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KANAN Ⅰ  作者: 真柴 亮
10/36

最愛 1



 冬至が近づく季節である。早朝、仮眠から目覚めた玲は、街灯に照らされた薄暗い中、愛車を走らせていた。

 何度か買い変えているが、車種は学生の時と変わらない。傷一つない銀の車体は、独特の美しい緩やかな曲線を描く。JAGUARという車種名を気に入った妻が、虎太郎という不似合いな名前を勝手につけているが、それもまた玲にとっては面白いことだった。

 日の出にはまだ少しある。ほのかに空が白んでいるような気がするような曖昧な時間の空気は、キンと冷えて肌を刺激した。

(帰ったらお風呂に入って、バスクリームを塗ってあげなきゃあ)

 素材はいいはずなのに、手入れを面倒がる妻を磨くのは夫である自分の責任だ。冬の乾燥が彼女のすべすべ肌を脅かすなどということは、あってはならないことであるから、その対策をきちんと立てるのは、玲の義務であり生き甲斐でもある。

 肝心の相手がはた迷惑だと思っているのは、玲の考慮外のことだ。

(髪の手入れはどうしようかな。オイルもいいけど、乾燥対策なら保湿クリームも必要かな……)

 仕事のときはともかくとして、家に居るときは肩まで伸ばした髪は下してもらっている。髪が顔にかかって邪魔だと穂はいうが、あの白くて綺麗なうなじを他の人に見せるだなんて冗談ではない。仕事のときには口を出さないかわりに、家の中では玲の我が儘を飲んでもらっている。

 お礼に、玲の好みで伸ばしてもらっている髪を手入れするのは、この上ない楽しみでもあった。

 朝ごはんはチーズたっぷりのリゾットに、穂の好きな温泉卵を乗せてみようか。眠気覚ましに飲んでいるコーヒーは今日はお休みして、彼女の舌に合わせたほろ苦めのココアはどうだろう。

 徹夜で疲れているだろう妻を、とことんまで甘やかす計画は、コウ辺りが聞いたら胸やけを起こすだろうが、彼にとっては何よりも大切で最優先すべき日常事項にすぎない。

 ともかくも、最愛の妻をこの車に乗せないことには話が進まない。車に乗せて家に帰って、子どもたちを学校に送って行ってから、マイホームに帰ってのんびりするのだ。

 国の警備を担う役所の前に、路上駐車をする愚行は侵さない。そんなことをすれば怒った穂にすぱんと勢いよく頭を叩かれてしまう。

 怒った顔の穂もかわいいのでたまに楽しむ分には問題ないが、あまり怒らせることは得策ではない。晩ご飯のおかずが玲の苦手なものになったり、ひとり仲間外れにされて母子水入らずでアイスを食べに出掛けてしまったりするのだ。そうなれば玲はとても悲しい。だからなるべく怒らせないようにと気をつけている。

 近くのコインパーキングに車を停めて、出口付近の人目に付かない場所に立って待つ。

 寒さ対策は万全にしてきたが、それでも寒い。穂からの誕生日プレゼントにもらったお気に入りのこげ茶の革手袋は、風を遮るにはよいが、保温性の点で難がある。今年に買ったばかりの黒のロングコートのポケットに手を入れて、玲はふうと息をついた。

 吐き出す息は白く、吸い込む空気はひやりと冷たい。

 息子たちとお揃いで買ったカシミヤのマフラーが、最後の砦だ。だが、穂を待つという時間は、玲にとって苦を感じるものではなかった。

 夜闇の気配は次第に薄くなり、夜明けが訪れたのか空が白んでくる。気が早い鳥たちが夜明けを待って空を飛び、チッチッと鳴く声がたまに聞こえた。

 次に聞こえてくるのはスズメかシジュウカラか。そろそろカラスも鳴き始める頃合いかもしれない。天然の音当てクイズを楽しんでいると、遠くに小さく人影が見えた。

 連れだって二人、細身のシルエットが動いている。指先ほどの小さな人影だったが、エントランスの影から出て来たその一方が、眩しそうに白み始めた空を仰ぐ仕草で穂だと分かった。

 駐車場に向かおうとした穂を、もう一人の影が呼び留めている。思い出したように振り返った穂は、未来に指摘されながらこちらを見て、玲を見つけた。

「やあ」

 早足でやってきた二人に、片手を上げて挨拶をする。先に玲を見つけた未来が、何故か得意げに穂を振り返った。

「ほらな、やっぱり来てた」

「あのさぁ、玲。何度も言うけど、あたしが勝手に帰ってたらどうするつもりだったんだ?」

「君が僕を見つけてくれなかったことなんてないんだもの。それに、そうなったらそうなったで、今度は君が探しに来てくれるのを待てばいいんだしね」

 ウインク付きでそう言って、穂の肩を引き寄せる。置いて行こうとした穂を止めてくれたことはあり難いけれど、玲以外の人間が仕事以外で穂と一緒にいるのは歓迎したいことではない。

 穂に触れてようやく、自分のところに戻ってきたと実感ができるのだ。未来に対する牽制も含まれていたが、繰り返されすぎたそれはもはや意味などなくなってきている。穂の周囲にいる人はみな、ああまた玲がべたべたしているな、としか思っていなかった。

「さあ、帰ろうよ」

 穂は了承を示す溜息しか返せなかった。最初から分かっていたと言いたげに手を振った未来と別れて、玲の隣に並んで歩く。

「未来に送ってもらうって言っといたじゃん」

「僕が来られるなら、一緒に帰った方が傍に居られるでしょ?」

「お前だって仕事詰まってたんだろ」

「それはもう解決したよ」

「……あっそ」

 何を言っても無駄である。好きにさせておくのがよいと、穂は白旗を挙げた。特に仕事の後は玲の過保護具合が酷いのだ。今日も、(うやうや)しくエスコートを始めた玲は、わざわざ助手席側に回り、手ずからドアを開け、おとなしくシートに座った穂の髪を整え、スカートの裾を整えた後、丁寧にシートベルトさえ装着させた。

 最初こそ驚いたが、あれからもう十数年。される方も慣れたものである。

 穂を愛車の助手席に乗せるというミッションを完璧にやり遂げた玲は、ここから墨田区への短い道のりでさえドライブデートだと浮かれる男だ。うきうきと運転席に乗りこんで、エンジンをかけた。

 車の中も冷え込んでいる。走り出すよりも暖房のスイッチを入れるのが先だ。吐き出される空気に暖がのってから発進させようと待っていた玲は、ふと仰ぎ見た穂の顔に、つい、と目を細めた。

 年若く見える顔に浮かぶ疲労の色が濃い。玲はそっと手を伸ばし、穂の目の下を親指でなぞった。

「疲れてる?」

 否と答えるのが分かっていながら、玲は尋ねた。

「眠いだけ。今んとこ、KANANの可能性はなさそうだし、結果は重畳ってとこかな」

 玲の独占欲は底を見ない。穂に対する執着は、度を越えているのだ。KANANを憎み、〈ノアの方舟〉を崩壊させようと動き回る穂を、本当はよく思っていない。できるならば自分が代わりをするから、家の中に一生閉じ込めておきたいとさえ思っている。

 だからこそ、穂は疲れたとは言わない。やめてしまえと言われるのが分かりきっているからだ。

「ならいいけど。とりあえず、今日の午前中はゆっくり休んでね」

 やはりと思いながらも唇を尖らせ、だが、と思い直す。

 穂が最も輝くのは自由に生きているときである。

 籠の鳥のごとくその翼を手折ってしまえば、玲が好んでいる穂がいなくなってしまう。それは玲にとって恐怖であった。

 もともと、KANANの存在に穂を近づけてしまったのは、玲の落ち度でもある。玲がもっと注意を払っていれば、穂が〈ノアの方舟〉に連れ去られて、KANANの洗礼を受ける羽目にならずに済んだのだ。

 腕の中に戻ってきた穂の瞳を、玲は生涯忘れられないだろう。

 ギラギラと煮えたぎった憤怒に、身震いさえした。

 絶対(ぜってぇ)ぶん殴ってやる……!

 そう言って奥歯を食いしばり、立ちあがった穂を、玲は止めることなどできなかった。

 KANAN、いや、花南、と玲は思い出す。

 悪魔の薬と呼ばれるようになったその名は、元々玲の妹の名前だった。

 穂とは正反対の、優しく儚げな少女だったが、芯の強さは似ているかもしれない。

 そもそも、玲は花南のことをあまりよく覚えていないのだ。

 両親の離婚によって、小学生のときに生き別れになった花南を見つけたのは偶然でしかなかった。大学の友人の婚約者だと連れてこられた女性が、花南だったのだ。

 それから、兄妹として連絡を取り合う交流が始まった。月に一度は、友人も交えて三人で食事に行ったりもした。玲の目から見ても彼らは仲睦まじく、まだ穂に出会えておらず、恋も愛も知らなかった玲は、羨ましくも奇妙なものを見ているような気分で彼らとの食事を楽しんでいた。

 そんな、穏やかな日常は、花南の死によってあっという間に(くつがえ)った。

 花南を愛してくれていた友人は、悲しみのあまり世界を呪い始めたのだ。

 挙句の果てに、KANANを作り出し、花南を女神に仕立て上げて突拍子もない信仰を掲げ始めた。

 花南、と口の中で呟く。

 妹、と割り切るには、複雑な心持ちだ。

 お前が死んだりしなければ、穂はこんなにも何かを憎み、命を削ってまで何かを成し遂げようとはしなかっただろう。

 だが、そのときは、玲は穂に出会えていない。穂がいない人生など考えられなかったが、感謝をするにも居心地が悪い。玲がいくら薄情な性格だと言われていても、妹が死んでよかったとは思わない。

「れーい、玲」

 信号待ちのほんの一瞬で、思考の闇に落ちた玲を、穂はあっさりと現実に引き戻した。ぽんぽんと腕を叩かれて、ハッと顔を上げる。

「変な顔すんな。あたしは大丈夫だから」

 宥めるように指で髪を掬う。玲の髪は見た目より固く、朝日に照らされる髪色は綺麗な栗色だ。さり、と乾いた感触を指先で弄び、信号が青に変わるのを見計らって手を離す。たったそれだけで、玲の表情から険しさが取れた。単純な奴だと苦笑する穂は知らない。玲にとっては穂が特別なのだということを。

「さあ、もうすぐ着くよ。僕の最愛、僕の全て」

 戯れのように口にするこの台詞が、嘘偽りない真実そのものであることを。




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