの相手を組み敷いたのは、ただの鬱憤晴らしだ。
アツ坊と呼ばれながらも、モータースの技術を繋ぐために、親爺やおっちゃんたちの技術を教わる毎日は楽しかったが、『フォース』のでの日々はまた別枠で楽しかった。
『フォース』のリーダーだった竜矢のことを、京などは崇拝していたが、同じく車好きでたまにモータースのバイトにも来ていた縁で知り合った惇は、彼のことを兄貴分として慕っていた。
おそらく、惇が感じていた悲しみは、『フォース』というもうひとつの居場所がなくなってしまったことの方が大きかっただろう。
溜まり場に行っても、もう誰もいない。いつも一緒にいた樹壱でさえも、たまにあっても荒んだまま、行き会ったりばったりで関係ない目に付いたチンピラを殴るだけ。
やがて自分が薄情者のように思えてきて、それでも何もかもが悲しくて、嫌になって、憂鬱な気分でいたときに、真知子が傍に居た。
気のいいお節介焼きの性格を発揮して、仕事をサボる惇を探しだしては宥めすかして連れて行こうと手を引く女に魔がさしたのだ。
思ったよりも、油の匂いが染みついた手が柔らかかったのがいけなかった。