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KANAN Ⅰ  作者: 真柴 亮
13/36

二人 2


 中学進学を期に東京に移り住んだ。

 これだけを聞けば子煩悩な良い家庭を想像するだろうが、実際のところそんな事実はない。未来に対してそんな事実はない、と言った方が正しいだろうか。ともかく、生家の中で未来の居場所は一部屋どころか足の裏二つ分さえあるかどうか疑わしいものだった。

 未来の家はいわゆる資産家である。

 元々は下の上に近い武士の家系で、代々男児が生まれたことでお家断続することもなく、日露戦争で家長も後継も武勲を上げたことで良い俸禄がもらえたそうだ。その武勲を上げた後継の妻になったのが、未来の曾祖母に当たる人で、大層な美人で有名な商家の娘だった。武家が商家の娘をと蔑まれることもあったそうだが、曾祖母はそれをうわまって余りある程に(したた)かだった。太平洋戦争が始まるまでの間に、家の財で高利貸しを成功させ、そこから得た財でいくつもの土地を買い取った。慈善事業も兼ねていたらしく、それらの土地は全て、戦争で夫をなくしたり、後継が生まれずにお家を断絶せざるを得なかった武家屋敷だった。

 当然、江戸の武家屋敷であるから、現在の一等地である。第二次世界大戦の空襲で焼け野原になったことで屋敷も庭も更地になった。戦後の復興で広大で質の良い土地を望む人が増えたときを売り時と見定め、いくつかを売り払い、いくつかを貸した。

 もっけの幸いだったのは、自分たちの屋敷が無傷だったことである。そのころ彼らの居住地は、江戸を離れた武蔵にあった。今で言う埼玉である。空気が汚れたことで、娘の小児ぜんそくが酷くなったことを憂えた祖母が、田舎に移り住むことを提案したのだ。

 お陰で、家財も家族も何もかもが無事だった。戦禍にまみれたご時世に、曾祖父も曾祖母も持病を酷くして死んだというのだから平和な話だ。

 元のお屋敷があった場所は、他の武家屋敷と同じく全焼し、今ではどこかの大企業になった財閥に高値で売れたと聞いた。

 そこからは芋づる式に財が増えていくばかりだった。増えた財を投資し、株主になってはまた儲けた。その才覚があったのはそのころ当主として君臨していた祖父である。曾祖母の手腕を間近で見ていた祖父は、日露戦争だけでなく、太平洋戦争でも武勲を上げて戻ってきた曾祖父に似て豪胆な性格であり、ハイリスクハイリターンの投資ばかりを好んでやった。当然、賭けに負けもする。だが、一度負けて三度勝つといった具合の投資では、儲けの方が当然多い。

 かくして、なんの取柄もないと揶揄される田舎の土地において、気の赴くままに豪邸を作り、億万長者と謳われるようになったのだ。

 しかしながら、祖父の才覚は家の中に向かなかった。そして、明治維新からの疾風怒濤の時代に幸運にも男児に恵まれた家が、ついに女児ひとりしか生まれないという憂き目を見た。

 故に、未来の父は婿養子で実権がほとんどなく、祖父母も健在。五人いる使用人のうち、三人は長年雇い続けているばあや(・・・)ばかり。自然、箱入り娘として育てられた母の我が儘は大抵通った。

 我が儘放題で育てられた割に、性質の悪い女ではないと未来は思う。贅沢ではあるが散財し放題というわけでもない。銀行に眠っている多額の財を見れば、微々たる程度のものを欲しがる。流行りの安全志向に目覚めて、野菜はオーガニックではないと、などと言い出したかと思えば、大河ドラマにかぶれて着物を引っ張り出してきては姫君の真似事をしてみたりする。児戯のような我が儘は、座っていても大金が舞いこんでくる生活に彩りを添えたし、退屈な日常の中に必要な明るさを家庭に齎した。

 母が通した我が儘で、最も質の悪かったのは、我が子へのものだけである。その全てが未来に降り掛かった。何のことはない。彼女は自分を可愛がるあまり、自分の子も娘だけが良いと主張したのである。

 それだけと言えば、それだけのことだった。

 この子も女の子だったらよかったのに。

 未来が生まれてすぐに実の母から貰ったものは、落胆の溜息だけだった。未来という名前ですら、女名ばかりの命名候補の中から、なんとか男にも使えそうなものを父が選んだ。母が考えたときには「みく」と読むはずだったそれを、「みらい」という読みに変えたのは父の慈悲だろう。

 双子だったことが、功を奏した。大人になってから、未来はそう自分の置かれた環境を分析している。二卵生だったために、一度目の妊娠で二児を得た。そのうちの一人が未来だったが、もう一人が母の望む女児だったのだ。

 もしも、と未来は思う。妹が一緒に生まれていなかったならば、息子として存在した未来への憎悪は、まっすぐに未来に注がれていただろう。

 母が目を掛ける対象として妹がいたからこそ、未来は放って置かれるだけで済んだ。

 泣けばあやす使用人がいる。作った乳を与えることも、汚れた襁褓(オムツ)を変えることも、母屋から遠い離れの一角で泣き喚きながら待っていれば、年若い使用人の誰かが気が付いて世話を焼いた。

 母は、泣き声が聞こえて眉を(ひそ)めるだけでよかったし、歩けるようになってから姿を見せる未来を無視するだけでよかった。時折、目障りがすぎると庭に放り投げられたが、曾祖父から続く剛毅な性格は、未来に受け継がれている。次第に母に対する理解を深めた幼子は、媚びを売ることなど考えもせずに、母の愛をさっぱりと諦め、思いついた仕返しを母に仕掛けるとき以外、母屋に近付かなくなっていった。

 己の在り方が歪なのは分かっている。元から歪だったのかもしれない。だが、家のせいで歪なのかもしれない。考えても詮無いことを考えるのは老後の楽しみにとっておくことにしているから、堂々巡りの答えを深く考えたことはなかった。

 家に居ては発言権のひとつもない父親だったが、彼も未来の状況を見てみぬふりするほどの悪党ではなかった。ただ黙って目配せをすることで未来を外へ連れ出し、かといってどこかへ遊びに連れて行くというような機転も利かなかったから、未来の居場所は専ら父の事務所になった。

 家でこそうだつの上がらない人物だが、つなぎの婿として祖父に選ばれるだけあって、優秀な人である。職業は弁護士。それも、埼玉県では一、二を争うほどの大きな法律事務所の所長を務めていた。本社となる埼玉には五人、支社として東京の事務所を構え、そこには八人の弁護士を雇うほどの大手事務所である。

 未来はそこで多くの時間を過ごした。

 家での現状は日増しに悪くなっていった。小学校も高学年に上がれば、背が伸びて子供らしさが抜け始める。母はそんな未来を見るのも嫌そうにふるまい、それに遠慮した使用人たちまで職務を放棄した。

 平たく言えば、食事の準備がされなくなったのである。風呂も睡眠も自力でなんとかなる範囲だった。洗濯もコインランドリーと言うものが世の中にはある。だが、使用人と母が行きかっている家の中で、食事を自力で(まかな)うのは小学生には難しい命題だった。

 学校の給食があっても空腹が厳しい時期でもある。所長の息子であることを加味しても、事務所にさえ行けば子どもに貰いものの菓子を与えようとする女性事務員が多いことは、未来の生命維持に繋がった。

 当時、なによりも未来を魅了したのは、危険の多い冒険譚である。本を買ってもらっても、家に置いておく場所などなかったから、基本的に本は学校や図書館で借りるものだった。子どもが読書をしていると、大人は感心するらしく、持ち前のおしゃべりを発揮して未来は次から次へと新しい危険な冒険譚を教えて貰った。そうして事務所で本を読んでいると、事務員たちがこぞって未来を構いつける。中には自分の持っている本を貸してくれる人もいた。

 未来が好んだのは冒険譚だったが、それは危険を侵す主人公の動向を楽しんでいるからだ。もしも自分が、こんな危険な目にあったとしたら。それを夢想することが、何よりの楽しみであり、できればそんなリスクのある人生を送ってみたいと強く願っていた。何も持たない未来にとって、空想こそが最大の娯楽だったのである。

 生きるか死ぬか。それは未来にとって甘露の道であり、生き延びる快感も失敗して死んでしまう幕引きも、どちらも得難い誘惑だった。

 その冒険を、現実でも侵してみたくなるのに、時はかからなかった。

その手始めとして白羽の矢が立ったのが、父の受け持つ事件がまとめられたファイルだったのである。

 父の事務所はすこぶる多忙を極め、残業が酷くて夜中まで残っている者も少なくなかったが、その代わりに休日だけは出所を禁止する規則があった。

 対して未来は、休日が最も過ごしにくい日である。一日中、居場所もなく食事も用意されない家で過ごすよりも、父からこっそり渡されている中身が潤った財布を片手に家を出て、近くのスーパーで食料を買いこみ、事務所に籠っていることの方が多かった。

 そんな風だったから、未来はときたま冒険心を疼かせて、誰も来ないしんと静まり返った事務所で、事務所が取り扱っていた過去の犯罪ファイルを捲るようになったのだ。

 県下では大手と呼ばれる法律事務所である。国選弁護人として凶悪な刑事事件を任されることも多々あった。未来が楽しんだのはその記録であり、そこから読み取れる犯人と警察との駆け引きである。自分ならこうする。さまざまに浮き上がる想像は、ある時は逃げる側のものであり、ある時は追う側のものであった。

 穂に会ったのは、そのときである。

 あまりにも堂々としていたものだから、 ファイルを確認しに来た東京支部の事務員かと思っていたが、後から考えればあれは堂々としていただけで忍び込んできていた。東京事務所の所長を任されていたのが玲の父親だった関係で、この事務所に目当ての事件記録があると分かって忍び込んできたというのが真相である。

 未来がいつものように分厚いファイルを棚から引きずり下ろし、机の下に隠れて頁をめくっていたとき、玲と二人でいちゃいちゃしながら入ってきたのが穂だった。

「たぶんこっちだと思うよ。事務所なんて間取りはどこも似たようなものでしょ?」

「分かったから、手をどけろ。なんで腰に手を回す必要があるんだよ。お前はひっついてないと死ぬのか!?」

「死ぬって言ったらくっついててもいいの?」

「いーからいますぐ手をどけろ!」

「あはははは」

 未来が知っている夫婦は、祖父母と両親だけだったので、今では目に馴染むようになってしまった玲と穂のやりとりは、それだけで口を開けてポカンと見つめるに十分な衝撃だった。

 当然だが、不法侵入してきた二人である。誰もいないと思っているし、こんなところに小学生がひとりでいるとは誰も考えない。未来が後ろから見ていることに気付かないまま、二人は目を皿のようにして棚を見渡し、ある事件のファイルを探しているようだった。

「ないねぇ……」

「担当してた弁護士、別の事務所に移ったとか?」

「だったとしても、資料は置いていくはずだよ」

「うーん……」

 困ったような顔をして、それでも真剣な目で棚を見続けている女性を、未来は何故か不憫に思った。それはおそらく、気迫が違ったとか、穂の本気さが垣間見えたとか、そういった理由で同情したのだ。小学生がなけなしの憐憫をかき集めて起こした行動は、至極単純なものだった。

「あのぅ……」

 頭半分だけ出していた机からひょっこりと顔を出し、声を掛けたのである。

 瞬間、振り返った二人からは、本物の殺気が出ていた。剣呑なまなざしで射抜かれて、未来は立ち尽くす。肌がビリビリと痺れ、殺されるかと竦む恐怖が体内を巡った。

「えっ、子ども!?」

「うわあ、こんな想定外ある?」

 穂が目を見開き、玲が片手で顔を覆った。驚きで警戒が薄れ、息ができるようになった未来は、それまで身体の中を駆け巡っていた緊張が、じわりじわりと興奮に変化するのを感じていた。

「こ、これ! これじゃないですかっ!? 探してる、事件……!」

 それまで自分が呼んでいたファイルを差しだすと、穂の顔が歓喜と疑惑に彩られた。自分が疑われているのだと肌で感じる。未来はそのとき、ぱちんと何かが自分の中で弾けたようだと思った。

 これが欲しい。そうだ、これが欲しかったものなんだ!

 頬を紅潮させて差しだしたファイルは、未来の予想通り彼らが探していたものだった。それは麻薬を使った集団自殺の事件で、あまりにも人数が多かったものだったから、殺人なのかどうか裁判でも長く争われた事件である。

 それに使われた麻薬がKANANであり、集団自殺の形態をとっていたものの他殺だったというのは、後から穂に聞いたことだ。事件としては証拠不十分で集団で心中を図ったものとみられるという曖昧な結果を残していたが、それがひっくり返って父がてんやわんやになるのはもう少し先の話だろう。

 ともかく、そのときの未来が思ったのは、これがチャンスだということだった。

「あのっ、おねえさん!」

 机の下から飛び出して、未来は穂の腕を掴んだ。途端に強い力で腕を掴まれて引きはがされる。先ほどとは違う殺気が未来を襲い、その正体は玲の独占欲と言った。

 未来は穂から引きはがされながらも、必死に穂の顔を見上げた。ここで彼女を説得することは、玲を説得するよりも効果があると分かっていた。穂が決めたことに、玲は逆らわないだろう。そんな関係性を見抜く程度の観察眼はすでに養われていた。

「オレを、弟子にしてくださいっ!」

 ほしい、と脳が訴える。心臓が跳ねていた。ばくばくとうるさいくらいに跳ねて、自分の中の血潮を感じる。それは未来が生まれて初めて得た生きているという実感だった。

 肌がひりつくようなスリル満点の空気を、何度でも感じたかった。

 穂についていけば、それが叶うのではないかと思ったのだ。子どもの浅知恵だったが、それは果たして正しかった。突拍子もない未来のお願いに、穂は何かを考えるそぶりを見せた。

 期待に満ちたまなざしで見上げる未来を玲が鬱陶しそうに見下ろしている。やがて、穂は考えがまとまった顔でひとつ頷き、膝を折って未来と視線を合わせてくれた。

 絨毯に膝をついた穂は、見つめる未来の両肩に手を置いて、真剣な顔でこう言った。

「分かった、じゃあ、かくれんぼをしようか」

 かくれんぼ、と知ってはいるがやったことはない遊びを、未来は口の中で呟いた。優しい手を持つ女性に、ゲームに誘ってもらえたのだ。この瞬間、未来が穂に母を投影しなかったかどうかは、分からない。

 だが、この日のこの約束が、未来の人生を一変させたことは事実である。

「今日ここで起こったことを、誰にも言っちゃいけない。来年の今日まで、私を探しちゃいけない。来年の明日になったら、私のことを探し当ててごらん。それができたら仲間にしてあげるよ」

 これは内緒の遊びだよ。十を数える代わりに、一年指折り数えよう。一年経ったら「もういいよ」。広い世界の中から、たったひとりを探しだす。それはスリルを求めていたことを自覚した未来にとって甘美な誘惑そのものだった。

「来年の、明日になったら?」

「探していい」

 視線を合わせて、穂は頷いた。

「仲間にしてくれる?」

「いいだろう、約束だ」

 差しだされたのは右手の小指だった。たどたどしく同じ指を絡めて、生まれて初めてのゆびきりげんまんを口ずさむ。

 多分、穂は未来が本当に見つけ出すと思っていなかった。一年が経って、探し始めた未来でさえも、無理かもしれないと思っていたから、再会したのは本当に偶然が重なっただけのことだ。

 穂は今でも、平和な人生を歩めるのだからこっちに来る必要はないというが、そもそも未来のこの人生の引き金を引いたのは穂なのだから、ある程度の責任を取ってもらわないと割に合わない。

 小学六年生になり、穂を探し歩き始めた未来は、打ってかわって運動量が増えた。それまでの一年間でも、何が役に立つか分からないと読み漁った本から得た知識量はほとんど小学生男子の脳味噌の限界寸前で、心身ともに糖分を必要とした未来の身体はみるみるうちにやせ衰えた。

 事務所に行ってお菓子を貰うことが減ったにもかかわらず、家で食事が出されないのだから当然だろう。

 栄養失調が疑われる外見になった頃、さすがに見かねた父親が、未来を家から出すことにした。

 そもそも、基本給の半分を家に入れれば後は好きに使っても良いという立場である。毎月振り込む基本給の半分も、それくらいしなければ居心地が悪いと言う父のプライドから始まったことだ。そして、父の給料の実に半分が、残業代や扶養手当といった基本給から外れた名目で支給される類のものだった。

 根っからの仕事人間だった父は、多少の道楽として高級車を購入していたが、一度愛車にすれば気が変わるまでは手放さない長期愛用者でもある。収支を計算すれば母と同様、ささやかな贅沢の範囲内のことであった。

 当然、放棄された息子の衣食住と学費を工面するのに、苦労するわけもない。未来はそこそこ名門と謳われた私立の中学をいくつか受験させられ、受かった中で最も学力と評判の良い学校に通うと言う名目で下宿場所を与えられた。

 用意されたのは五畳半の和室が一間、二畳ほどの板間のキッチンに狭苦しい風呂が辛うじて設備されている安アパートだ。そこから家移りして、今の居住は、もう少し整備がされたアパートになった。

 未来が望んだわけではない。台風で屋根瓦が何枚か吹き飛んだことでひどく雨漏りし、それがもとでアパートの大黒柱が腐ったのだ。それだけでなく壁もあちこちが湿気でカビた。最初は修理に乗り気だった大家はその見積もりを見て断念を決意し、六つの部屋の住人に家移りを頼みに来たのである。

 未来にとっては屋根があればどこでもよかったし、学校から帰ってきてアパートが全焼していたとしても、特に感慨もなく、燃え失せて困るものも特になかった。だから、大家から引っ越し先を用意されても、なんのこだわりも見せずにすぐに頷いた。そうして引っ越した先は、元よりも幾分か駅に近く、八畳一間の板間に一畳分のクローゼット、最新式のユニットバスという目新しい設備だった。キッチンだけは間取りがなく、玄関から部屋に向かうまでの廊下とも呼べない当たりに、粗末なガスコンロがひとつおいてあり、人幅とそう変わらない洗い場があるだけ。

 そこまで調理らしい調理をする性格でもない。穂のところで貰う旨い飯は道楽に分類されているから、未来にとって食事とは、生命維持を目的とする咀嚼作業である。結果、ガスコンロは棚の上にしまい込まれ、代わりに炊飯器がひとつ置かれることになった。

 それが五年前のことである。引っ越しが面倒だった未来は、鞄ひとつだけを肩に下げて家を移り、最低限の物を新しく買い揃えた。そこから、部屋に増えたものはない。

 既に職を得た今でも、家賃や生活費のほとんどを父が払っている。息子を放置した罪滅ぼしというわけでもないから、きっと未来が自活できる程度には働いていることを、知らないだけだろう。未来も未来で、手続きに顔を出すのも面倒で捨て置いているのだから、お互いさまというところだ。

 家を出てから、未来は一層はっきりと自分の歪みを自覚した。父の事務所には出入りするが、家には滅多に帰らない。父がそっけなく寄越す法事の日取りに合わせて、制服で赴き座っているだけだ。

 母は女児しか欲しくなかったようだが、一族からは婿養子でなんとか繋いだ血筋を保つのに、未来という後継の存在は好まれていた。別に未来は継ぐ気もないし、継ぐとも告げていない。だが、資産家の余裕は時間にも及ぶらしく、成人したから家を継ぐために戻ってこいなどとは言わず、今は好きにしてもいいという考えらしい。未来の順番になったら戻ってくると信じて疑わないところが甘く身勝手なとは思うが、折角の誤解を訂正する必要も感じられず、未来は現状維持に務めていた。

 だからこそ、法事のときに座っているだけの未来でも、会話の中心に据えられる。対外的には進学のために東京へ下宿させているということになっているものだから、親戚連中は口々に私立の制服を着た未来を褒めそやした。

 未来は鼻で笑えるような個性のない世辞に、笑顔で対応するだけでいい。年頃の男子学生が従順に笑顔を見せるだけで、やはりさすがと評価が上がる。

 対して、妹は実家の当たりでは有名な女子高に入っているが、それだけである。中身の薄い世辞は、さらにうすっぺらくもなろう。母は自分の自信作が母の考える正当な評価を受けないことに対して苛立ちながらも、それを覆い隠す笑みを浮かべてみせなければならないのだ。

 母の屈辱を知っていて、未来は必ず、集まりの間で一度だけ母を母と呼んだ。

 会話の中で、不自然ではないように、たった一度だけ、妹と同じように「お母様」と呼びかける。口にするだけで虫唾が走りそうな五文字だが、呼ばれた方はもっと気味が悪そう唇が歪む。勿論、親族の前で笑みを絶やすような教育は受けていない。だからこそ、分かるものには分かる程度に、作った笑みを嫌悪に歪ませる姿は滑稽だった。

 たとえばこれが穂だったら。

 そう考えるだけで未来はぞくりと背中が泡立つ。

 未来に対する嫌悪も何もかもを綺麗に覆い隠して、にっこりと誇らしげな母の笑みを作って見せるだろう。内心で怖気が走っている未来を見抜き、その両肩に柔らかな母の手を置いて自慢の息子で嬉しいわと嘯いて、さも愛しそうに髪でも撫でて見せれば、笑みを歪めずにいられないのは未来の方であるだろうに、それができない母の未熟さを晒して、確かめて、溜飲を下げる。

 なんと浅ましいことだろうか。そんなことで優越感に浸り、嘲笑い、復讐を試みる度に、如何に矮小で稚気に満ちた馬鹿のすることをやっているのかと嫌になる。

 こんな母と兄とを持って、自分に疑問を持たねばならない妹はどちらかと言えば被害者の方だろう。だが、それは未来の思考の及ぶところではない。吉凶どちらに転ぶか分からない賭けとして、未来が好むスリルがなかった。




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