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出会い~コスプレで世界は変わる


出会い~コスプレで世界が変わる



 改めて、思い出す。

おセバに出会ったのは、あたしが二十七歳のときで、コスプレメイドカフェ&バーで働いていたときのことだ。この回想談はちょーっと退屈かもしれないけど、我慢してね。そこに辿り着くまでにはいろいろというほどのこともないんだけど多少いろいろあって、一緒に暮らしてた恋人に裏切られ、住むところを失って、ちょうどその少し前に、ちょっとしたことから上司と険悪なことになり、ごくごく些細な誤解から生じた同僚との軽い揉めごともあって、ストレスであちこちに湿疹ができて、数年やっていたアパレルの販売員のお仕事を辞め、職探しをしていたのだけど、何の資格もないあたしにそうそういいお仕事なんて見つかるはずもなく、なけなしの貯金も生活費に充ててるうちに底をつき、その上ホームレスにまでなって、本当に散々な時期だった。

 結局、自分がやる気になればすぐに飛び込んでいけて、それなりに稼げるとしたら夜の世界なのかしら、と思って、バニーガールのお店やキャバクラ何件か体験入店して、日払いをもらってその日をしのいでいたのだけど、思い切り男性不信な時期に男性相手の仕事も続けるにはしんどくて、なんかもう生きること自体面倒くさくなりかけてて、そんなとき、軽くバーで一杯引っかけて新宿の町を歩いていたら、突然怪しげな、うっすら柳みたいに垂れた前髪から細い切れ長の鋭い目が覗く、ビジュアルロック系バンドをやってそうな、ヒョロヒョロした男性に声をかけられ、お店をオープンしたばかりなんですが、女の子が足りなくて、うちの店で働きませんか?と勧誘されたんだ。

 最初はどうせ、風俗かキャバクラか、はたまたAVの勧誘だろうと思ったけれど、変わってるとは思っても邪悪な印象は受けなかったし、醸し出すオーラがあまりに不思議な人種だったので、興味本位で付いていったら、意外なことに、それは、コスプレカフェ『エンジェルキャット』という場所だった。一応、天使や小悪魔がモチーフとなっていて、天使の置物や十字架が吊るされた店内に、白い羽根付きのバレエのチュチュみたいな衣装を着た女の子と、黒いゴスロリちっくな衣装を着た女の子がいた。店長の説明では、基本の衣装に加え、週に一度、全員が普通にエプロンつきのメイド服を着る日と、アニメやマンガのキャラクターのコスプレ衣装を着る日を設けているのらしい。月によっては、一日全員和装や全員男装、全員制服、そういうイベントもあるのらしかった。

 そういうお店で働いているコは十代も多いらしい中で、二十も後半に差し掛かったあたしには年齢的にちょっと厳しいものがあるし、オタク的な知識もないから厳しいかなとは思いながら店長の面接にのぞんだのだけど、勧誘してきた男性同様ヒョロヒョロなよなよしたロン毛の店長曰く、その茶色の髪を黒に染めて、ギャルっぽいメイクを変えたらOK!、ということだった。好きなマンガやアニメやゲームや小説を訊かれ、昔の少女マンガが好きです、という話をしたのも良かったのかもしれない。結構意外なほど盛り上がってしまった。時給も悪くなかったし、ビジュアル系店長さんはそのヒョロヒョロした外見に似つかず太っ腹で、お給料も前借させてくれるなどと言ってくれたので、とりあえず興味本位で勤めることにした。

 正式に採用が決まった『エンジェルキャット』では、まず店名をつけることから始まった。店長に名前の希望を聞かれたのだけど、思いつかず、お任せします、と答えると、顔を覗き込まれ、お前の名前は、ま、み、む・・・らいむ、らむ、ラム・・・だな、と言った。『うる星やつら』ですか、と言うと、まあ、そんな感じのイメージだ、と店長は言った。漢字をつけて、羅夢、に決定した。かわいい名前だと喜んでたら、後に、あたしに八重歯があったから思いついた、なんてちょっと微妙にむっと来ること言われたけど。八重歯、昔からコンプレックスだったんだもん。

 お店には、レモンに、みるくに、紫苑、美麗、ゆりあ、ミント、いろんな名前の女の子がいた。元々コスプレとかそういうのが好きで自分から応募してきた子と、スカウトされた子と半々だったけど、元からコスプレが好きな子は、自前の衣装も持っていて、それも自分で好きなマンガなりアニメなりゲームなりのキャラクターのを手作りしていたりして、感心してしまった。

 女の子たちは皆個性的というか風変わりで、話していることの半分以上が理解不可能な電波系と呼ばれる子もいたし、男性同士の絡みが大好きな腐女子系は勿論、自傷癖薬物依存自慢のヤンデレ系、クールビューティなツンデレ系。昨今一般的にも認知されたけれど、アニメやマンガのキャラクターそのもののような子が現実にいるのだとびっくりした。

 あたしは、中途半端なエクステを外し(長らくつけっぱなし状態で虫が湧きかけていたので、きっかけがあって良かった)、髪を黒く染め、濃いアイメイクも辞めて、脱ギャルして仕事にのぞんだのだけど、オタク特有の世界観に馴染みというか免疫がなかったので、慣れるまでは案外大変だった。

 一番の苦労は、お客に対して、ご主人さま、なんて言葉がなかなか言えないことだった。だってまあ、普通に考えれば当然二十七歳にもなって、ご主人さま、なんて正直はっずかしい。しかし、他の女の子たちは、みんな抵抗なさそうどころか、衣装に合わせてなりきって話す。お店のコンセプトは天使と悪魔が神の命令で地上に降りて、愛や幸せを与えるために人間のご主人さまにお仕えするというものなのだけど、天使の白い衣装を着ると優しく、悪魔の黒い衣装を着るとそれこそ女王さま的に威圧的な口調や態度で、芝居がかって振る舞うのだ。ひー。すごすぎるよ。

 羅夢や、恥ずかしがるようじゃここの仕事は務まらないよ、と店長にも怒られた。そりゃそうだ。できないんだったら、普通の喫茶店にでも勤めればいい。お手洗いに行くたび、こっそり、鏡の前でにっこり鏡の中の自分に笑いかけながら練習してみたけど、どうしても照れがあるためにぎこちない。夜中、どこで一晩明かそうかふらふら歩道を彷徨いながら、思いたって、胸の前でハートマークを作りながら笑顔で、「いらっしゃいませ、ご主人さま(はあと)」なんて練習してみたら、通りがかりのサラリーマン風の男性にぎょっとされた。

 週一回のコスプレデーも、単純にいろんな衣装を着られるのは面白かったけど、基本何のキャラクターかよく分からない。それは、そういう着方じゃないよ~、と他の女の子に笑いながら注意されてしまう。メジャーなガンダムだって見たことなかったし。エヴァンゲリオンだって、名前しか聞いたことがなかったんだ。唯一、女の子の間でよく話題に上る『幽々白書』は、学生時代にオタク部類の女の子だけでなく、一般的な女の子にも浸透して大ブームだったし、あたしも例に漏れずにはまったくちだったから、語れたけれど。

 特に制服コスプレに関しては、どれも似ていて、どれが何の学校の制服やらさっぱりだった。『DCダ・カーポ』?『同級生』?『ピアキャロット』?『君が望む永遠』?『月姫』?何のこと???って感じ。のちのち常連のお客さんから学んだところによると、どうも、ギャルゲーとかエロゲーと言われるジャンルのものらしかった。

 さらに苦労したのは、ドリンクやフードを女の子がお客さんの前で作ったり、ハートマークや文字をデコレーションしたりするサービスだ。あたし、手先はあんまり器用なほうじゃないんだもの。お客さんの中には、そういうことを告げると、わざわざそういうフードを頼んで練習させてくれる親切な心の広~い人もいた。カフェに来る人は、基本みんなびっくりするくらい優しくて、女の子たちは皆、お店に来るお客を「一般人」か、「オタクさん」かという二つに分類してたけど、「オタクさん」人種って、それまであまり接したことなかったけど、こんな心癒される人種がいたんだあと感動したくらいだ。

 『エンジェルキャット』に来る人たちは、仲良くなっても、例えば普通のキャバクラでのように、お金を払って来てるんだからやらせろ、とか、触らせろ、とか、そんな見返りを口にすることなく、ただ純粋に顔を見に来たよ、なんて、お土産におもちゃやぬいぐるみなんかを持ってきてくれたりした。まあ、金額の問題や、お店の趣旨の違いはあるにせよ。

 あたしもだいぶコスプレというものを学習したある日、とあるアニメのキャラを真似て三つ編みにしていたら、そこそこ年配のお客さんに真剣深刻な顔で一生のお願いがありますと言われ、どんなことを要求されるのかとドキドキしていたら、三つ編みを引っ張らせて欲しい、とそんな要望だったのには、ずっこけそうになった。けど、その年配の男性が実際にあたしの三つ編みをつんつんと引っ張って、きゃきゃきゃとすごく楽しそうに笑っているのを見ると、なんだかほんわか心が和んでしまった。

 さすがに、他の女の子のように、招き猫のようなポーズを取ったり、キャピキャピした喋り方はできなかったけど、次第にあたしはギャルっぽい見かけを変えたのと同じように、言葉遣いにも気をつけるようになったし、確実に、それまでの自分とは変っていくのを感じていた。

 今や飽和状態なんて話も聞くけど、まだそういうコスプレのお店が乱立する前だったのもあって、お店は常に忙しかったし、女の子もお客さんもみんなで一緒にお店を盛り上げていこうとする雰囲気も楽しく、日々こちらも勉強で、歌(勿論アニソン)やダンスの練習をして披露したり、常連のお客さんの誕生日を祝ったり、自分のことを支持してくれるお客さんもできたからかな、意外とやりがいがあって、あっという間に日は過ぎていった。

 半年くらい経った頃だろうか。彼、おセバはやって来た。後に聞いたところによると、おセバは、ミーハーで新しいもの好きの中高時代からの友人にしつこく誘われて渋々行くことにしたのだけど、最初はあまり気が進まなかったらしい。そういう場所に行くのは最初で最後だろうとも思っていたようだ。

 一緒に来た、その、少し色が黒くて、ヘアスタイルも毛先が無造作風に遊んでて、今どきで、世代的に、過去(あるいは現在も)キムタクやナカタはリスペクトしていましたって、かなりあたしの勝手な決めつけだけど、とにかくそんな感じの外見と喋り方をする中高時代のおセバの友人のほうが、注文を取りに伺った女の子やテーブルの側を通った女の子片っ端から、

「ねえねえ。彼氏とかいるの?普通いるよね。こういうとこで働いてることについて何か言ったりしない?」

「そのフリフリの下がガータベルトだったら、脱がすとき興奮するんだけどな」

などと、しきりに話しかける横で、おセバは終始居心地悪そうに下を向いて、カチャカチャと腕時計をいじっていた。

 それを見て、きゅうんとしたんだ。何もその腕時計が高級だったからじゃないよ。

 あたしは、彼の帰り際、かなり自分で特上と思われる笑顔を作って、

「あ、あっりがとうございました。ぜひ、また来てくださいね」

と、彼に向かって声をかけた。彼は、一瞬驚いたような表情をして、時間が止まったように硬直していたけれど、我に返ったような素振りを見せると、はにかみながら、頭を下げて、

「・・・また来ます」

と言った。またもや左手首の時計に置いてカチャカチャしていたその真っ白な右手までが、ほんのり赤みを帯びていた。

 なんだか、その控えめな態度に、胸の中で何かシャボン玉のようなものがぽわわんぽわわんと弾けたような感じがしたんだ。そして、また会いたいな。そう思ったんだ。出会っては特別関わることもないままに通り過ぎてゆく人々が数多くいる中で、そんな風に心に留まる人物、ってそうなかなかいないものだ。

 そこのお店に限っても、すごくいい人で、気が合う人、やとても好きな人間はいっぱいいたのだけれど、直感的に心に響いた人、というのはおセバが初めてだった。ちなみに、彼のほうも、あたしにぴぴっと来て、あたしの帰り際の一言があったから、また足を運ぼうって気になったらしい。

「一目惚れって言うんですかね。プリンセスキャットさま、どストライクでしたよ」

 おセバは、のちに、そんな風にも言ってくれた。「どストライク」って言葉、本当に嬉しかったな。だって、好みのど真ん中ってことだよ。それってすごいことじゃない?それ以上がないってことでしょ?そんな言葉言ってもらったの、初めてだったし、涙が出そうになっちゃったよ。


話を進めよう。とにかく、おセバは最初の出会いから一週間して、翌週、再びコスプレカフェにやってきた。また例の遊んでそうな友達と、とても恥ずかしそうに。なぜ友達同士なのだろうと思うほど、不釣り合いなふたりだったけど、友情にケチをつける気はない。

 そうして、席についても、派手な友達のほうがまた馴れ馴れしく答えづらいような質問を女の子に浴びせかけて、みんなをタジタジさせている隣で、カチャカチャと時計をいじっていた。注文を窺っても、一切こっちを見ようとしない。そこに存在してるのが申し訳ないというように、飲み物を飲み切ってしまうと友達をうながして、逃げるようにしてそそくさと帰って行った。

 やっぱり、居心地悪いのかな。支払いが、全部彼持ちなのも気になった。人が良さそうだから、都合良くお財布として利用されてるんじゃないの?さすがにもう、来ないかも。

 だけど、驚くことに、おセバはまた翌週、今度はひとりでやって来た。そしてまた、所在なさげに、うつむき加減で飲み物を注文し、一気に飲み干すと、指名手配中の犯人が周りを気にするかのように、目だけキョロキョロとして、見ているこちらがハラハラするほど慌ててお会計をすまし、こけそうになりながら出て行った。おセバの接客をしたかったけれど、タイミング悪く、あたしは、料理を作っているところだった。

 もう会えないかしら、と思ってたけど、毎週、三日に一度、おセバの来るペースは頻繁になっていった。そして、徐々にお店にも慣れていったようだ。

 おセバの指定席は、お店の奥の、一番ひっそりとした場所だった。常連さんになるような人は大体、女の子が(衣装が?)よく見えるような位置、主にカウンターに座るのに。でも、あたしがお客だったら、きっと同じ席を選んだ。基本が根の暗い人間だからなのか昔から隅っことか端っこが好きだし、なるべく人の視界に入らないよう死角になるところがいいし、そうだ、いつ背後から敵(漠然としたイメージだけど)に襲いかかられるとも限んないから、背中を取られないように、壁に面したところが良い。(被害妄想も激しいのかな)

 おセバは、自分から女の子に話しかけるようなことはしなかった。ただいつもじっとして静かに文庫本を読んでいた。その本は国内外のミステリや歴史小説だった。

 まともに会話したのは、確かどしゃぶりの雨の日だった。おセバは足元がかなりびしょ濡れで気の毒なくらいだったけど、その日はさすがにお客さんも少なくて、あたしはゆっくり彼の相手ができると、心密かに喜んだ。

 しかし!

 あたしはその前日、お店で仲良くなったあいひと一晩中お酒を飲んでいて、恐ろしく二日酔いで、まだどこか体が宙に浮いてるような、熱を持ってぼうっとしているような状態だった。しかも、シャワーも浴びないままの出勤という恐ろしいことをしでかし、お酒臭いのも気になって、近づきたいのに近づくのが怖いというジレンマに陥ってしまっていた。

 神様の采配か、意地悪か、おセバの頼んだ黒い悪魔の液体(要するにただのアイスコーヒー)をあたしが運ぶことになった。そのときから、なんとなーく嫌な予感はしていた。そういう予感はまず的中するものである。

「お待たせいたしましたー」

おセバの前にアイスコーヒーを置こうとした瞬間、一瞬お酒臭いんじゃという不安がよぎってぎこちなくなってしまったせいもあって、汗ばんでいた手が滑り、アイスコーヒーはおセバめがけて飛んで行ってしまった。あああああ。

 毛穴が一気に開き、冷え性のはずのあたしの全身からはお酒交じりの汗が噴き出していた。慌てておしぼりを取りに行き、彼の汚れた服を拭こうとしたけれど、手が震えて、うまく拭けない。おセバは真っ赤になって、大丈夫です、すでにドブネズミくらい雨で濡れてましたからっ、まあ上半身は雨でなく汗なんですけど、なんてワケわかんないこと言って恐縮してた。お店の女の子たちが大丈夫?と駆け寄ってきてくれたけど、まあ相手が、あの人はいい人だよねと誰もが太鼓判を押す彼、おセバだっただけに、そんなに深刻に心配するでもなく、羅夢ちゃん、リアルドジっ子だ~なんて笑っている。

汚れたおしぼりをキッチンに下げ、あまりのショックに平静に戻れずにいると、ちょうど出勤してきたばかりの未久瑠ちゃんという、いつもツインテールでまさにオタクウケ最強の、ちびっこで巨乳という女の子がたたたとおセバの元に駆けていった。

「きゃ~ん。どうしたんですか~。大隈さん、大丈夫?」

未久瑠ちゃんが、手のひらでおセバの顔を包みながら、おセバの顔を覗き込む。心臓がちくりと鳴る。未久瑠ちゃんの顔が彼に近づくのがたまらなく嫌だった。未久瑠ちゃんは決して悪い子ではない。悪い子ではないのだろうが、その天真爛漫風に作り込まれた?キャラクターとダイナマイトボディーを武器に結構なやり手だと女の子の間でも評判だった。普段はそんなに声が高いほうでもないのに、お店のお客さん相手の接客だからというにはやりすぎなくらい、あからさまに猫撫で声で甘えて、何人も虜にしてはゲームのソフトや高額なコスプレ衣装などを貢がせているというのだった。で、ハラグロツインテールなんて陰でこっそり呼ばれていた。

 どこまでホントかは分かんないし、別に、表面上みんなわきあいあい仲良くしてたし、お店内で仲間外れとか陰湿なイジメとかはなかったんだけど。お客以上にお店の女の子に大人気のあいひが言い出したら、定着してしまった。まあ女の子が何人も集まれば、多少はなんかあるよね。なんていうかそういうの。

あいひは、お客にも、あだ名をつけるのが好きで、残念なルカワ(スラムダンク)、気弱そうなケンシロウとか(北斗の拳)、動きの多いトトロ(注釈つけるまでもなくとなりのトトロ)とか、サブカルなマリオ(スーパーマリオ)とか、幸薄そうなゴルゴ(ゴルゴ13)。で、まあその流れで彼、大隈孝士郎は「執事のセバスチャン」と命名され、最終的に「おセバ」になったわけだけど。

とにかくそのときのあたしは、気が気じゃなかったな。

 未久瑠ちゃん、大隈さんのこと、気に入ってるのかな・・・。

 未久瑠ちゃんは確かまだ二十前後だったはず、と、未久瑠ちゃんの若さも気になりながら、あたし再びおセバのほうに向かうと、深々と頭を下げた。

「別に、気にすることないですよ。ちょっと失礼しますね」

 おセバは、そう言って静かに席を立って、お手洗いのほうに向かって行った。その大きなクマのような、とてもスマートとは言えない後ろ姿を見たとき、あたしの胸は激しく苦しいような切ないような気持ちになった。

―――あたし、あの人が好きかもしれない。


こちらでクリーニングに出しますから、いえ、もう捨てても構わないような服なので大丈夫です、そんな訳にはいかないです、気になって今日夜眠れないです、そんな、言ってみれば、あれもサービスの一環みたいなものじゃないですか、僕なんてある意味得した気分ですよ、なんてしつこいやり取りを行ったあと、とりあえず連絡先を、とどさくさに紛れてメール交換をした。一応、お店の方針としては、お客とは連絡先を交換してはいけないことになってたんだけど。ルール違反、しちゃった。へへ。

彼からのメールが来るまで、あたしは何度も何度も自分の携帯を確認した。メールの着信合図に思わず手が震えて、おセバからだと分かると嬉しさで飛び上がりたいくらいだったな。人柄が伝わってくるような紳士で丁寧な文章は想像通りで、初メールから、その後も情細やかなやり取りを、あたしたちはしたんだ。でも、メールではだいぶ打ち解けて来ても、いざお店で実際に会うとあまり会話が弾まない。他の女の子との会話のほうが盛り上がってる感じがして、見ていて落ち込むことも度々あった。

 二人の距離が縮まったきっかけはなんだっただろう。

 あいひの、

「あのおっきくて物静かな人、羅夢のことだいっすきなんやろうねえー」

という一言から、まさかまさかとは思いつつも、少し自信を持てたからかもしれない。実際、お店では接客する女の子を指名できるようなシステムになってたんだけど、おセバがあたしを指名してくれるようになったからかな。

それで少しお店でも親しくなって、そしてついに場所や時間の取り決めやどこに行くかなど、まどろっこしいやり取りを延々としておきながらやっと、あたしたちは、一緒に映画を見に行くことになったんだ。映画は、あたしの見たいものをと散々粘られたんだけど、あたしは何でも良かったから、最終的に彼の提案で、彼が崇拝しているという、とある種の人間たちにとっては神であるらしい監督のアニメになった。前売りを購入していた彼はすでに公開初日に見ているのだけど、初めて見る人間にとってもおそらく面白いので、あたしにも良かったらぜひ一度見て欲しい、ということだった。あたしはアニメについてはディズニーやジブリや子供の頃見たようなのしかよく知らなかったけど、お店の女の子たちもその作品について話していたので、興味はあったんだ。けど、しばらく生活がめちゃくちゃだったから、映画を見る余裕なんてとてもなかったし、おセバがとってくれた映画館の椅子の座り心地の良さに、予告が始まり、辺りが暗くなると、途端に眠気が襲ってきて、本編が始まって、三分くらいで気持ちよく眠りに落ちていった。

 音が耳から入るからなんだろうか。夢の中では、あたし自身が怪物だかなんだかと戦っていたようだ。だいぶあとになっておセバに、あのときプリンセスキャットさま何かと戦ってらっしゃいましたよね、と言われた。うんうん唸って手足を動かして暴れていたらしい。全然記憶にないのだけど。

気がついたら、エンディングの曲が流れ、ゾロゾロと列をなして観客が外に出ようとしていた。

「出ますか」

彼は、あたしにかけてくれていた上着をそっと取ると、丸めて脇に抱え、にっこりと微笑んでから席を立った。 あたしは顔を赤くしながら頷いて、彼に続いた。

 映画館の外は心地よいくらい一面青空だった。

 映画館を出てからしばらくの間、あたしたちは、まるで他人行儀にゆうに半径一メートル半は空けて歩いた。彼は、歩調をゆっくりと合わせてくれたので、横のラインは同じなのに、ふたりの間を人が二人通れるほど離れたままというのは、端から見ればきっと不思議なものがあっただろう。でも、その距離感が、またあたしの胸をきゅんとさせたんだ。

緊張を解くためにも飲みましょうということで、適当に入った居酒屋で、彼に注文をお任せしたら、メニューにあるもの片っ端から全て頼んだのでは、というくらいずらりと料理が並んだ。最初から揚げ物ばかり食べる彼に、あたしは目を丸くした。その視線に気づいたのか、

「すみません。お恥ずかしながら、昔から、居酒屋だとまずは揚げ物、なんですよねえ。と言っても、次も揚げ物、さらに揚げ物、その上まだ揚げ物なんですが。揚げ物って、なんでこんなにビールに合うんですかねえ。最高です!いえ、でも、実は羅夢さんに出会ってから、一応少しは痩せようと・・・。こんなおデブじゃ一緒に歩くのもお嫌でしょうし。あ、おデブなんてかわいく言っちゃいましたが、デブはただのデブなんですけどね」

 なんだか、笑ってしまう。

「僕、おかしいですか?」

「あ、ごめんなさい。そんな悪い意味のおかしさじゃなくて」

「羅夢さんに笑われるのなら、ありがたき幸せですけど。・・・そ、その笑顔がとても好きで」

おセバが耳まで赤くなった。あたしもつられて、なんだか顔が内側から火を当てられたように熱くなった。

「ホントですか?ありがとうございます。あたし・・・、実は、昔から、八重歯があるのが気になってて。だから、いつも笑顔に自信なくて。笑うとき、口元隠しちゃう癖がついちゃって・・・」

 あたしは、それとなく口元に手を当てて、へへ、と笑った。基本的に、それとなく口元を隠して笑うのは昔からの癖なのだった。

「その八重歯、僕は素敵だと思うのですが・・・。でも、その口元隠して笑う仕草も、お上品な感じがしてすごくいいなあ・・・と思ったのですよ」

 そんな風に言われたのは始めてだったから、あたし、目が真ん丸、ヘビーな驚きだったよ。

 おセバといると、空気が柔らかく、優しかった。まるでウサギの毛でできた毛布や、澄んだ天然のぬるま湯や、初春の穏やかなお日様の光や、そういったものに包まれてるような気がした。波長が合うとはこういうことをいうんだろうか。おセバは神様があたしに使わした天使かもしれない、と本気で思った。

 いきなりの摂取エネルギー過多で翌日はお腹を壊して苦しんだけれど、楽しく幸せな気分は消えなかった。



いつしか、あたしとおセバ、外で会う回数は増えていった。お仕事の入っていない日は、基本彼と会う時間に充てた。デート場所は主に公園や居酒屋で、あたしは相変わらずのホームレス生活で、マンガ喫茶やスパに寝泊まりしながらだったけど、毎日が楽しくて悲惨ではなかった。普通に外で会うようになっても、おセバはあたしがカフェに入っている日は必ずカフェにも来てくれた。ほぼ皆勤で、お店から表彰されてもいいくらいだった。お客に指名をもらうとバックが入る仕組みになってたから、おかげであたしの給料もかなりアップしたんだ。おセバは決してあたしにお金を出させず、彼の懐が心配になったくらいだけど、おかげであたしはなんとか日々ギリギリのところで生き延びることができた。

それまであたしは、付き合った相手に、タバコの吸い方や人気のあるお洋服のお店やそのとき流行ってるクラブとか、そういったことしか教わったことがなかった気がするから、おセバの話は、政治や経済や歴史や小説や宇宙の話と多岐に渡っていて(しかもあたしみたいなのにも分かりやすく、親切で丁寧)、新鮮だった。

 新たな世界が開けた気がした。彼といると、自分が少し賢くなった気がした。


少し冬の気配がし始めた頃、彼は夢の国――遊園地へ連れて行ってくれた。彼が導いてくれると、本当にそこがおとぎの国に思えた。終始顔色の悪いおセバを連れまわして散々乗り物に乗った後、

「大隈さんって、魔法使いみたいですよね」

 あたしは、前より少しおセバに近いところを歩きながら言った。

「そうですか?僕にとっては、羅夢さんのほうがそんな感じがしますよ」

「ええ。魔女、みたいな?イメージですか?」

「魔女、というより、魔法少女、って感じですかねえ。僕、お恥ずかしい話ですが、昔、わりと『マジカルエミ』とか、『クリーミィマミ』とか、『ミンキーモモ』とか見てたんですよ。男の子なのにヒーロー戦隊物とかには一切興味示さず。おかしいでしょう。ははは」

 魔法少女、ねえ・・・。

 もう少女って歳じゃないけど。と、思わず胸の内で呟くと、おセバが振り返った。

「どうかしました?」

「え、いえいえ。わたしは、ちっちゃい頃逆に仮面ライダーとか何とかレンジャーとか男の子が好きそうなものもよく見てたなあなんて」

女の子よりの感性の男と、男の子っぽいものが好きな感性の女。うーん。どちらも中性化してるってことなのかしら。この先、雌雄同体なんて生命体が増えるんじゃないだろか、などと変なことを考えていると、おセバに何に乗りますか、と訊ねられた。あたしは、ぐるりと辺りを見回すと、丸く大きな観覧車が目に入り、そちらを指さした。

自分たちの乗った観覧車が地上を離れると、どんどん人も建物も小さくなっていって、おもちゃの模型みたいで、本当におとぎの国に来たみたいだった。

ふとおセバに目をやると、おセバは尋常じゃないくらいびっしり汗をかいていた。そしてまた、左腕にはめた時計を右手でカチャカチャいじっている。

「あの~、もしかして、高所恐怖症ですか?」

 訊ねると、彼は下を向いて、子ネズミみたいにうんうんと頷いた。あたしは思わず笑ってしまい、一瞬、立ち上がって揺らしてみようかしらなんて悪魔的なことを考えたけど、おセバの顔があまりにも真っ青で、ほとんど血の気を失っていたから、さすがに止めておいた。そして、代わりに、彼の隣に寄り添った。おセバは観覧車から降りると、ふらふらと酔っぱらったような足取りで一目散にベンチへ向かった。

しばらく頭を抑えて冷静さを取り戻そうとしてたみたいだけど、やっと正気に返ると、

「あー、情けないところをお見せしてすみません。お恥ずかしい・・・です。ジェットコースターなどのほうがまだ耐えれるものの。はああ。やっぱり観覧車はダメでした。情けない」

 おセバがあまりにも、はああ、はああ、とため息ばかりつくので、困ってしまった。それを察したのか、おセバが言った。

「すみません。お困りですよね。ここを出て、お食事でもしましょうか」

タクシーで移動し、ホテルのイタリアンレストランでビールを飲むと、おセバは少し元気になったみたいだった。

「あの、そんなに乗り物苦手なら、なぜ遊園地なんて誘ったんですか」

「その、まあ記念と言いますか、いつもと違う場所なら、何かこう、いつもと違う勇気をも出せるかと。正直、女性と、ああいう場所に行くの、初めてだったんです。夢でもあったんです。不慣れで、本当に申し訳ないです・・・し、お恥ずかしい限りです」

 初めてなんて嬉しいな、と思っていると、おセバが訂正した。

「あっ、母親とはありますけどね。一応。中学生の頃かな。羅夢さんは、あるでしょう。男性と。おモテになりそうですもんね。・・・って野暮なこと訊いてますね。いいんです。思い切り、流して下さい」

 確かに、前の彼氏とも来たし、女友達も交えてだけど男友達とも来たことがあったけど、当然言えなかった。

それから、上の階のバーに移動し、これでもか、というくらいのチーズやフルーツのおつまみを前に、ワイン二杯を空にしたあと、カクテルを頼んだ。そこで、おセバから高価なブレスレットをプレゼントされた。何やら、初遊園地デート記念、らしかった。おセバはとても申し訳なさそうな顔で、

「あの、ホントはもっとたくさんいろんなものをプレゼントしたいんです。でも、それが負担になったら嫌だなあと・・・」

 女は度胸。お酒の入ったあたしは、おセバに強引に迫った。

「あの、これって、お付き合いしようってこと、なんですよね?そういうことでいいんですよね?じゃなきゃ、こんな高価なものもらえないです」

 玉のような汗を拭きだし続けるおセバは、

「・・・は、はい。あ、あの・・・、では、今日、は、お帰りになられなくて良いですか」

 そう言った。

 どん、と音がして、外で、向日葵みたいな花火が上がった。


あたしと彼は、その日初めて結ばれた。と言いたいところだが、実際は、彼、ほっぺたにキスをしたくらいで、

「す、好きすぎてできません」

 ただ、手を繋いで眠ったのだった。ここまで来て、何十年前の少女マンガ?などと思ったけれど、ふかふかのお布団でぐっすり眠れて、翌朝は爽快だった。

彼と本当に結ばれたのは、ええと、いつだったっけ。ずっとずっともう、後々のことなのだけど。そんな大切な日を忘れるってある?あたしの、馬鹿。ホントに性能の悪い頭。でも、そんなことはきっとどうでも良いことだったんだ。あたしとおセバにとって大事なのはそういうことじゃあなくて。彼は結婚初夜まで待とうかというくらい、本当に今時ありえないくらいの古風さだったのだけど、それが素敵だと心底思った。

 ただ純粋におセバに抱き締められると、心の中に温かいものが広がっていった。おセバは宝物を抱き締めるようにぎゅっとやるので、その豊満な胸に押し潰されてちょっと窒息しそうになったけれど。

 一緒に暮らし始めてだいぶ経ってふたりが本当に結ばれた翌朝、朝食での席でおセバは暗く、大きな罪を犯してしまった人間のように、

「大事な大事なプリンセスキャットさまのお身体に・・・申し訳ない。切腹したいくらいの気分です」

などと、おかしなことを言った。だって、恋人同士なら、普通のことでしょう?しかも、あたしの身体なんてそこまでありがたがってもらえるようなものじゃないのに。こっちのほうが申し訳ない気分になったけど、苦笑いするしかなかった。

 あたしは、おセバの前で、あまり経験がないようなフリを装った。そのくらい許されるよね?したたか?だって、愛情があるんだもの。好きな人に、嫌われたくない。多少の演技くらい、みんなやってるよね?自分にそう言い聞かせながら、どこか少し自分に嫌悪もしていた。ううん。でも、変にいい子ぶるのはやめよう。結局、自分に言い訳しても、褒められたことでないのは確かなのだから。あたしは、ずるくて、卑怯な人間なんだ。

でも、さすがに、まるで経験がないと言えるほど、神経が図太くはなかった。

「ごめんなさい・・・。初めてとかじゃあなくて。ガッカリした?」

朝食に出されたバターたっぷりのスクランブルエッグをフォークでいじりながら。顔を上げて、おセバを見る。おセバは、ブンブン両手を振った。

「大丈夫です。そんな・・・そんないいんです。別に何もおっしゃらなくても。僕が気にしているのはそういうことではないんです。プリンセスキャットさまは普通に、おモテになるお方だってのは分かってますし。それは過去にはひとりやふたり付き合ってた方もいらっしゃるでしょうし。すみません。お気を使わせて。これは、僕の問題なんです。でも、僕は勝手に自分に都合の良い妄想をしてそれを信じ込むのは得意なほうで、プリンセスキャットさまは僕の中では言葉にするのが憚られますが、その・・・(おセバは顔を赤らめた)そういうことになってますから」

 口に入れた卵を、吹き出しかけた。

 つまり、処女、ってことね。



週始めのその日はかなりお店が暇だった。あいひはカフェをお休みで、お仕事をしていると、例のちびっこ爆弾巨乳娘未久瑠ちゃんが話しかけてきた。

「ねえねえ、羅夢さんと親しくしてる大隈さんって、中高KOで大学院も出てる超エリートさんなんでしょう。ていうか、デートの目撃情報、ネットの掲示板に書かれてましたよ。ふふふ。やりますねえ。いーなあ。あたしも狙ってたのに」

と言ってきた。あたしは、思わず三秒ほど止まってしまった。

「え、と、・・・確かに、ご飯、食べに行ったりはしてるけど・・・」

 顔がかあっと赤くなる。未久瑠ちゃんは、満面の笑みでニヤニヤしながら、

「まあまあ、いいんですよ。気にしないでも。別に、そんなの個人の自由でしょ。まあ、羅夢さんファンは多少ショックかもしれませんけど。プライベートは別ですもんね」

 確かに、思い当たる節があった。最近、仲良くしていたお客さんが急によそよそしくなっていたのだ。掲示板かあ・・・。そんなのチェックしてる余裕なんてなかったし。はあ、とため息をついた。

「いちいち気にしてたら、やってけませんよお。でも、そんなに仲いいのに、ホントに知らなかったんですかあ?、母親は輸入食材の会社経営してて、それも手伝ってるのに、自分でITベンチャーの会社も起こしてて、まだ二十六歳なのに今は従業員も結構な数抱えてる社長さんで、ちょーおミラクルスーパーお金持ちなんでしょう。ここに来るの、社会性なくて貧乏なオタクさんが多いのに、珍しいですよねえ」

 目が点、どころじゃなかった。あたしなんて、IT企業をイット企業とか言ってたくらいなのに。

 考えたら、いろんな話をしてきたのに、おセバが何をしてる人かなんて訊いたことなかったし、それっておかしいのかな。 隠してたかは分かんないけど、向こうもあえて言わなかったのだ。考えてみれば、普通にサラリーマン的なお仕事してたらなかなかカフェにも来れないのが普通で。でも、確かに時計は高価なものをしていたけど、それは母親から高校か大学だかの入学祝でもらって長く使っていると言っていたし、普段格好にもそんな気を使ってる風ではなかったし・・・。あまりにもお育ちや経歴が良すぎて、逆に引かれると思ったのかな。

「ホントに知らなかったんですかあ。ねえ。あたし、だから仲良くしてるのかと思ってました。社長夫人になったら、あたしも雇って下さいよお。あたし、大学文系で来年就活なんですけど、このご時世、就職も難しいじゃないですかあ。パソコンとか、結構強いです」

おセバがそんなにすごい人だと知って、嬉しいやら、何やら複雑な気分だった。彼がぼろ切れを纏った乞食になりすましてた王子だとしたら、あたしは、華やかなコスプレ衣装で着飾っていたとしても、実は貧しいマッチ売りの少女だ。釣り合うわけ、ない。

 しかも、もろにコスプレ大好きのオタク少女というカテゴリーのコだと思っていた未久瑠ちゃんが、大学生で、普通にまっとうに就職などということを考えていることにも、ショックを受けていた。

 あたしなんて、何。この年齢で何やってるの。一体。

ここしばらくのホームレス生活を振り返っても、コンビニでおにぎりを買ったものの、ひと目を気にせず食べられる場所がなくて、駅のトイレで食べたことすらあるあたし。男っぽく扮装して、駅の浮浪者の群れの間に新聞紙を引いて一夜を明かしたこともあるあたし。一週間ほぼ同じ服を着続けたこともあるあたし。しかも年上だし。

こんなの、釣り合うわけないじゃない!



 むしゃくしゃというよりやるせなかったので、大きな声を出して溜まった気を発散したくて、新宿駅で待ち合わせていたおセバ、をカラオケに誘ってみた。「アニソンが多いし、アニメ映像も流れるし、オタクに優しい」とコスプレっ子たちもお気に入りのそのカラオケボックスは、薄暗い照明に、大きな蛙の置物があり、リゾート地風の造りに、エキゾチックな音楽が流れ、非日常の空間に迷い込んだ気分になる。

「今ならゆっったりくつろげるお部屋も空いてますよ~♪」

という店員の言葉に乗せられ、おセバが通常の部屋より少々お高いVIPルームにしたら、本当に十数人でパーティでもできそうなほど部屋が広く、向かい側に座ったおセバが異常に遠くて、カラオケを入れる前の会話で声が枯れそうだった。(隣に座ろうよって話よね)でも、ソファーがふっかふかで、両腕を広げても全然余裕の王様気分で、確かに居心地が良かった。ベッド代わりにしても、贅沢すぎるくらい、ぐっすり眠れそうだった。

 最初はふたりとも恥ずかしがって、どちらが先に歌うか譲り合い、最初の一曲を入れるまでに時間がかかったけど、一回歌ってしまえば、あとはもう同じだ。お酒も飲み放題コースを選択したので、いい感じで酔っぱらって、次々と曲を入れる。彼も、高校時代独学でギターなんかをやっておいただけあって、音感もあるし、カラオケも好きみたいだった。あたしが歌うと、おセバはアイドルの追っかけみたいに合いの手を入れてくれたり、小さな子どものお遊戯を見た父親のように力いっぱい拍手をしてくれるものだから、気分が良かった。

この間話しててたまたま知ったんだけど、大隈さんの前で歌ってあげたら喜ぶよ、と言ってあいひに手渡されたCDで覚えた、おセバが好きだという『フィーリングハート』という曲を歌っていたら、酔いが回ったせいなのか、なぜか不意に涙がぽろぽろ溢れてきた。

「どうしたんですか。羅夢さん」

 おセバはオロオロして、自分の手元にあった苺カルアミルクを倒した。

「あたしと、大隈さんの人生は、やっぱり交わらないよね・・・」

 そう呟いてみたら、涙がまた、つ、とほっぺたを伝った。おセバはあたしの涙を見てかなり狼狽していたけど、意を決したように、言った。

「よろしければ、是非。うちに来てください」


なんと、彼は、わざわざお店『エンジェルキャット』に近いところに家を借りていたのだった。

「だって、いつ突然お呼び出しがかかるか分からないでしょう」

 イジイジとしながら言うおセバがかわいかった。

 ストーカーちっくだけど、純粋な愛情として喜べるか、行き過ぎた行為として恐怖に怯えるかは、あたしのおセバへの気持ちにかかっている。勿論、あたしは前者として受け止めたけど。

彼のマンションは、新築の一LDKの賃貸マンションで、中に入ると、玄関のところに、ルノアールの少女の絵が飾ってあった。

「絵画とか別に詳しくないですし、たまたま人にもらったものなんですけどね」

おセバはなぜか弁解するようにそう言った。乙女チックではあるけど、おセバには似合ってるし、絵画を愛でる趣味もあるなんて、素敵だな、と思っただけなのにな。

 彼は、各方面についてしきりに気にしながら、

「僕、全くインテリアとか住む場所にこだわりなくて、一人なら別にこの広さで十分でしたし」

とくどくど言っていたのだけど、彼が一応いつかあたしを招くかもしれないことを想定して、気を使ってくれてたのは分かった。部屋に積み重ねられた本の山の中に最近のインテリア雑誌があるのを発見したし、微妙に、まるでサイズが合ってない洋服や靴みたいな、部屋に馴染んでいない、こじゃれた照明スタンドやカラフルなアロマポットなどがあったから。

 いったん酔いも落ち着いたせいか、ソファに座っても、あたしたちの距離は、余裕で半径一・五メートルはあった。とりあえず緊張を解きほぐそうと、再びビールで乾杯し、ワインもあけ、ろれつが回らなくなった頃に、ようやくあたしは、自分の境遇を正直に話した。彼は真剣な顔で聞いてくれていて、

「心配だからどうかここにいてください。お願いします」

そう、言ってくれた。今後のことなどについて話し合っていると、そんなに飲んでいなかったのに、彼のほうが先に寝てしまった。自分の部屋に母親以外の女の子を招くのは初めて、と言っていたし、かなり緊張していたのだと思う。

あたしは、今日からここで生活する・・・。いいのかな、と思いながら、部屋を見渡し、一人で、残りのワインを飲みきってしまうと、ソファーのおセバに重なり合うようにして、寝た。

 そんなこんなのいきさつがあり、しばらくは、おセバが元々住んでいた一LDKのマンションで生活していたのだけど、おセバはお仕事の資料もたくさんあるし、もう少し、広いところに引っ越したほうがいいのかもしれませんね、と呟いた。あたしは、そうは言ってもマンションを買うなんて大変じゃないのかな、なんて思ってたんだけど、おセバは、すぐに新築のマンションを神楽坂に購入した。そんなに簡単に決めちゃえるものなの?と思ったけれど。なぜ神楽坂かというと、あたしが以前一度行ってみたい国がフランスやイギリスだって言ったから、少しでもその空気と情緒が味わえるとこにしてくれたんだって。

「羅夢さんのお城です」

部屋に入った瞬間、新築のおうち独特の匂いが鼻をついた。あたしは、瞳を輝かせて、そっと靴を脱いで、一歩ずつ床の感触を確かめるように中に踏み込んでいった。ホコリや手垢のついていないピカピカの窓。まっさらな天井。輝くばかりの広いキッチン。全てが美しくて、・・・夢みたい。

「あ、でも、本物のお城はこれからです。これから。もう少し、待ってくださいね。きっと、エリザベス女王のような衣装がしっくり来るお城を手に入れてみせます。僕にも、新たな夢ができて、羅夢さんには感謝してます」

「楽しみ!あ、でも、ひとつ!もう、羅夢ってのはやめないですか?」

 あたしが口を尖らせると、おセバは、そうですね、と少し考えているようだった。

「―――ではヒメさま(まだこのとき、プリンセスキャットさま、ではなかったんだ)今後は何でも遠慮なくお申し付け下さい」

 やはり神様はいるのだと思った。どうしてこんなにうまくいかないの、神様の意地悪、と恨んだりしたこともあったけど、完全には見捨てられていなかったみたい。

神様!ありがとう。最高。イエイ!

 どこからともなく、あいひの声が聞こえた。

「彼ってホント羅夢の忠犬ハチ公で、「執事のセバスチャン」だね~」

 自分にそのような人が現れるとは。人間、生きてみるものだなあ、なんてしみじみと感慨に耽った。

 考えてみれば、昔から、「お姫さま」には当然のように憧れたけど、「王子さま」という存在にはあまり憧れない人間だった。女の子はよく白馬に乗った王子さまが現れないかななんて言うけれど。多少ひねくれてたのかな。でも、よく考えてみて。王子なんて、ちやほやされて育ってるから、おそらくワガママだし、甘えん坊だし、プライドや気位ばかり高くって、ろくなもんじゃないかもしれない。まあ騎士だって素敵は素敵だけど、脳みそまで筋肉マンみたいなのは、ちょっとお断りだ。大臣は策略家なイメージ。とすると、いたれりつくせり?の執事って一番なんじゃないかな、などと思ってしまった。

 とにかく、こうしてふたりの物語が始まったワケだ。そう、ここでめでたしめでたしってワケじゃない。ゴールはまだまだ。人生は長いのだ。これからなのだ。

 ちなみに、滞納していた保険料や税金の類も彼が全て払ってくれた。

 ゼロからのスタートだあ。万歳!


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