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KANAN Ⅰ  作者: 真柴 亮
14/36

二人 3



 車から降りて、コンクリートで出来た外階段を上る。最奥の部屋が未来の部屋だ。鍵などかけていない玄関扉を無造作に開けると、暗がりの中に人の気配がした。

 来ていたのか。思考に上るともなく、未来はそれを知る。

 いつの頃からか、家移りするよりも前に、キロはこうして未来の部屋にやってくるようになった。未来がいるといないとに関わらず、鍵のかかっていない部屋に来て、眠って行くのだ。今日も、ソファベッドの上に丸くなって寝ていたようだった。ドアが開くと同時に目が覚める。それは未来も同じことだ。起こしたことに気がねする必要もない。スーツを脱ぎ捨てたキロは、闇の中で目だけを大きく開けて、未来を見上げていた。

 およそ、この部屋の中で会話というものはない。無口なキロも、おしゃべりな未来も、互いを相手にしては言葉がいらないと思っている。事実、互いの考えることは手に取るように分かったし、言語を介さずとも意思の疎通は十分だった。

 未来のことをおしゃべりだと評す者は多い。その実、未来は一言も声を発さなくても生きて行けると思っている。己を覆う膜として、寡黙か多弁かを選ぶだけだ。どちらも苦ではなく、ただ己を守る手段として適切な方を選んでいるだけである。

 そして、キロを相手に覆う膜は必要がなく、自然に選ばれたのが沈黙だった。

 未来が持つ家財道具はほんのわずかだ。その中のひとつにソファベッドがある。折りたためばソファになり、引きのばせばベッドになる。クッション素材でできた簡素なそれは、キロが来た時にだけその形をベッドに変えた。申し訳程度の薄っぺらい掛け毛布にくるまっていたキロは、未来が鞄を下ろす音を聞いて身じろぎし、ベッドの半分を未来に明け渡すと毛布の端を持ち上げた。ひんやりとした空気を纏ったまま、未来はそれに従ってキロの懐に潜り込む。ふたりを包むように毛布が掛けられて、おそらく同時に目を閉じた。

 あと一時間もすれば、キロはまた起きて外に出て行くのだろう。残された未来は、ベッドの形をした家具の上で膝を抱え、毛布を手繰り寄せて睡眠をとる。だから、こうして二人で身を寄せ合って暖と疲れを取ることができるのはほんのわずかのことだった。

「ん、ぅ……」

 身じろぎをしたキロが、毛布の中に頭を潜らせた。反射のように頭を抱き寄せたのは、その方が温かいと知っているからだ。

 たまに、自分が嫌になるときがある。そんな時にこうしてキロに触れ、肌で温もりを感じるのだ。そうすると、ささくれだった妙な気分が僅かな熱に溶けて消える。

 あえてこの関係に言葉をつけるならば、依存だろう。互いが互いを必要としている。だが、決して彼らは同類ではなく、ともすれば水と炎のように真逆の道を行かねばならない存在だ。

 人に話せば呆れられるような人生だと自覚している未来でも、キロのそれとは比べ物にならないと思っている。

 話さない本人の身の上など、人から伝え聞くにすぎないものだが、キロのそれは群を抜いていた。

 望まれなかった子ども。

 ふたりの共通点はそれだけである。未来は母に望まれず、キロは母にしか望まれなかった。未来は欲望のままに生き、キロは無欲を強いられて息を繋いでいる。

 キロを見たのも、事務所でのことだった。

 茫洋とした表情からは何も読み取れなかったが、事務員たちがお茶くみに向かった先での話では、ある大物議員の隠し子で、本妻に隠れて相応の教育をしてほしいと頼まれていた父が、数年ぶりに親子を引きあわせているところであることが伺えた。

 その時、未来は中学二年生であり、おそらくとの注釈つきで教えて貰ったキロの年齢はひとつ下のものだった。

 彼はこれから、父親の許でさまざまな教育を受けさせられるのだと彼女たちは声を潜めた。まだ子どもなのに。そう言って批難する声音は多くの同情を含んでいたが、守秘義務がある彼女たちにできることはせめて一杯の美味い茶と茶菓子を少年に勧めることだけだった。

 それは未来の父でも同じだった。

 弁護士と言う職は、依頼を受けて初めて成立する。少年の窮状を知っていても、依頼がなければ何もできない。父が受けた依頼は、その議員の専属弁護士として訴訟を起こされれば対応するというものだけなのだ。

 これから少年の日々は、未来が予想もつかないものになるのだろう。

 興味をそそられて、それから数日間後をつけた。未来のわざとらしい尾行にしびれを切らしたキロが煩わしそうに振り返ったとき、これ以上なく高揚した気分を未来は今でも覚えている。

 キロが与えられたのは、年の離れた異母兄の影となる人生だった。それ以外に彼が持っているものは何もない。その中でキロが穂の活動に手を貸していられるのは、それが異母兄の利となるようにキロが調節しているからに過ぎないのだ。あたかもそれが仕事であるかのように見せかけて穂に便宜を図っている。

 ギリギリの綱渡りは、未来の好むスリルそのものだった。やってみたい。そう思うのは、親の言動を真似したがる子どもの我が儘と根底は同じである。

 羨ましい。そう思う自分がいることを、きっとキロは知っている。

 決して羨望に値しないことを知りながら憧憬を向けられるのは、どういう気分なのか、未来には分からない。

 ただ、それを許すかのように、彼は一度だけ未来に対して口を開いた。聞かされたのは彼の名前だ。感情、時、本当の名前。全てを凍らせることで生き残り続けた彼が齎した空気の震えは、未来にだけ赦された音になった。

 それから、この屋根の下で空気を振動させるのは、互いの名前のみとなった。

 未来は目を開けて、もう一度目を閉じた。小さな寝息が胸のあたりから聞こえてくる。その音に誘われて、未来は意識を闇に落とした。

 今は、キロがいる。温もりのある闇は安らぎを齎し、束の間の休息を約束した。

 彼らは眠る。二匹の獣が身を寄せ合うようにして、僅かに赦された安穏を必死に享受するのだ。

 やがて、夜の(とばり)が明けきってしまうそのときまでは。




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