葛藤
みんなが、茫然とコウを見ていた。
何を言い出すのだ、と言いたげに。
昨日まで。一瞬前まで信じていた現実が、一気にひっくり返ってしまった。
耳から入ってきた情報が浸透していかない。まさかそんなという感情が、理解を拒む。
その場を支配しているのは沈黙だった。その沈黙が動揺へと代わり、驚きを経て疑問に変化する。
残酷な事実を告げたコウは、戸惑う者たちの様子を具に観察していたのだろう。頃合いを見計らったように沈黙を破り、努めて淡々と、説明を始めた。
〈ノアの方舟〉という新興宗教に見せかけた組織があること。その組織が作り出した麻薬によって、幸村竜矢が殺されたこと。本当の事故現場は急カーブの場所ではなく、そこから程近いまっすぐな道で起きたこと。
コウが話すどれもが、大切な仲間を失った彼らが、咽喉から手が出るほどに探し求めていた真実でもあり、なにひとつ救いを与えない無残な事実でもあった。
しかしそれを疑うことはできないだろう。
猛は、ここに居る全員が知っているコウを思い出し、軽く瞑目した。
猛に取ってそもそも視覚というものは、頼るには薄弱すぎる添え物のようなものだった。
弱視の目に見えているものは少なすぎ、けれど、影しか映さない視覚の代わりに反比例するように聴覚が鋭敏になった。
鋭敏な聴覚はまだ、自分を呼ぶ彼の声を覚えている。
猛、とぞんざいに呼びかけてはやってきた、初めての親友の声を脳裏に浮かべて、ユキ、と呼びかけることを、この一年何度繰り返したか分からない。
アルビノである自分は、多くの子どもが経験する学校社会に馴染めなかった。学校に通っていた記憶は既にない。齢が二桁にも届かないうちに不登校になり、年に数度やってくる担任を名乗るさまざまな背格好の大人を、母の後ろから眺めるのが猛にとって唯一の「学校」のイメージだった。家の中では馴染のない不思議な挨拶を告げてはやってくる「担任」たちは、最初のうちほど決まり文句のように、学校に来ようと誘ってくる。
とりわけ、年若かったり、女性であったりした方が、誘い方にうまく熱心さを含ませていたが、彼らが重んじている視線の強さを理解しえない子どもだった猛は、総じて彼らが見せる最初の気配に敏感だった。
なるほど、これでは仕方がない。
いつだったか、疲れ切った様子でやってきた中年男性の態度は、さしもの猛も内心で感嘆の声をあげるほどにはあからさまだった。新なんとか年生おめでとう、という謎の定型句もないままに、猛を一目みて溜息をついたのだ。
母が踵を返した瞬間のことだったから、親に気付かれなければそれでよかったのだろうが、目が見えにくい子どもという事前情報を鵜呑みにして気を抜くには、相対的に上がる聴覚に対する理解が足りなかった。
わあ、すげえ。こんなに分かりやすく、来んなって言ってる!
それを指摘するほどの無謀さはなかったが、受け流すほどの器用さもなかった。猛はその教師が家を出るまでの十五分で、あと何度彼が下手を打つか、面白がって数えていた。
猛は、自分がいかに奇異な存在かを理解していた。
黒髪に黒い目を持つ日本人の目には、白い髪に赤い目を持つ子どもの扱いなど困惑するだけだったのだろう。よしんば猛を学校に放り込めたとしても、これを受け入れて通常の友人関係を築くことを望むには、彼らは物事を知りすぎた大人であったし、異質に対する子どもの残酷さを目の当たりにし過ぎていた。
そんな理由で当然のように、猛は義務教育の九年間を家の中で過ごした。
幸いだったのは母親である。明るくてのんびり屋、突飛な発想の転換は猛の予想の斜め上を行くような天然な母は、猛の不登校が長引いたある日、一家そろっての昼夜逆転生活を提案した。
さらに幸いなことに、父の職業が新聞記者だった。夜勤を願い出ればむしろ感謝されるといった部署にいたこともある。もう一つ付け加えれば、アルビノの特徴として色素のない身体は太陽の光が害になるという面倒な性質を持っていたものだから、それなら夜にお外にでれば問題ないでしょう、と言うのだ。
一石三鳥と笑う母に、父も賛同してそれから我が家では午前と午後が逆になった。
そんな生活が何年も続き、猛にとって普通になった頃。
家から歩いて数分の場所にある中央公園で、あの男、幸村竜矢に出会ったのだ。
「あんたさぁ、ここで何してんの?」
彼が一番最初に猛に聞かせたのは、咎めるでもなく、揶揄うでもなく、単に疑問をぶつけて来ただけといった声音だった。通る度に毎回見かけていたから気になったと言う。バイト先で貰ったという肉まんを半分に分けて食べながら、初対面だとは思えない程にくだらない話をした。
そのうち、藤や仁、マサなどもその輪に加わっていく。彼らと会って話すことが、ただ純粋に楽しいと思えるようになり、夜になるのが待ち遠しくなった。
そんな中、星を見ている猛に、あの男が何を思ったのか。
「決めた! 俺がお前の太陽になってやるよ!」
ひどく驚いたのを今でも覚えている。ただ星を見上げていただけで、本当は太陽に対する憧れがあったのだということを見透かされたのかと思った。だが、彼の声に同情はなく、もしかしたら単なる思い付きで言ったのかもしれないと思う程度にはあっさりとした響きを持っていた。
けれど。
それから、猛にとって彼が太陽になったのだ。
夜の太陽。そばにあるだけで暖かい、恵みの光。
彼は宣言通り、猛を街に連れ出してくれた。幼い頃から無意識に諦めていたたくさんの「楽しい」を見せてくれた。
ぐっと目を閉じる。何度か間近まで迫って網膜に焼き付けた、親友の顔を思い出す。
「つまり」
思考するよりも感情的に、猛の口から言葉が零れた。だが感情が追いつくには驚愕が大きい。自然、口調はいつもより淡々とした無味乾燥な色合いを帯びた。
つまり、と猛は思う。
「俺は殺さなきゃなんねー奴が、いるってこと?」
猛から太陽を奪った者がいるのなら、それは万死に値する。太陽を奪われた人間がどれほどに生き延びられるものか。
「そうです」
間髪入れずに、コウが答えた。
猛としても、かなり毒を含んだセリフだと自覚していただけに、ピリリとした緊張が同心円の中に広がる。あのコウが、といくつかの視線が動揺に交わされているのを肌で感じながら、猛はニィと笑った。
パーカーのポケットに手を入れ、錆びついた自覚のある頭をなんとか回転させる。
なんせ、あのコウの持ってきた話である。まして聞きかじるだけで大きな話だと分かる話だ。宗教組織がひとつ。特殊な麻薬を作っているわりに、その目的が分からない。たかだか隠蔽目的で末端の運び屋まで殺していたらどこから足がつくか分かったものではないだろう。
だとすればこれは、仇を討ちに今からどこかへ押し入りに行き、憎い相手をぶち殺しにいきましょう、という安易な誘いではない。
周りにいる仲間を見る。視線を向けたように見えるだろうが、実際に猛が見ているのはその雰囲気だ。久々に感じるひりついた空気は、まるで勢力争いに明け暮れた日々のようで少し懐かしかった。
「どーする?」
ここにきて初めて、無言の不可侵を破った。後輩ではなく、昔の仲間に問いかけられて、彼らの雰囲気がまた変化する。
「どうもこうも」
口火を切った猛に呼応して、藤が覚えのある低い声を発した。
「けったいな話や。ユキが殺されたやと? ふざけんな! どこのどいつや、そんなことする奴!」
仁が言葉を継いで憤る。それを皮切りに、全員から苛立ち交じりの賛同が上がった。
「くそったれが!」
「俺たちだってコロシはやってねーっての!」
「竜兄が何をしたってんだよ……!?」
行き場のない悲しみが、やり場のない怒りに変わる。はけ口を探したところでここには仲間しかおらず、切れ切れに発された怒声は、すぐに勢いをなくして空気に溶けた。
「おい」
震えた声が声をあげる。ズッと洟をすする音は怒りで誤魔化しきれずに、藤の涙を知らせてきた。
「はい」
丁寧にコウが答える。『フォース』のリーダーは竜矢だったが、次点は藤だった。ここにはいないマサと、猛と仁の四人で四天王などと言われていたが、それは設立当時の話である。有事の際に、揃い踏みすることで仲間の士気は上がっていたが、普段何かあったときに誰からも声をかけやすいのは藤だったから、いつしか彼が次点として扱われるようになった。
「俺らなんかに、何ができる?」
藤の問いは他を代表したそれだった。
分かりきっているのだ。どれだけの虚勢を張っても、粋がって殴り合って、渋谷一強の『フォース』を作ってきたとしても、それでどれだけの者に慕われていたとしても。
彼らはただの無学者で、大して頭がいいわけでもなく、大それたことができるはずもない。社会に爪弾きにされた小悪党たちが徒党を組んで居場所を作ってきただけの存在だ。社会の底辺で足掻きながら、底辺は底辺なりに、テレビで流れてくるニュースの欠片も分からないまま、そこそこの人生を送るしかない。
いくら『フォース』でも、ヤクザに喧嘩を売ったことなどない。曲がりなりにも権力を持つ組織が、どれほどに理不尽で凶悪か知っている。たかが腕っぷし頼みの若造が山となって殴りかかっても太刀打ちできるものではないと分かっているからだ。そんな人間に、本当に復讐なんかができるのか。
藤の問いに、コウは初めて困惑を見せた。
「こー」
なんと答えたらいいのか。それが分からないのだろうということは分かった。せめて道筋でも教えられたらいいと思いながら、猛は口を開く。
「どーしてほしい?」
単純な話、仇を討ちたいか、討ちたくないかでいえば、絶対に討ちたいと答えることができる。
だが。
「俺たちにはなんの力もない。殴れって言われたら殴る。殺せって言われても、殺せるかもしんない。でも、誰を? どうやって? それが分かんねーんだよ」
どうすればいい?
こういうときに、猛は自分たちの弱点を痛感する。竜矢のいなくなった『フォース』は、すぐに解体した。その理由が、幹部が全員、彼の後を継がなかったからだ。
幸村竜矢という人間は、そういう意味で真実リーダーだった。仲間たちの、親友たちの、どうすればいい? に必ず答えを与えてくれる男だった。
甘えていたというのならば認めよう。それでも、今でもやはり必要なのは、どうしたらいい? という問いへの答えなのだ。
「センパイの癖にさ、ふがいなくて、ごめんな、こー」
任せろ、と言ってあげられるような頼りがいのある大人であればよかったのに。ない袖は振れない。悔しいことに自分たちは、誰かに指揮をしてもらわないと進む方向さえも分からない者たちばかりなのだ。
彼らの不安を、コウはようやく読み取ったらしい。瞠目する気配が見える。それは、広い背中を追いかけていたと思ったら、案外それが間近にあった、というような気配だった。
「仲間がいます」
幾分か、明るい声でコウが言った。
「そいつらは、とても優秀で、〈ノアの方舟〉を消すために、何年もかけて動いてきました。ここ数年で、いろんな伝手を作って、やっとなんとか、警察とかマトリとか、そういうところと協力しあえるようになった」
権力は手に入れつつある。足りない情報も少しずつだが集まってきている。
焦る必要はないと分かったことで、気分が落ち着いたらしい。分かりやすい言葉を選んで、コウはゆっくりと言葉を紡いだ。
「でも、人数が足りないんです。何かをするのにも、人がいる。例えば」
今日、この道を封鎖するのに、二手に分かれることならばできた。だがこの道が、四辻だったとしたらどうだろう?
人手が足りないというのはそういうことだ。信頼さえできていたら、だれでもいい。そんな仕事を、未来やキロのような特殊なことができる人員を配置していることからも如実に窺える。
「俺たちにしか、できないことがあります。先輩たちにしか、できないことも」
真摯に告げるコウの声に嘘はない。復讐の力になれるならば、それに否やがあろうはずもなかった。
「駒でいーの?」
ふと、前にコウがヤクザの組長を相手取って将棋の勝負を仕掛けたことを思い出した。組同士の小競り合いに巻き込まれ、竜矢が身に覚えのない疑いで指を切り落とされそうになったときである。
大した証拠もなしに言いがかりをつけるのかと激昂したコウは、組の者が用意した指切り用の分厚い足つきの将棋盤を前に、大上段に勝負を持ちかけた。
結果は辛勝。その勝負の間にできた時間を使って真犯人を引きずり出し、首の皮一枚繋がったところで手打ちになった。
あのときのように、盤の上の駒となることならばできる。復讐という盤上で、ただの歩兵が成り金になる程度ならば健闘できるだろう。
「できれば、角と飛車もほしいです」
それでいいのかと尋ねた猛に、ほんの少しおどけたようにコウは言い、ありがとうございますと頭を下げた。
 




