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KANAN Ⅰ  作者: 真柴 亮
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プロローグ 

   プロローグ



 カナン―――乳と蜜の流れる場所。約束の地。


 壊れたはずのエンジン音が聞こえると思ったら、それは空気の音だった。それもそうだ。今、この機体は墜落している。海面はコンクリートと同じ固さになり、そこへ叩きつけられて死ぬのだろうから、巨大な機体の落下速度を加味すれば……やめておこう。死ぬことには変わりないのだから、人生の最後に物理の公式を思い出して適当な代入をするくらいなら、もっと他にするべきことがあるはずだ。

 隣の機長席に座っていた副操縦士さんはすでに事切れている。

 目の前は海と空。果てしない水平線を境目に、空は思ったよりも蒼く、海は思ったよりも黒い。

 重力に押さえつけられて、俺の身体も自由が利くわけではない。

 不思議と、恐怖は沸かなかった。むしろ、安堵の方が勝っていた。

 死にたいわけじゃなかったが、後ろで倒れているあいつらの思惑を止められたのだと思えば、まあ、素人風情が足掻いた結果としては重畳だろう。

 そう、あいつらだ。KANAN(カナン)を使って、この機体を乗っ取った自称「神の騎士」たち。全くふざけた自称だとつくづく思う。

 ふざけているのは、その呼称だけじゃない。そもそもがそのKANANだ。奇妙な麻薬だとあいつは言った。どの薬物成分とも合致しない、法をすり抜けた悪魔の薬。不適合であればたちまちのうちに死ぬ。適合しても、禁断症状を起こして死ぬ。

 汚染されていたのは、タンクの中だった。

 エンジンを落とすための爆破の後、客席に落ちて来た酸素マスクを使わせる。それが奴らの真の狙いだった。

 不適合者は泡を吹いて死に、適合者は薬物が身体を巡る快楽つきの酩酊に酔った。そのせいで、狭い機体が阿鼻叫喚の騒ぎにならなかったことだけが唯一の救いだろうか。

 お陰で、動くことのできた俺が、犯人の隙を突いて昏倒させることができた。誰も邪魔立てする予定がない、無防備だったからこそできたことだ。

 どうするべきか。

 破壊された操縦機の前で、俺は立ち尽くした。コックピットで生きているのは、俺と適合者だった若い副操縦士のふたり。犯人によって固定された進路変更は、このまま行けば湾岸にあるテーマパークに突っこむことになっていた。

 この飛行機の四百人だけじゃ飽き足らず、テーマパークで遊んでいる何万人もの人間すら殺そうとしていたのか!

 それを知った俺が、既に気を失っている奴らをもう一度蹴りつけに行ったのは当然のことだと思いたい。よりにもよってテーマパークだ。しかも今日は天気がいいだけじゃない。世間は夏休みに入ったばかり。老若男女の家族連れが、わんさと押しかける場所をわざわざ狙って、一体それがどれだけの人災になると思うんだ!?

 管制塔との通信は途絶えている。ご丁寧に通話が切れた電子音が電話と同じなのだから俺でも分かった。だとすれば、できることはひとつだけだ。

 俺は、酩酊に(はま)っている副操縦士を揺すり起こし、何とか意識を回復させた。手短に状況を告げると、彼はざっと青ざめて、それから固唾を飲み、俺の提案を飲んでくれた。

 巨大な機体の中に閉じ込められたおよそ四百人の全員の命を奪った残酷な薬物。既に耐性があった俺だけが、犯人たちの誤算だっただろう。

 それでも、俺たちにできることは、せめてこの機体を自動操縦によって海に墜落させることだけだ。

 機長席に副操縦士が座り、彼が座っていた席に俺が座った。運転なんて車かバイクしかしたことがなかったが、ここしか席が空いていないのだからしょうがない。

 なるべく被害の少ない海域へ。

 この事件の捜査は日本でしてほしいから、日本の領海でなければならない。しかし、排他的経済水域では船が多くいるだろう。進路を変更できるぎりぎりのところで、副操縦士はそれを成功させた。

 四つのエンジンは二つしか生き残っていなかったが、この機体はもしもの時のためにひとつのエンジンでも飛行が可能なのだと、それだけは誇らしそうに副操縦士が言った。それは、客の不安を取り除くという、彼の仕事のひとつであったかもしれない。どのみち死出の旅路であることは変わりなかったが、最悪の事態を避けられたことに対する俺の安堵は深かった。

 代わりに沸いてきたのは、奴らに対する怒りだった。

 こんな事件を起こそうとした奴ら。

 それよりも、こんな奴らを作り出した奴ら!

 当たり散らした我が儘な八つ当たりの最低野郎だ。

 死にたきゃ勝手にひとりで死んでろ。他の誰も巻きこむな!

 機体は空を飛んでいる。墜落の際に少しでも機体の損傷を少なくすれば、何が起こったかはあいつが調べてくれるだろう。どうやったってコックピットから突っ込むから、ここにいる俺たちは無事に済まないが、それはもう仕方がない。

 後はゆっくりと墜落場所に到着するのを待つだけだ。

 そう思っていた俺たちは、ほんの少しだけ話をした。年若い副操縦士が、同じく操縦士だった父に憧れてこの職を選んだこと。小さい娘と、生まれたばかりの息子がかわいいこと。そして、こんな風に死ぬのは本当は、とても怖くて不安で、心残りがたくさんあること。

 それでも彼はとても勇敢に、地上にいる大勢の人間を死なせてしまうことにならなくてよかったと強がりを交えた笑みを見せた。

 もうすぐ着くよ、と彼は言った。湾岸から離れて、半時間ほどが過ぎた頃だった。

 彼には目指す海が見えているらしかった。辞世の句でも読んでみようかと空笑う彼に、短歌ですか、高校以来ですね、と俺も笑った。

 もしかしたら、コックピットに搭載されているレコーダーが生き残るかもしれない。

 もしかしたら、管制塔にはコックピットの会話が届いているかもしれない。

 そんなもしもに頷いて、様になる遺書の台詞のひとつでも呟いてみようかとそんな気を起こした矢先だった。

 気の抜けた爆発音が二回続いた。顔を見合わせて目と目を見交わしたその瞬間、その爆発音の正体に気付かされた。

 エンジンが爆発したのだ。

 ふたつ残ったエンジンが両方とも。制御を失った機体は、たちまちのうちに息を止めた。上空何万メートルにいるのかは知らないが、飛行中の機体が停まったらどうなるか、考える必要もない。

 途端に急降下を始めた機体は、徐々に俺の身体を押さえつけにきた。

 しまった、と呻く副操縦士の声がする。理由は何となく分かっていた。重力だ。だが、彼に声をかける余裕もない。四方八方から空気が重く俺の身体にのしかかる。

 ぐっと呻く声が聞こえた。目の端に、彼の姿が映る。さっきまで笑っていた彼は、揺れる機体に身体を打ち付け、赤い血を流して俯せていた。

 死ぬ覚悟はしていたし、死ぬタイミングがほんの数分ずれただけだった。だが、これじゃない。こんな死に方を、予想していたわけじゃなかった。

 ふざけるなよ。いつか必ず、あいつらが。

 怒りが込み上げてくるが、もうどうしようもないのだという諦念も沸き起こった。

 どうするというのだろう。ただ、成し遂げると、それだけは信じて居られた。やると言ったことはやる奴なのだ。願わくば、俺の復讐にとらわれ過ぎて、目の前を曇らせることだけはしてほしくないけれど、いつの間にか傍にいるようになったあいつがいるから、なんとかしてくれるだろう。

 (ねが)うように目を閉じた。耳に流れてくる大気の音。その中に。

 微かに聞こえた、電子音に、俺はうっすらと目を開けた。赤い光。なんの拍子か気まぐれか、管制塔と通信が復活したらしい。雑音だらけのスピーカーに、伝わるかどうかも分からないけれど、聞こえて来た声が俺の名を紡いでいるのではないかと思うのは穿ちすぎだろうか。あいつの独特のイントネーションだったと思うのは、都合の良い絵空事じゃないだろうか。

 それでも、最期の一瞬というものは、その真偽さえどうでもよくなるらしい。

 (きし)む肺腑を叱咤して、俺は最期に口を開いた。

「――――-っ! ――-、――――!」

 空が青い。雲が見えて、海が波立ち、案外黒い。

 落ちる、と思うことはなかった。

 落ちているのだから、思う必要がなかったのかもしれない。

 聞こえているかもしれない。

 録音されているかもしれない。

 最期の悪あがきくらい、してもいいだろう。どうせここには俺以外生きてる奴もいないことだし。取り乱して逃げ惑うならともかく、我が儘のひとつも口にすることくらい許されるはずだ。

「――――――、――、―――――」

 頼むから。頼むから。

 俺ができたことなんて、ここまでだったから。

「おい、お前ら。生き残れよ」

 最期に俺は、笑えていただろうか。

 遺してきたあいつらを、瞼の下に思い出す。いくつもの約束を破って、一方的に呪縛のような約束を押し付けて、怒るだろうか。

 怒られても、言いたい。これが俺の我が儘なんだ。


 海が消える。目の前にある色が、(そら)だけになった。


はじめまして。長いシリーズになりますが、るいとコウの物語をどうぞお楽しみください。

全部で三幕ある内の、一幕です。

感想など、とても励みになりますので、お気軽にコメントお願い致します。

誤字脱字などのご指摘も、よろしければお願いしたいです。

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