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KANAN Ⅰ  作者: 真柴 亮
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日常 2



「ごめん、父さん。待ってた?」

「いいや。仕事が早く終わったからね。もしかしたら君が帰ってくる時間なんじゃないかと思って」

 ドアを開けて素早く車内に滑りこむ。何かあったかと疑問を込めて問えば、笑った父は単なる気まぐれだと首を振った。

「まあ、そうだろうと思ったけど」

「うん、そうだろうね」

 穿った言葉の割に、疑いの色は薄かった。迎えが玲の愛車であったことからもそれは察せられたらしい。秘すべき何事かが起こったのであれば、こんな目立つ外車ではなく、どこにでもある国産車で待ち伏せていただろうというのが大きな理由だ。

 父子揃って軽い調子で頷き合って、玲はアクセルを踏み込んだ。

「母さんは?」

「仕事だって。コウくんが来てからあれこれ根回しが忙しいみたいだね」

「キロ兄も一緒だといいんだけど……」

「一緒じゃないかな。イシの方に行くって言って、スーツ着てたよ」

「ふぅん……」

 イシに行くならばそうなのだろう。この国の中枢が、キロの庭だ。るいとしては、母が孤軍奮闘していないだけで安心なのだが、玲にとってみれば溺愛している妻が仕事とは言え他の男と一緒なのだから、面白くないに違いない。今浮かべている笑顔もどちらかと言えば作りものめいた顔の方だ。苛立ちとも呼べないむしゃくしゃの結果、気まぐれにるいを迎えに来たらしかった。

 ともかくも、車は家路を辿っている。おそらく途中のスーパーで買い物をする予定だろう。穂を甘やかすことに心血を注いでいる玲のことだ。手のうちに収まっていない分だけの愛情を詰め込むべく、腕に寄りをかけた晩御飯を用意するに違いなかった。

「君も大変だね。学校って楽しい?」

 父の行動を読み、黙って鞄を肩から下ろした息子をバックミラー越しに見やり、玲は呆れを滲ませた声を寄越した。それに微笑み、るいは頷く。

「面白いよ、学校も」

 教科書が詰まった重い鞄がなくなれば、その身は軽い。弾力の良い背もたれに身体を埋めて緩く目を閉じる。それを、拒絶ではないと知っている玲は構わずに続けた。

「そういうとこ、本当に穂にそっくりだよね」

「父さんじゃなくって?」

「僕の思いもよらない発想で世の中を楽しむところは穂に似てるんだよ」

「どうかな。平凡なだけだよ」

 平和がいいと思っているだけだ。この世の中に理不尽があることを否応なしに理解しているだけで、るいが願うのはいつだってのんびりとした毎日を送ることである。

 だが、ありきたりな願いを口にした息子に対して、玲は微笑みそれを一蹴した。

「本当に平凡な人間はね、自分が平凡であることすら自覚しないものなんだよ。特にるい、お前みたいな、中学生が口にする台詞じゃない」

「だからって、自分が非凡だというのは、ちょっと趣味じゃないなあ」

 平凡だと言うのが謙遜が過ぎるというのなら、非凡だと言うのはもっと尊大に過ぎると思うのだ。唇を尖らせて言った息子に、玲はあははと声を上げて笑った。

「うん、やっぱり君のそういうところ、穂にそっくりだよ」

 好ましい、と玲は目を細める。全てを見透かすとまで言われた玲の頭脳は、穂と出会って以来予測できないことばかりで実に楽しい。

「だけどね、君は僕にも似ている。だから結構心配しているんだよ」

 性別のせいか、言葉が出るのは遅かった。だが、一旦喋り出してしまえば、歩き始めたばかりの息子が、自分と同等の、もしくはそれ以上の頭脳を持っていることは明白だった。今はまだ使いこなせていないようだが、優秀すぎる脳に詰め込めるだけ詰め込んだありとあらゆる知識が活かせるようになったとき、るいの世界は一転するだろう。その変化が、悪い方向に向かなければいいと玲は思う。穂と出会うまでの玲が過ごしてきたような、砂を噛むような無味乾燥な毎日を送ってほしくはない。自分にもそんな親心があったことにすら驚きつつも、これが玲の掛け値なしの本音だった。

「だったら、父さん。日々の生活に多少の豊かさが必要だと思わない?」

 目を閉じていたはずのるいは、いつの間にか身を乗り出して前方に視線を向けていた。なんのことだと一拍半、反応に遅れた玲は、その視線の先にある青い屋根の洋菓子店を見つけて合点する。

「さしずめ、君のお目当ては冬季限定のケーキかな?」

「だめ?」

 クリスマスも近いと言うのに、自分に似て甘いもの好きに育ってしまった息子たちは、揃ってお菓子が大好きだ。クリスマス商戦に合わせて出回る苺を使った季節限定や、暑さで溶ける心配のなくなったチョコレートケーキの種類が豊富になる時期でもあり、実を言えば玲にとっても垂涎ものの提案である。さらに言えば、無邪気に物をねだる弟と違って、滅多に我が儘を言わないるいからの要望には、なお甘い自信があった。

「全く、君には敵わないなぁ」

 ふふ、とるいは微笑んだ。玲の心配事など杞憂だと言わんばかりの穏やかなそれに苦笑を返しながら、目に見え始めた洋菓子店とは反対の方向へウインカーを出す。

「父さん?」

 聡い息子は、玲と同じだ。相手が次にどう反応するかを計算して振る舞っている。それは頭で考えてわざわざ行っているものではなく、呼吸をするのと同じように行われていることだった。

 今、るいは父の悩みを聞いて、心配がないと伝えるためにわざと子どもらしいおねだりをしてみせた。それを受けた玲は、その了解を伝えるために、しょうがないなあと口では言って見せながら青い屋根を目指す、というのがこの場合に予測された言動だ。

 いぶかしむるいに、玲は茶目っ気のある笑みを見せる。予測を覆される驚きは、何度味わっても気分が高揚するものだ。たまには自分が仕掛ける側になるのも一興だろうとやってみたが、案外悪くない気分が味わえた。

「どうせなら、駅前のパティスリー・サワに行こうと思ってね。この近辺ではあそこは中々の味だろう?」

「サワさんだったら、母さんの好きなエッグタルトもあるし?」

「よく分かってるじゃないか」

 無類の甘いもの好きの玲とは違い、おやつの習慣がない環境で育った穂は甘味に対する興味がない。ふわふわしたクリームよりも腹持ちの良さを優先する合理さも相まって、玲たちが好きな洋菓子は好まないのだ。

 十人十色でどんな考え方があってもいいと思っている玲だが、穂のその部分だけはどうしても相容れないと思っている。できれば甘いお菓子を頬張って幸せそうに笑う穂が見たかったし、自分のケーキをひとくち差しだして食べさせるというような甘いやりとりもしてみたかった。「あーん」は他の食べ物で代用ができそうな気もするが、お気に入りの店で選びぬいた逸品を寝室で食べると言う甘美なシチュエーションには及ばない。

 とは思うものの、穂の分を買って帰らないという選択肢が玲の中にあろうはずもない。己の望むシチュエーションには程遠いものの、家族団欒で甘いデザートに舌鼓を打つのも確かな幸福には違いないのである。

「サワさんに行くんだったら、一緒にフィナンシェも買ってくれる? 日曜日にもみじがうちに来て勉強会するんだ」

「それはいいね。不公平はよくないから、友生にも買っていこう」

「ユイはあそこならマドレーヌの方が好きだよ」

「なら、あの子にはマドレーヌにしようか」

 予定調和に包まれた穏やかな会話が車内を飛び交う。同じ速度で会話ができる心地よさにふにゃりと笑ったるいをミラー越しに見た玲は、ちょっとした意趣返しに、そこから読み取った顔に微笑みかけた。

「おそらく、明日は熱が出ると思うから、頑張って二日で下げるんだよ」

「…………そんなに、悪い?」

 窺うとしたら顔色しかない。ぺたりと白い手で頬を押さえてるいが呻く。生まれてこのかた見守り続けている息子の顔色を玲が読み間違えるはずもなく、今夜遅くから発熱がある兆しがあった。

「栄養のある晩ご飯も作ってあげるから、ゆっくり休むんだよ」

「……はぁい……」

 不承不承の返事が聞こえる。今週の皆勤賞を目前にしての予言だったから、不本意さは一入(ひとしお)だろう。意趣返しとしては意地悪すぎたかと思ったが、事実は事実なので飲みこむしかない。

「まあ、いいか」

 死ぬよりは。軽い調子で呟いた息子が声に出さなかった続きを読み取った玲は、複雑な笑みを浮かべた。物わかりが良すぎるのも、玲がるいを心配する理由のひとつなのだ。だが、それを指摘したところでこの子はきょとんと目を丸くして首を傾げるだけなのだろう。そういうところも穂にそっくりで驚いてしまう。

 右へとウインカーを出していた玲は、信号の色が変わったことを確認するとアクセルを踏み込んだ。そのまま車道を横断して目的のパティスリー・サワの駐車場に滑りこむ。都内でも人気の洋菓子店だけあって、都心にしては広い駐車場のほとんどが埋まっていた。後ろを見ると、外した防寒具を完備したるいがそわそわと停車を待っている。

 この無意識な子どもらしさがあるうちは大丈夫かと苦笑を零しながら、玲は空いたばかりのスペースにゆっくりと愛車を停めた。

 外にでれば白い息が鈍い色をした空に昇っていく。見上げた先から白いものがちらちらと舞い始めていることに気が付いた玲は、身体の弱い息子を思いながらその肩に手を置いた。

「温まるし、今日はシチューにしようか」

「やった。オレ、父さんのシチュー大好き!」

 促されるままに歩を進めるるいが頬を上気させて振り返る。赤く染まった頬が、寒さのせいか、玲の予想よりも早く上がり始めた体温のせいなのか、判別は付かない。

 早く行こうと腕を引かれるままに暖かな店内に入ると、甘く幸せな香りに包まれて顔が緩んだ。目を輝かせてショーウインドーを覗きこむるいは、ずらりと並ぶ色とりどりのケーキに魅了されてしまっている。

 ふと悪戯心がのぞき出し、気の赴くままに手を伸ばした玲は、久しく撫でていなかった柔らかな髪をさらりと撫でた。




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