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KANAN Ⅰ  作者: 真柴 亮
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日常 1



 教室の窓を叩く風が冷たい。この風が吹きすさぶ外に出て行くには、覚悟が必要だろう。去年のクリスマスにもらった水色の手編みのマフラーを首に巻いたるいは、学校指定の茶色い革鞄を背負いあげ、クリーム色の手袋を嵌めてそっと息を付いた。

 チャイムが鳴り終わった校舎からは、次々と生徒が下校を始める。十五分後に鳴り響くもう一つのチャイムで部活動が始まるからだ。帰宅する生徒はそれよりも先に校門を出ていないと、部活動をしている人たちの邪魔になってしまう。

 これから部活に行く、急ぎ足の友人たちと挨拶を交わしながら廊下を進み、靴を履いたところでるいは足を止めた。

 いつもならば先に来て待っているはずの幼馴染の姿が見えない。どうしたのだろうと考えながら、今朝の少女の出で立ちを思い出す。おはよう、といつものように笑顔で手を振った彼女の手は、体操服を入れた大判の布バックを提げていたはずだ。その姿を糸口にして、廊下から眺め見た時間割を思い出すまではほんの瞬きひとつのことである。

「そっか、もみじ、体育だ」

 るいのクラスと一週遅れで、今週からバスケットボールの授業になるのだと先週の帰り道に嬉しそうに言っていた。体育館の更衣室は教室よりもかなり狭い。優しい気質を持つ彼女が、先を急ぐクラスメイトに場所を譲り、着替えが遅くなることは十分に考えられる。

 さて、どこで待っていようか。

 思案を始めたるいは、邪魔にならない場所を見つけるよりも早く、こちらに向かって駆けてくる少女を見つけた。目が合うとパッと笑顔になる。秋生まれでもみじという名前を持つ可憐な少女は、声を弾ませてるいへと手を振った。

「ごめんね、るい! 着替えてたら遅くなっちゃった!」

「大丈夫だから、転ばないでね」

 さっきまで体育館で授業を受けていた少女の頬は紅潮している。

 慌てた様子で駆けてくる幼馴染に注意を向けた矢先、るいの注意もむなしく、急いで走り寄ってきた少女は足を滑らせた。

「ひゃ……!」

 細かい砂を含んだ簀子は滑りやすい。予測に違わぬ場所で体勢を崩した少女をまるで予定していたかのように受け止める。

「気をつけて、もみじ」

「ご、ごめんなさい……」

 思ったよりも語気の強い声が出る。注意までされていたのに迷惑をかけたともみじは眉を下げているが、るいが言っているのはそう言うことではない。転びそうになるもみじを抱きとめて助ける程度のことはいつでもできるが、柔らかな身体に触れる度に心臓が早鐘を打つことを彼女は知らないのだ。

 子どもの頃とは違う甘い匂いや、女子特有の柔い感触がるいを動揺させる。どれだけ、もみじが転ぶ場所を計算しても、自分が思い描いた通りに助けられても、その動揺は身構えたところでどうにもならず、慣れる気配すら見いだせなかった。

 持て余し気味のこの感情を玲に相談すれば、訳知り顔でそれは恋だと保証してくれたが、遅咲きに穂を見つけた玲と違って、るいは自分の恋心を三つのときから自覚している。それだというのに、ここ最近の動揺具合はますますひどくなるばかりだ。

 年齢に比例して倍化するのでなく、年齢の数だけ自乗されていっているのではないかと、るいは思っている。Xと仮定した年齢から出会った三歳分を引いた数を乗数と置けば、元となる数を二としても四歳で二倍、五歳で四倍。今度の誕生日が来れば十四歳で、二の十一乗。出会いを二の零乗で一とすれば、二千四十八。実に安直で馬鹿馬鹿しい計算式だったが、あながち間違いとは言い切れない部分があるのも事実だった。

 靴を履くために座ったもみじに見られないように頭を振って、気分を切り替える。立ち上がる少女に無意識に差しだした手は、当然のように握られた。るいの思考はなんとか踏みとどまってくれたようだ。

 下校時間も迫っている。るいは幼馴染の少女と連れだって門をくぐった。

 帰り道、会話の内容はとりとめもないものだ。今日の主な話題は、近づいてきたクリスマスに関係するもので、もみじは母親からのプレゼントに新しい服を買ってもらう約束をしたのだと嬉しそうに笑った。

「それでお母さんがね、今度渋谷の服屋さんに連れて行ってくれるって言うの。でも、お父さんが、お父さんが一緒じゃないと駄目だって」

「最近はそうでもなくなったけど、去年あたりから物騒だったからね、あそこ」

 君子危うきに近寄らずである。『フォース』の代替わりに伴う騒ぎは沈静化してきたものの、まだ秩序が戻ってきたとは言えない。その上、穂が手を付け始めた薬物問題も勃発しているのだ。大切な幼馴染が危険な目にあう確率はできる限り下げておきたい。

 実際、学校でも渋谷に行くときは大人と一緒に、十分に気をつけてという注意が何度も配られていた。渋谷区の塾に通っている生徒の中で、少し遠くだが安全な区の塾に変えたという話も聞く。

「渋谷、行ってみたかったのになぁ。お父さん、土日にお休みの日、年明けなんだって」

「……そうか、残念だね」

 オレが一緒に行ってあげようか、という言葉が咽喉元まで出かかった。一拍おいてそれを飲みこみ、当たり障りのない相槌をなんとか舌に乗せる。

 背丈こそもみじを超えているが、病弱加減と華奢さは折紙付き。綺麗といえば聞こえはいいものの、細身の身体に引きずられて女子と間違えられることの方が多いのだ。もみじのためならば休日にボディガードの真似事をすることもやぶさかではなかったが、もみじの父親は警視庁に勤める刑事である。流石に本職を相手にして、るいに代わりが務まるとは誰も判断するまい。もみじと母親のお目付け役として同行したところで、か弱い女子供三人組と思われて、余計に狙われる確率の方が高くなってしまうだろう。

 もちろん、そんな相手を蹴散らすくらいるいにとっては造作もないことだが、そもそもそんな相手に狙われない方がいいに決まっている。とすれば、男子に見える格好をしても威嚇さえならないるいの外見は役に立つどころか、難癖をつける餌になってしまうのだ。

 残念そうに溜息をついたもみじに隠れて、己の不甲斐なさにそっと溜息をついた。

(せめてコウ兄くらい、男の人に見えればな……)

 彼も綺麗な顔立ちをしているが、れっきとした男にしか見えない。女顔とからかわれていたと渋面を作っていたが、それは比較対象になった顔が悪かったのだろう。女性と並べた場合には男に見えるのだから羨ましい。

「るい、聞いてる?」

 ぼんやりと考えていたら、目の前にもみじの顔があった。かわいいな、と思いつつ、顔が当たらないようにと慌てて足を止める。

「聞いてるよ?」

「どうしたの? 熱があるとかじゃない?」

 顔を覗きこむ拍子に長い黒髪がさらりと揺れる。首に巻いたさくら色のマフラーは、去年もみじが編んだお揃いのものだ。

「うん、ごめん。ちょっと考えごとしてて……」

 どうやったら見た目でももみじを守れるようになれるか考えていただけだ。玲のように面と向かってそれを告げる勇気はなかったが、もみじが心配しているようなことはない。安心させるように笑って見せるが、幼馴染の大丈夫は信じられないことが多いと学習しているもみじは、疑い深い目でるいを見上げてくる。

「本当に?」

「本当だってば。ほら」

 信用がないなあ、と苦笑いしながら、るいは先んじて顔を近づけ、額を合わせて見せる。こつんと合わさった額からはじんわりとした熱が伝わり、嘘がないと知ったもみじがホッと息をついた。

「ね、今日は大丈夫。もみじがくれたセーター、暖かいから最近風邪引かないんだ」

「ならいいんだけど……」

「ところでなんの話してくれてたの?」

 もみじが納得を見せたところですかさず話題を変える。先週は三日も学校を休んでしまったことを持ち出されたら反論ができないからだ。今週は珍しく木曜日の今日まで皆勤賞なのである。明日も熱が出なければいいなとは思うが、それは運しだいだった。

「あのね、日曜日、もし何も予定がないんだったら、勉強教えて貰えないかしらと思って……」

「日曜日って今週の?」

「うん。るいの家、行っちゃだめ? 数学の証明問題が難しくって、ワークを解いてみてもよく分からないの」

 しょげた顔をするもみじに、るいはそういえばもうすぐ学期末テストだったと思い出した。月曜日が範囲の発表だと、昨日のお知らせに書いてあったはずだ。

「いいよ。母さんにも言っとく。ちょうど日曜日はユイが空手の寒稽古の日だから、静かに勉強できそうだしね」

「ほんとっ! ありがとう!」

 嬉しそうに微笑む幼馴染に頷いてみせる。できれば日曜日は熱がでなければいい。この笑顔が心配そうな泣き顔に変わるところは見たくなかった。

 るいの意思に反して、この身体は熱を出す。前触れもなく、対策もない。微熱か高熱かも、出てみるまで分からないという博打具合は、さすが、三つのころから余命宣告を受けっぱなしなだけあると感心さえしてしまう。小学校からエスカレーター式の中学では、るいの身体の弱さは知れ渡っていて、仲が良い他クラスの生徒などは、るいを学校で見かけると、毎回驚くほどである。

「証明問題って言うと、合同とか?」

「そう、合同。基本の証明はできるんだけど、応用になるとどことどこが対応してるか分からなくなっちゃうの」

「ワークの問題、いじわるだしね」

 見た目で惑わせる引っかけ問題が多いのだ。テストにもそれらの内どれかが出題されるだろう。早めのテスト対策としては、最善策とも言える。

 好きな子に頼りにされれば嬉しいものだ。中学の範囲は全て履修済みのるいにとっては簡単な証明問題でも、万が一に備えて、もう一度ワークの問題を解き直しておこうと、今日の予定を追加する。

「あれ、父さんだ」

 もみじとの分かれ道の先に、見覚えのある銀の車が停車していた。

「こんなところに迎えに来るのなんて、珍しいのね」

「なんだろう? オレ、何も聞いてないんだけど……」

 いつもの迎えは、体調を崩してしまったるいの迎えなので学校の駐車場に停まっている。学校にあるとあまり目立たない外車だったが、路肩に停められたJAGUARはひっそりというにはいささか主張が激しい。からかい気味のもみじに苦笑を返しながら、るいは頷いた。迎えに来るとは聞いていない。何かあったか、気まぐれを起こしたか。どちらにせよ、迎えが来たのならば車に乗るしかるいに与えられた選択肢はなかった。

「じゃあね、もみじ。また明日」

「うん、また明日ね」

 手を振って別れを告げる。いつもと同じ調子で少女の背中を見送ったるいは、踵を返すと早足で銀の車に駆け寄った。





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