晴天の霹靂~ある日突然お城は崩壊する
晴天の霹靂(お城はある日突然崩壊する)
何日間か、変わらず、春の日差しが陽気な一日だった。その日、おセバは関西のほうに出張中だった。遅くなるらしかったけど、おセバはあたしを一晩中一人きりにはさせられませんと、どんなに遅くなっても必ず戻ってくる予定だった。おセバが東京にいないと思うと、なんだかぽっかりと心に穴が空いたようだった。あたしは、新妻気分でいつもおセバがやっているようにちゃんとつけ置き洗いをし、丁寧に洗濯を終え、フローリングの床にクイックルワイパーをかけながら、ふと何の気なしに、ドアが少し開け放されたままの彼の部屋を覗いた。普段、おセバの部屋には重要な書類などもたくさんあるし、暗黙の了解で立ち入らないことにしていた。おセバも、決して、その境目を越えたら、そこが死線とでもなるかのように、あたしのお部屋には入ってこなかったしね。
彼は、一般的な分類で言えば、几帳面なA型だけど、机の周りの片付けは苦手みたいで、膨大な量の書類や本が山積みになっていて、床にも散乱していた。すぐに必要なものが取り出せなくて、探さなきゃいけないって効率悪そうに思えるけど(おセバは普段、効率とか、合理的とか、そういう言葉が好きでよく口にするのに)、乱雑に置かれているようで、本人なりの秩序があって、そのほうがどこに何があるか分かるのらしい。
血液型占いを全て鵜呑みにあるわけじゃないけれど、弟も同じA型で、やっぱり几帳面なんだけど、片付けるの苦手で机の周りは物が山積みになっていた。でも、それで、何がどこにあるか分かると言うのだ。やっぱり自分なりのルールというか、秩序があるのらしい。へたにあたしやママが片付けようとでもしようもんなら、嫌がってわめき散らしていた。
あたしは、ふと床に、落ちているというより一応意識的に置いてある、と思いたい婚姻届があるのを目にした。心臓が、高鳴る。もう少し、大事に、保管しておいて欲しい気もしたけれど、おセバは、やっぱり本気で考えてくれてるんだよね・・・。おセバ・・・。
胸の中に、温かいものがじんわりと広がってゆく。幸福感に包まれて、あたしはしばしぼうっとその場に突っ立ったままになってしまった。我に返り、お掃除の続きに取りかかろうとした瞬間、あたしは、自分の目を疑った。
え?
難しいタイトルの本の間に、ロリ・・・なんて言葉が見えたのだ?
ロリ?ん?
何か、妙に不安で、ざわざわとした感覚が胸を過ぎった。
どこかで、わりとそんなに珍しくもなく目にしたり耳にしたことのある単語のような気がしたけれど、どうもうまくその言葉の持つ意味が閃いて来ない。
あたしは、そう、先ほどまで考えていたように、そのまま玄関の掃き掃除に向かおうとしたけれど、三秒間くらい立ち止まって、やっぱり引き返した。
あたしだって、人として、他人―――そう、他人だ、どんなにおセバがあたしの心の内に入って来ていても、どんなに互いに心を許しあってたとしても、他人は他人、なのだ。どこまでいっても。例え結婚していて、戸籍上の身内になっていたとしても、血の繋がりはないし、ううん、例え血が繋がっていても、プライバシーというものは重要で、どんな個人も全て尊重されるべきで、兄弟や親子間でさえ勝手に踏み込んでいいわけでもないと思うし、ってなんだかくどくど書いてるけれど、とにかく、他人のものを覗くというのがどんなに最低なことかあたし、ちゃんと分かってる。分かってます。分かってました。でも、でも、どうしても好奇心は抑えられなかったんだ。『鶴の恩返し』だって、『青髭』だって、昔から、どこの国の人間でも、見てはいけないとされたもの見たいという好奇心は押えられはしないのだ。なんて、自分に言い訳しつつ、最低、あたし、本当に人間性下劣で最低最悪な生き物だって、自覚あります。
あたしは、そうっとおセバの部屋に入ると、なんたら入門やなんたら経済学の本をのけて、その下にあった『ロリ萌え』なるマンガを手に取った。頭がうまく働かなかった。何者かに憑依されたように、部屋を見渡すと、本棚やクローゼットの中を覗いた。何も怪しいものはなかった。ほっとしかけたけど、あたしは何かに突き動かされたように、足の踏み場を探し探し、机の前まで行った。そうして、机の下に置かれていた収納ケースの箱の中を、覗いた。大概が行き過ぎた好奇心は不幸な結末を招くように、そう、それは、決して開けてはいけないパンドラの箱だったのだ。
すると。
『爆裂巨乳幼妻』『股間飛行』『ぶっかけ!スク水パラダイス』などのエロマンガやエロゲー?の下に、アイドルの写真集やら、DVDやら、瞳の大きな、美少女アニメっぽい絵のゲームなどがわさわさ出てきたのだ。わさわさわさわさ。甘やかしすぎである意味のび太君の根性を著しくダメにしている、夢がいっぱい詰まった、ドラえもんのポケットみたいに、四次元ポケットみたいに、それは際限なく出てくるかと思われた。
ウソ。
あたしは、大量のマンガやゲームやDVDや写真集などを一枚一枚裏表を確認しては箱の横に積み上げていった。その全てが、
女の子、女の子、女の子、女の子、女の子、女の子、女の子、女の子、女の子。それも、美少女もの、美少女もの、美少女もの、美少女もの、美少女もの、アイドル、アイドル、アイドル、アイドル、アイドル、ロリコン、ロリコン、ロリコン、ロリコン、ロリコン。妹、妹、妹、妹、妹、エロ、エロ、エロ、エロ、エロ、制服、水着、スクール水着、コスプレ、巨乳。
恐ろしく大量だった。
ウソウソウソウソウソウソウソウソウソウソウソウソ・・・っ。
目の前が真っ暗になって、何も見えなくなった。
全身の力が抜け、でも、心だけは震えていたけど、とにかく指一本動かせずに、その場に呆然としたまま座り込んでいた。やっと五感が戻ってきたとき、聞こえたのは、冷蔵庫の製氷器のカタッという音だった。身体が、ビクリと反応した。
青天の霹靂?とは、こういうことを言うの?
しばらく―――ゆうに一時間は過ぎたと思うのだけど、冷静にものが考えられなかった。ううん、その先だって、到底ものが冷静に考えられる日なんてない気がした。・・・だって、当然でしょ?何これ何これ何これ。もう一度、側にあったものを拾い上げようとして、手が震え、指に力が入らず、取り落とした。大きな瞳にツインテールの女の子が表紙のマンガだった。 どっどっどっと血が噴き出すように、玉みたいな汗が噴き出してきた。あたしの瞳は猫のように瞳孔が開いていたに違いない。
嘘つき。
バカバカバカバカバカ、おセバのバカ!
次の瞬間、あたしは、大粒の涙をこぼしていた。ぼろぼろ、ぼろぼろ、こぼしていた。 ―――馬鹿は、あたしかあ・・・。
あたし、何か、ぷつんと糸が切れました。ぷつーん。もう暴走します。
ここからさ、『ライ麦畑でつかまえて』のホールデン調で喋っていいかな?村上春樹訳のお上品なのじゃなくて、昔の、もう少し荒っぽい語り口調のヤツね。なんて、言ってみただけだけど。支離滅裂。だって、正常になんて、いられない。村上春樹は好きだよ。おセバが一番好きな作家だもん。あたしだって、いっぱい本も読んで、少しは賢くなろうとしてたんだよ?美容やダイエットや、新しくできたお洋服のお店や、流行りのスイーツの話題だけじゃなくてさ、ちょっとは、インテリな会話したくて。それ自体の発想がもう頭悪いんだけどさ。でも、ホントに、ちょっとは賢く、なって、そんで、いい子いい子してもらうつもりだったの。賢いプリンセスキャットさまですねーっておセバに褒めてもらうの。頭撫で撫でのご褒美もらうの。そして、ごろごろって甘えるの。ごろごろごろにゃあん。って。
アホ、か。
あたしは、思わずそこにあった写真集を手にとって、ビリビリに破いてた。結構、固いから力がいったよ。でも、頑張りました。どうしても、そうしなきゃいられなかったんだ。そして、破壊すると、それを壁に向かって投げつけた。十冊もそうした後には、ぜえぜえはあはあ息が切れてたよ。
それでも、気が済まずに、そして、ほとんど気が狂ったみたいに、噛みついて、それらを踏んづけた。寒い日に地面に張った氷を足で踏んでヒビを入れるときの、百倍くらいの力強さで。どすんどすんなんて、やってたら、妙にリズムなんてついちゃったりして。そのうち、変なステップで、創作ダンスでも踊れそうだった。
物に当たるなんて、良くないこと?バチが当たる?もう、そんなの、どうだって良かったし、当たり前のお作法とか何にも考えられなかったよ。当然でしょう。異例の!、予想外の!、異常事態の!、大惨事!が起こったんだから。
でも、いくら物に当たっても、気は済まなかったし、惨めで、腹立たしくて、怒りと、悲しいのと苦しいのと、中途半端な後味の悪さも加わり、とにかくもう最悪な気分だった。あたしは、「もうやだっ。もうやだ、もうやだ」と独り言にしては尋常でなく大きい声で叫ぶと、蹲って、体育座りをし、顔を埋めておセバを呪った。
酷いよ。酷いよ。酷いよ。おセバ。あんまりだよ。
自分には、隠し事なんて、ありませんよって、言わなかった?隠し事なんて。これは、隠し事、じゃないの?だって、目に付かないようなところに置いてる。完璧主義のおセバにしてはちょっと甘すぎる気もするけど、一応、隠してたんだよね?当然、隠すっていうのはやましいからだよね?疑問が、あとからあとから湧いてくる。
僕は、他の女の子なんて一切興味ありませんよ、みたいな態度してたのに。まるで、男のぶりっこじゃない。気持ちわるーい。おセバなんて、草食男子ぶって、ある意味草食男子だからこそなのかもだけど、単なるむっつりじゃん。最悪だあ。
でも、考えたらお互い様、かあ・・・。あたしだって猫かぶってたし。おセバに好かれたくて、幻滅されたくなくて、過去を隠してもいたし、今抱えてる病癖も、隠している。だけど、過去のことは、もうどうしようもないし。変えようないし。別に、おセバと出会ってからやってたわけじゃないし。不貞はしていないし。裏切っては、ない。でも、おセバは、違うじゃない。お酒のことだって、おセバが知ったら、驚いて?一緒に克服しましょうとは言うかもしれないけど、別に傷つきはしないはず。嫉妬するようなことではない、し。そう。でも、あたし、あたしは今とてつもなく傷ついてる。なんで、あたしの、一番嫌いな感情である嫉妬、をさせるの。おセバは、あたしの前で、決して他の女の子を褒めたりしなかったから、あたしは、嬉しかったのに。感謝すら、してたのに。こんなに、こんな形で、おセバに嫉妬の感情を味わされるとは、思いもかけなかったよ。
以前付き合っていた恋人が、浮気したときだってそりゃあ嫉妬はしてたけど、そのときとはレベルが違う。だって、あたしはとことんおセバを信じて、いたんだから。なんていうかな・・・、元々悪いことをしそうな人が犯罪で捕まっても衝撃は少ないけど、普段、潔癖で精悍で、クリーンなイメージの政治家やアナウンサーなんかの汚職や痴漢行為なんかが発覚するとすごくショックとかそういう感じ?いや、でも、それ以上に、次元が違う。あたしは、おセバを、心底愛して、信じきってたんだからあ。
アイドルの写真集やイメージDVDには、まだ本当に幼い、十歳かそこらの少女のものも含まれていた。吐きそうだった。まだ胸の膨らみもない彼女たち(きっと初潮だって迎えていない)が、スカートからパンツをのぞかせたり、過激なビキニやスクール水着で大胆なポーズを取っている。まだ赤いランドセルの似合う幼い子供だ。とある写真集の帯には、最近までランドセル背負ってましたあ。きゃはっ(*^_^*)なんて書かれていた。殺意が芽生えた。親は?この子の両親はこんなことさせて平気なの?
おセバとテレビを見ていたとき、あたしがこの女の子かわいいよね、と言ったアイドルのものもあった。まるで、興味もなさそうに、顔色一つ変えず、そうですか?なんてさらりと流してたのに。「鬼山なんて名前が怖いよね」なんておセバ自身が言ってたグラビアアイドルのものもあった。でも、でも、一番多かったのは、中学生くらいの女の子のものだ。こういうのももはや主流は女子高生ですらないんだ。すごい低年齢化してんだね。U―15って、あたしの歳の半分じゃない・・・。
吐き気がして、あたしは、トイレに駆け込んだ。苦いものが込み上げて、その刺激で喉がヒリヒリした。
神様の、意地悪。こんな、結末が待っているなら、期待させたりしないで欲しかった。あたし、天狗になってたのかな。地面どころか地の底の底まで叩き落とされた気分。地獄だわ、まさに。こんなに胸が痛いなんて。あたしには、やっぱり心があるんだね。ズキズキ痛すぎるよ―――――。
もうどうにも耐えられなかったから、あいひに電話して、ヘルプミーって叫んだ。
あいひ、近頃始めたという壁や床のデザインや塗装のお仕事も早退してわざわざ出てきてくれて、二人で、新宿の早くから飲めるお店に入ったのだけど、あたし冷たいプールから上がったみたいに、ガタガタ身体が震えて、ずっと涙が止まんなかった。あいひは、あたしの要領を得ない支離滅裂な口調で、とりあえず大体のいきさつを聞いて、最初は、何~それくらいでショック受けとるん。浮気とかじゃないんやろ?かわいいものやない、だって、彼、モロオタクやん、そんなの想定済みやわ、って笑ってたけど、いつまでたってもあたしは平常心を取り戻さないし、あたしのあまりのショックの受けっぷりに笑い事じゃないって判断したみたいだ。
「とことん付き合うよ。うちら、プリキュアレベルの友達やろ。だから、すっきりするまで、飲んだら?」
あたしは、無言で頷く。早速ビールを注文し、立て続けに飲んだ。あたしは、もう目から水分を出しながら、口から吸収しながら、って感じで、ぐしゃぐしゃだった。
「・・・だってえ、おセバ、コスプレカフェに来たのも、友達に無理矢理連れて来られたからとか言ってたひ・・・」
「あのなあ。ガチでオタクじゃなかったら、どこの世界にあんたのことをプリンセスキャットさまって呼ぶ男がいるんや。彼は、「普通」じゃないんや。も~オタクに免疫なかったんやな。彼はオタクの中でも超ド級のオタクエリートクラスやとすぐに分かったけどな」
「ウソ~。早く言ってよお~。あいひ~。確かに、なんか普通に会話してて、声優くわしい?とか、同人ゲームにまで精通してる?なんて思ったことはあるけど、おセバの知識は幅広いから・・・そんなただ知ってるだけだと・・・」
「いやー、びっくり。そんなの普通に分かってると。羅夢だって、もう普通の男は嫌や言ってたやん。だから、現実の恋愛経験少ないピュアなオタクさんがいいんかなと」
「オタクさんはオタクさんでも、ゲームオタクとかならいいけど、なんでよりによって美少女アイドルオタクなの~。あたしのこと、唯一無二って言ってくれたのは嘘?どストライクって、身近にいる生身の人間の中では、って意味だったの?」
あたしは、テーブルの灰皿に向かって訴えかけていた。あいひが半笑いで、でも一応笑いを抑えるようにして、
「こんのキモオタ!!!って言ってやれば?・・・でもまあ、彼はまだ社会性ある岡江も稼げるキモオタやからいいやん」
「・・・そうなんかな。なんだか納得できるような、できないような・・・」
ボトルで頼んだワインはあっという間に空になった。そんなに強いほうではない、あいひは、ちょっとろれつの回らなくなった口調で、言った。
「・・・まあ、確かに考えたら、恋人が、婚約者―――か、ロリコンって最悪やね~。ある意味DVとかより悲惨かもしれんな?DVだったら共依存ってこともあるやろうし、まあ何にせよその矛先が自分に向けられてるわけやけんな。そりゃ、確かにそれだって悲惨は悲惨やろうけど。けど、性的な興味とか趣味嗜好が完全に違う次元のしかも若いどころか幼女にまで向いてるわけやろ。虚しいよな・・・。ヤツはマザコンでもあるひな」
「分かんない。マザコン、ではなかったのかも・・・。彼、お母さまのこと憎んでるようなとこもあるもん・・・」
「結局、愛情の裏返しっつーか、同じことやろ。マザロリって造語でも作っちゃほうかな」
マザコンで、ロリコン・・・。
略して、マザロリ。ロリマザ。ロリマー。いろいろ、つい並べ替えてみる。
とにかくどれにしたって、救いが、ないような気がする。
あいひの言葉に、あたしは、またわ~んと、周りのお客もおかまいなしに泣いた。
その日はどうしても帰る気になれず、あいひのアパートに泊めてもらった。ホームレス時代以来久々だった。ヒョウ柄のソファーにゼブラ柄のクッションを枕にして、牛模様のブランケットにくるまって寝た。
翌日、ふらふらした足取りで家に戻ると、彼はすでに出張から帰ってて、扉の音に慌ててドスドスと猛々しいイノシシのように駆けて来たのだけど、その顔は、一睡もしていないみたいで、充血した目をしばしばさせていた。携帯に、メールと着信合わせておセバおセバおセバおセバおセバって百件くらい入ってたけど、あたし、電話に出る気力もメールを返す気力もなくて、全部無視してたんだ。
「どこに行ってたんですか?プリンセスキャットさま、心配したんですよ。連絡くらい・・・」
「・・・・・・」
ああ、やっぱりまともにおセバの顔は直視できない。
「プリンセスキャット、さま?」
「・・・お、セバって・・・ね、ロ・・・リコンなの・・・?」
そう発するのが、精一杯だった。口にした途端、気が変になりそうだったし、涙がぼたっと床に落ちた。
「あ、あたし、見ちゃった・・・の」
「何をですか?」
「おセバの部屋にあったもの・・・」
「・・・何をですか?」
「だから、アイドルのDVDとか・・・」
おセバはマンガのキャラクターが面食らったように、ある意味面白いくらい大きな身振りで後ろにのけぞって、かなりショックを受けているようだった。おセバの部屋散らかしたままだったのに、本当に気づいてなかったのか、とぼけているだけなのか怪しいと思ったけれど、とりあえずそこは置いておこう。
「見た、んですか・・・見た、んですよね・・・やはり」
「ごめん・・・なさい。でも最初から、見るつもりなんかじゃなかったの。あの、たまたま・・・」
今度は、おセバがだんまりになった。まるで青白い月みたいに重苦しい沈黙が横たわっていた。ふたりの間に、こんな空気が流れたのは初めてだ。
「あの・・・、なんか言ってよ・・・おセバ・・・」
「・・・何を、言えばいいんですか?あれだけの物を持ってて、何を、どう言いようがあるんですか?」
友達から預かっただけだとか、悪徳業者にでも大量に送りつけられ、半ば仕方なく、どうしようもなく所持していただけだとか。あたしは、必死で、可能性を探していた。なのに、おセバが取り繕うでもなく、あっさりと認めたことに傷ついていた。
思い返せば、あたしは、以前、ふたりのお城となる新居に引っ越したばかりのとき、CDの中に一枚の明らかにいかがわしいタイトルのDVDを発見したことがあり、そのときおセバはもうかわいそうなくらいの慌てようで、これ、むかーし友達に、あのモテない組「NSG」の彼らのひとりに無理矢理貸されたんです、と言ったから、それ以上何も追及しなかったけれど、あのときのように否定はしてくれないんだ。
あたしは、冷蔵庫のほうにつかつかと歩いていって、冷蔵庫を開けると、ビールを取り出し、開けた。勢いよく内蔵に流し込むと、その前に前日からの下地ができていたせいか、すぐにアルコールは身体を駆けめぐっていく気がした。そして、それとともに怒りも増大してゆく。
だって、浮気でも、相手との関係を破綻させたくなければ、絶対に、認めちゃいけないって言うじゃない。ううん。でも、結局認めなければ認めないで、腹が立ってたに違いないけど。どっちにしろ、そういうそもそも疑惑が出たこと自体、問題だ。おセバの落ち度だもん!おセバがもしどうしてもあたしに知られたくなかったことなら、トランクルームでも借りて、別の場所に置いておくべきだったんだ。これはおセバの怠惰だもん!
あたしは、酔った勢いに任せて、おセバを問い詰めた。弁解してくれないのなら、土下座でもして誠心誠意ひたすら真剣に、涙でも流しながら謝ってくれることを想定してたと思う。
でもね、そしたら、突然ね、くわってね、おセバの表情が豹変し、いつもは穏和そうな、どちらかというと垂れ気味の眉や目尻がきゅきゅと釣り上がって、彼が怒りを剥き出しにしたんだ。
ほら、映画の『ロード・オブ・ザ・リング』でさ、すごく優しいドワーフのおじさんが指輪を見た途端、くわっと豹変したみたいにさ。あれ、きっと子供たちだけでなく大人もみんな傷ついたでしょ。傷つくよね。少なくともあたしにとっては、あの映画の中で、一番悲しい場面だった。おセバはフルフル震えてた。
「なぜ・・・。いくらプリンセスキャットさまでも、そこまで踏み込む権利があるんですか。僕がプリンセスキャットさまの部屋に無断で入ったこと、ありますか?そういう境界線は引いている人間だと、思ってました。勝手に人の部屋に入るなんて、人の物を漁るなんて、人として最低の行為ですよ。というか、もう人のやることじゃない。人間以下ですよ。軽蔑します」
ちょっとちょっとと、あたしもとりあえずおセバの発言を中断させて多少の弁解は計ろうとしたよ。でも、おセバはまるで完全に自分の世界に入ってしまったように喋り続けた。
「大体がそういうことするかね。僕がどれだけ頑張ってやって来たと思うんだ。僕は、そんなに大人でも、偉くも、完全でもない、ごく普通の人間で、でも、プリンセスキャットさまに好かれたくて、完璧完全を目指して頑張ってやって来たんだ。なのに、それを台無しにするようなこと、やるかね。自分がやったことが、どれだけ最低最悪で下劣で醜くて酷いことだと思ってるんだ。僕は聖人君子じゃないっ」
「ま―――待って。待って。落ち着いて。とりあえず、正確なことを、知りたいの。正直に、話して。あれはいつからあったの。いつくらいから・・・」
「だから、言ってるでしょうっ。僕の、精神的絶対領域を侵さないで下さいっ」
おセバの額には、血管が、浮き出ていた。ええええ。こんな風に、怒れる人、だったの?思わずのけぞって凍り付いてしまったあたしに、おセバは追い打ちをかける。
「恋人だからって、一緒に暮らしてるからって、全てを相手に話さなければいけないんですか?そんなことしたらケンカもいさかいも増えてギスギスした生活になるだけじゃないですか?プリンセスキャットさまだって、僕と暮らし始めてから、一度、男の人と歩いてたことあったでしょう。だいぶ前でしたけど。僕たまたま見たんです。仕事の用事が入り、ちょっと渋谷に立ち寄ったときのことです。なんでこんな人混みの中で、見つけてしまうんだろうと、自分の運命を呪いました。弟さんでないのは確かです。背の高い、イケメンさんでした。でも、僕は何も言わなかった。しばらく気持ち的に落ち着かなくて、変な感じでしたけど。でも、その件について訊かなかったのは、プリンセスキャットさまを信用してたからだと思います。プリンセスキャットさまだって、僕に言わないことくらいあるでしょう」
おセバは顔を赤くして、それこそ薬缶が沸騰したみたいに興奮して、叫んだ。なんかちびまるこちゃんの作者の『コジコジ』ってアニメに出てきた、キャラクターみたい。
「それは・・・・。見てたんだ。そんな・・・そのとき言ってよ?だったらちゃんと説明したのに。なんで今頃になって言うの・・・。なんでこのタイミングで・・・」
今度は、あたしが不機嫌になる番だった。
「あたしは、あたしは、おセバと付き合ってから、誠実でいようと・・・思ってたし、絶対に、裏切ったりはしてない・・・。ヘンに、心配かけるの悪いと思って・・・。ただ、それだけ」
「そんなの、証拠がないから真実は分かりませんよ」
おセバがすねたような口調で言い捨てた。
あたしは、ショックでしばらく口がきけなかったけど、ただ涙は止まらなくてひっくひっくと泣きじゃくっていた。いろいろとショックが多すぎて、もう何が本当の痛みなのか、何が一番のショックで悲しみで苦しみなのか、はっきり分からなかった。自分にも分からないのにおセバに分かるはずがない。
「プリンセスキャットさまは、何がそんなにお嫌なんですか?僕には分からないな・・・。ちゃんと生活も安定してて、僕の愛情だって疑いようがないでしょう。僕は恩着せがましいこと言うのは嫌いですが、カフェ時代もお仕事の合間を縫って通い続けるのはなかなか大変でしたけど、頑張りましたし、お付き合いさせていただけるようになって、プリンセスキャットさまのために車三台分、マンション一棟分くらいはゆうに使いましたよ。それ以上に何を望むんです?そもそも、僕に近づいたのも、お金目当てではないんですか?じゃなきゃ、僕になんて関心持つような女性はいませんよ。未久瑠さんからも、僕が社長だと聞いていたんでしょう。彼女の口から、羅夢ちゃん玉の輿狙いなんだろうなって聞きましたよ」
「ひっ、ヒドイ。それは、違うよ、違う。あたし、最初知らなかったもん。そんなにおセバがお金持ちですごいヒトなんて・・・。だからいつもあたしのためにお金使わせるの悪いなって・・・。本気で思ってたもん。あたし別にそんな、そりゃ確かに、一緒に暮らし始めてから贅沢でワガママになってたとこあるかもしれないけど、そもそもはそこまでがめつい女じゃない・・・」
「そうですか。僕はたくさんお金を使わないと、プリンセスキャットさまの心はきっと離れていくと思ってましたよ。普通の恋人同士なら、お小遣いなんてもらわないでしょうしね・・・」
冷たい声。おセバに甘えてたのは事実だけど。お金のことを言われたら、どうしようもないけれど。確かに、おセバはそれくらいよくして来てくれた。だけど。
「とにかく、あたしは、あたしはただ・・・ショックで・・・。ホントに、ただ、ショックで・・・」
「自分以外の女の子にも興味があったってことがですか?」
ぶちり。
あたしの中で、何かが切れた。図星だったから?それって、やっぱりプライドが高いのかな。鋼鉄の自尊心。最大級レベルの自己愛。分かんないけど、とにかくおセバの前でタバコに火をつけ、思い切り吸って、そして、言ったんだ。おセバなんか、おセバなんか、思い切り傷つけてやる、そんな気持ちだった。
「・・・そうね。おセバだって普通の、ただの男だったってことだよね。でも、結構他の男を俗っぽいだの頭が悪いだの品がないだの野蛮だのって見下してる風な感じだったけど、よく言えたね。それを巧妙に隠して、自分はさもお綺麗な人間ですみたいな顔して、よく悪びれもせず生きてるわよね。相当、面の皮、厚くない?あたしは、ずっとおセバに釣り合わないんじゃないかとか、申し訳ない気持ちでいっぱいだった・・・。こんなあたしが、彼女で、恋人で、婚約者で、結婚して妻になんてなっていいのかなって、ずっと心苦しかった。苦しくて苦しくて、本当に精神的にどうにかなりそうなことだってあった。・・・でも、そんな罪悪感とか、感じる必要なかったのよね。あたしたち、本当の意味でお似合いじゃない?あたしだって潔癖でも、清純でもないしね・・・。・・・昔、風俗で働いてたこともあるんだし。あたしもおセバに好かれようと自分を偽ってお綺麗ぶってたの。確かに男に貢ぐためもあったけど、別に、そういう職業選んだのにたいして理由なんてなかった。ただ、自分の欲望に従っただけだもの。そもそもがきっと、ああいう行為が、好き・・・嫌いじゃないのよ。いろんな男とやるのに、抵抗なくて、それで普通のお仕事より断然稼げるし、そういうことが好きだったからっ」
「やるなんて・・・プリンセスキャットさま、下品な言葉だ」
「下品?おセバに言われたくないよ。おセバこそ本性卑しくて品性下劣じゃない。あはは、おかしい。あたしたち、ほんっとうにお似合いなんじゃないの?」
おセバは、ちょっと愕然とした表情だった。いい気味だと思いたかったけど、自分の心も震えていた。悪魔のような発言をしながら、心が粉々になって飛び散りそうだった。
「・・・でも、とにかく、見つかった以上穢らわしいから、全部捨ててよね。ここは、おセバとあたしのふたりのお城なんだよ?おセバが始めにそう言ったんだよ?なのに、本当に酷いよ」
あたしは、先日もらった指輪を、おセバに投げつけた。それこそめちゃくちゃな言い分で、ものすごくワガママな要求なのは、百も承知していた。でも、もう知ってしまった以上、それらをおセバが持っているなんて、耐えられなかった。
おセバは、怖い顔をしたまま、分かりましたよ、全部捨てますよ、とそこらへんに投げ散らかしてあった、破損した写真集やらDVDやら、オタク物を七十リットル容量のゴミ袋二つにまとめて放り込むと、かわいらしい小太りのサンタクロースみたいに肩に抱えて、玄関に向かった。そして、振り向きざま、ちゃんと捨てたか心配なら、あとでゴミ捨て場に行って確認してください、今日は、帰らないかもしれません、しばらくプリンセスキャットさまの顔見たくありません、と言い残して家を飛び出してどこかに消えてしまった。
部屋に残されたあたしは、呆然としていた。何をしていいか分からなかった。でも、いつまで経ってもおセバが戻ってこないことが、いつものように下手に出て、優しい言葉であたしのご機嫌を取ってくれないことに、胸が張り裂けそうな気持ちだった。
「なんで・・・?なんで?なんでよお・・・」
きっと、他のことなら、どんなことでもおセバはひたすら土下座でもして、あたしの許しを請い、もうそれこそ何でもします、死んでお詫びをしますくらいに言ってくれたと思うのに。
あたしは、床に顔をこすりつけて泣いた後、腹立たしさが抑えきれず、おセバの部屋の物に当たり散らすと、冷蔵庫を開けて、またビールを流し込んだ。
アルコールは感情を増大をする効果があるらしい。怒りとも、憎しみとも悲しみとも孤独とも区別がつかないような感情の波が身体を包み、あたしはその波に押し潰されそうになり、転げ回った。そしてそれに疲れて、気絶するように寝た。
寒くなって目覚めると、部屋の中は死人の手に包まれてるみたいに異様に冷たかった。夜の十一時だった。窓の外は真っ暗闇だ。冷蔵庫の製氷機がまた、人をおどすようにカタッと音を立てる。不安で不安で、人ごみの中で母親を見失った三歳の子どものような気分だった。こういう心細さを味わったのは久しぶりだった。あたしは、エイリアンに下半身を食いちぎられでもしたように這って進み、床に転がっていた指輪を拾うと、ぎゅっと握りしめた。
それから、三日くらい、あたしは壊れた人形も同然だった。ただ、生きて普通に生活していたけれど、それは多分機械的な行為で、何をしてても、例えば本を読んでても、お散歩してても、お買い物してても、テレビを見てても、ふと気づくと涙が零れている。
あたし、怖いもの見たさでアイドルDVDもいくつか中身を検証しちゃったんだよね。若くてかわいらしい女の子が、真っ白い肌で童顔の美少女が、波打ち際を水着姿で走る。なんていうか、「何がいやらしいのか分からない」ってのがまたショックだったな。あからさまないやらしいビデオとかなら別に傷つかなかったと思うんだよね。むしろ一緒に見ようよなんて冗談も言えたかも。(笑)だよ。けど、ただワンピース着てぴょんぴょん飛んだりしてる女の子見て笑えないよ。おセバ、どんだけ妄想してるのよ。
考えたら、黒木田さんの彼女のことで、変に焼きもち焼いてたのも馬鹿みたい。おセバの関心は、そういうとこにはなかったんだよね。
大体、二次元の女の子なんてのも、かわいいよね。瞳が大きくて、まつ毛長くてバチバチで、瞳の中キラキラで、白い歯で、髪の毛サラサラで、手足長い上に巨乳またはスレンダーでスタイルも良くて、太ったり、劣化もしなくて、毛穴もないし、いつもかわいいポーズでにゃんとか言ってくれて、純粋無垢で、ワガママ言ったり、お金ばかばか使ったりしないで、ただ綺麗なとこだけ見せてくれるんでしょ。 どうせ、あたしなんかバカだし、能なしだし、下品だし、嘘つきだし、卑屈だし、礼儀もなってないし、年増で中古だし・・・アル中で半分ウツ病みたいだし・・・貧乳だし毛穴あるし、性格悪いし・・・。瞳死んでるわ、かかとガサガサで、劣化も激しくて、身体にガタが来てるみたいだし・・・。
最悪だよね。もう十代の生娘でもないのに、あたしはなんでこんなに傷ついてるんだろう。