お城(仮の?)での生活(プリンセスキャット城!?)
ヒメセバ物語(仮題?)
作 畑中祥子
今や時代はAKBにももクロ?。アイドルといえば、モー娘。ハロプロ世代のあたしにはちょっと置いて行かれた感が否めないけど。それはさておき。
一昔前だけど、一世を風靡したアイドルグループ「おにゃんこクラブ」の歌に、
趣味が☆わっるいねと 周りの友達は言うわ~
だーけど 愛はいーつーだあって答えーがあるわ~けじゃなあいー
などという歌詞がある。
彼は、幼い頃なぜかその歌が大好きだったんだそうだ。
あたし、畑中祥子(年齢言いたくないけど、アラウンドサーティ、巷で言うに略してアラサー)は、生まれてこのかた、自分で男の趣味が悪いと意識したことはない。いや、なかったと過去形でいうのが正しい。あくまで見た目に限ってだけど、付き合うのはいつも大体そこそこ周りの誰もが認めるようないい男、イケメン(って言葉、あまりに頻繁に使われすぎてるご時世だから、あんまり好きじゃないんだけど)で、背も高くて、お洒落で、服のセンスも良くて、例えば道で並んで歩いているときも、通りすがりの女の子に振り返って羨望の眼差しで見られるような、あるいは、知り合いの誰か、ほら特に同性に対してライバル心剥き出しで、自分としても見くびられたくはないタイプの人間にばったり会っても絶対に恥ずかしくない人、それどころかやった、どう?見たかーって、って優越感に浸れる人、って感じだったし。
でも、よくよく考えたら、それってそもそも自分の趣味だったんだろうか。そう。改めて考えてみると、だ。あたし、自分の男性を見る目、というものに自信がなかったから、友達とか誰かがいいよねって言う人、もしくは必ずそう言われるだろうって容易に想像つく人ばかり好きになってた気がする。そして、自分でもそこそこ容姿には自信があったし、わりと男の人に好かれる才能はあったみたいで、望めば必ずいったんは(あくまでいったん、なんだけど。つまり、永久ではないってこと)その相手を手に入れられたんだ。あ、これって、嫌みの類?こんなこと口に出したら反感買っちゃうかな?でも、ホントにそれがその通り、事実だったんだもの。
当然というか引き替えに、女友達はだいぶ無くした。「あの子は友達が好きな男や気に入ってる男ばかり狙って盗る」って陰で悪口言われたり、「あんたはそういうのしちゃいけないこととか悪いとか思わないの?」って面と向かって責められたり。まあ、ほんとに当然と言えば当然、自業自得なのだけど。
だけど、当時はあたし、なぜそんなにも怒られるのか分からず、責めてくる相手の肩越しに見える景色をただぼうっと眺めていたりした。最低?でも、だって、まるで子供の言い訳だけど、正直あまり罪悪感なんてものは湧かなかったんだ。本当に、びっくりするくらい。
だってね、あたしがとある女の子の好きな人を好きになったということは、その女の子の感性をすごく認めてるからってことで。だって、例えばいくら今旬のちまたでは人気の芸能人が新作のブランドバックを持ってて、今これがイチオシ!、次に流行るのは絶対これ!超オススメ!、ってアピールしたって、元々その人のセンスが悪いと思ってたら、とてもマネして同じ物を持とうとは思わないでしょう。女の子に限らずなのかもだけど、女の子は嫌いな女の子のマネをしたいとも、その通りになりたいとも、絶対思わない。物と人を一緒に語るのは少々強引かもしれないけど。
それに、大体が、一般的な美形でかっこいい人、イケメンでモテる男ってのの基準、はそうぶれないものだし、いいものはみんながいいと思うものなのだし、つまり、あなたがいいと思ってるくらいなんだから、他のみんなだって同じように思ってても、あたしだって同じようにそう思ってしまってもしようがないでしょう、って、やっぱりちょっとそんな風に、思うじゃない?あれ?もしかして同意を得ていない?汗汗。まあそれで実際手を出しちゃうのがいけないってのは、それはそうなんだってことはさすがに微妙に経験を重ねて、十代過ぎた頃にはきちんと理解したけど。
だけど、結局、誰かの価値観を信じて、要するにパクって、外見から入った男の人はロクでもなかったな。いいのは最初のうちだけ。学生時代の彼は実は遊び人で浮気、ナンパに合コンで二股三股は当たり前とか、その後はDⅤ男(お付き合い期間半年)、パチンコスロット競馬競輪ギャンブル好きの借金持ちとか(恋愛期間実質三ヶ月、お金の切れ目が縁の切れ目、あたしにお金が無くなると他にお財布を見つけて去ったものの、その後またお金目当てにちょろちょろ付きまとわれ期間九ヶ月)、夢を追いかけて一切働かない男(意外に続き二年間)、あるいはとにかくセコイヤツとか(約一年)。デートや家での地味な飲食も割り勘、ならまだしも、どんどんこっちが出すことのほうが多くなってくのに、お金がないのかと思いきや、自分の洋服だけにはやたらお金をかけてたり。あと、超絶ナルシスト(八ヶ月)で、自分大好き、プライドも高くて、ちょっとでもそれを傷つけようものならぶちギレる人もいたな。んでもって、あたしにはキャミソールから出た二の腕の脂肪の量にまで口を出す。あー、ホント、典型的だめんずのオンパレード。
それに、いいと思ってて、(というか思い込んでて?)それで相手を手に入れられた、って言っても、相手は必ずしもあたしじゃなくていいんだな。まあ見た目的にもそこそこ悪くなくて、友達に会わせても恥ずかしくない程度の女の子だったら、誰だっていいんだ。お前じゃなきゃとか、お前がいないと生きてゆけないとか、口ではそんな甘い言葉を囁いてくれてても、別に、実際そんなことは、ないんだ。あたしは頭が悪いので、そういうことを完全に悟るまでに結構時間がかかってしまったりしたのだけれど。
あたしは毎回、一応初めは、きっかけはどうであれ、恋人同士になったらこの人が生涯最初で(とは限らないか。でもそれぐらいの勢いで)最後の人だくらいに思って、それなりに覚悟を持って、付き合う。自分で言うのもなんだけど、ヘンに根は真面目なのだ。それはもう真剣に一途によそ見せずその人と向き合うんだ。そんな風に付き合うのだけれど、なぜかいつも結局、自分は相手にとって絶対的な存在ではないのだと思い知らされるはめになる。どうやら、相手にとっては、あたしの気持ちは「重い」のらしい。だから結局、裏切られることになっても、あたし自身にも原因があり、仕方ないのだということになる。
そして、自分は魅力的な存在ではないんだろうか、心底愛されるに値しない人間なのかしらんと自問自答し、一度考え出すと悪いほう悪いほうに思考は向かい、自分自身に失望してきた。一つの恋が終わる度、自己評価はどんどん低くなっていった。
どんな人と付き合っても結局は同じ。最後は痛い目を見る。必ず終わりが来る。だったら、最初から恋愛なんてしないほうがいいんじゃない。時間とエネルギーが無駄なだけじゃない?そう思ったりもした。誰とも深く関わらず過ごした時期はそれはそれで快適だった。一瞬だけ、このままずっと一人でもいい気がした。本当に、一瞬だけだけど。
だって、やっぱり独りは寂しい。根本的に寂しがり屋なのかな。でも、人はみんなそうだから、そういう風に造られてるから、だからこそ繁栄して、進化して(?)、今ここに自分も存在してるんだろうなとも思う。そして、どんなに半ば悟って諦めてるつもりでも、どこか本当に自分に合ってて、自分だけを見て心から大切にしてくれる人の存在を夢見てしまう。だから、また懲りもせず違う人を追い求めてしまうんだ。
いつか、自分でも自分のやっていることの意味が分からなくなってしまった。
彼、本名大隈孝士郎、のちにあたしの友達に命名されついたあだ名通称「おセバ」に会ったとき、あたしはそれまで男性をひと目見たときに感じてたもの(いや、そもそもは何も感じたりしたことはなかったのかもしれない)とはまるで違うものを感じた。直感?インスピレーション?
赤い糸とかの存在を信じくなるような、何か分からないけれど、強烈な感覚だった。なんて言えばいいんだろう。この人は自分のために生まれてきた存在じゃないかというか、彼に出会うために今までのあたしの人生があったんじゃないかというか、それくらい強く揺さぶられて、言葉ではうまく表現できない気がするのだけれど、真に彼が自分の運命の人じゃないかとまで思ったんだ。
本当に、彼には出会いの瞬間から、衝撃を受けてしまった。
それは決して大袈裟でも嘘でもなく、事実なんだ。後付じゃないの?、とか、あたしとその彼、おセバ二人のことを知る誰に言っても信じてもらえないのだけれど。
確かに、そんな強いものを感じたと言っておきながらも、実際のとこ行動に起こして、彼とお近づきになるまで、時間はかかったよ。
でも、ほら、あたしはいまいち自分の感覚や男を見る目を信用していないところがあったから、まだすぐにはその、彼に対する自分のインスピレーション的なものに確信は持てなかったんだな。
出会ったのは、ちょっとしたきっかけからあたしが働いていたコスプレメイドカフェ&バー、だ。まあ、要するに、女の子たちがみんないわゆるコスプレの格好をしているというだけで、あとは普通の喫茶店(夜はバーになってお酒を出す)とたいして変わりはない。(ってこともないかな?)メニューなんかは、コスプレガールが目の前で果実を搾って生搾りフレッシュジュースを作ってくれたり、スペシャルオムライス&ハンバーグにケチャップを使って手書きでデコレーションしてくれたりと多少変わってたけど。
あたしはそれなりにいい歳して若干ギャルっぽいのを引きずってるところもあったし、子供のころからマンガはかなりの大好きっ子でも、いわゆるオタク女子を公言するには知識もなくて、コスプレするのもおこがましいレベルだったけど、まだその当時、コスプレ系のお店もそんなに乱立されてなくて、場所も秋葉原ではなく、そんなにディープな感じのお店じゃあなかったから、その緩さが、あたしにはちょうど良かったんだ。
注文を取りに伺ったとき、彼、「おセバ」は、一瞬あたしを見てから、すぐに視線を落とすと、そわそわと落ちつきなく、注文している間もまるで目を合わせず、終始右手で左腕にはめた高そうな(確か、フランク・ミュラーだった)シルバーの腕時計をいじっていた。その手が、赤ちゃんの手みたいに、白くてちっちゃくて、プニプニしててあまりにかわいらしい手だったから、思わずきゅうって握りたくなってしまったくらいだ。
ホントに、一目惚れみたいなものだったと思う。その日おセバが帰るまで、ずっとあたしの目は彼に釘付けで、瞳はきっとハートマークになってた。
しかし。彼は、背がちっちゃくて、小太りで、ちょっと髪が薄く(なのに天パというところもなかなかすごい)、黒縁の、わざと狙って外してる風とかでは決してないダサいメガネをかけていて、他のバイト仲間の女のコたちに言わせると、チビ、デブ、ハゲ、という三十苦(オシャレメガネ男子系じゃないメガネで四十苦?)を背負っていた。
さて、そんなわけで、前置きはとりあえずこんなものでいいとして。
どこから始めるべき?まずは、あたしが生まれたときの話から?それとも、全てが一変した日?あたしは悩みに悩んだ、のだけど、結論としては、あたしとおセバが一緒に過ごした中で、数ある何気ない日々の、ある一日の一コマからにしようと、思う。ふたりがとても、幸せだった時期の、ワンシーンからだ。
お城(仮の)での生活(プリンセスキャット城?)
「はい、ご飯できましたよー」
百㎡のリビングの五人掛けソファーに寝そべってファッション雑誌の最新号を捲っていたあたしに、キッチンのほうからおセバが声をかける。
「にゃあ~」
あたしは、ひと鳴きして、海外セレブのゴシップが報じられてたページを閉じて、とことことキッチンのほうに向かう。イタリアの有名なデザイナーがデザインしたという、角の丸みや、くねっと曲がった脚のラインが絶妙にかわいい白いテーブルの上には、お店で出される料理みたいに、お行儀良くバジルの葉っぱと松の実が乗っかってる、シーフード入りのバジル風味のパスタと、生ハムとクレソンのサラダに、ナスとパプリカのマリネ、それにイベリコ豚のグリルなどが並ぶ。
「きゃーん。おセバったら、天才!!今日も美味しそう~。お嫁にしたい候補ナンバーワンだねっ」
あたしは、テーブルとおそろいの白いイスに腰を下ろすと、ビールで乾杯して、早速いただきます、と手を合わせて、確かドイツ製だったかな?の、シンプルなデザインだけど、柄のラインがこれまた絶妙なシルエットをしててかわゆい、フォークを料理に突き刺す。ツウーティーがプリントされたエプロンをしたおセバは、満足げに微笑む。
「プリンセスキャットさまが、最近太り気味っていうから、なるべく油を少なめにして、カロリーを抑えるようにしましたよ」
「わいわい。ありがと。やっさしー!さすがおセバ」
「その油も、フルーツから取った、美肌を作る効果があると言われてるものにしてみました」
「や~ん。素敵。最高!おセバ」
「デザートにシャンパンで煮たリンゴのコンポートも用意しましたよ」
「きゃ~。嬉しい。リンゴ大好き!あたし、ホント、リンゴって毎日食べても飽きないくらい好きなのよね。ありがと~、うちのおセバは最高だっちゃ~」
と、『うる星やつら』のラムちゃんの語尾をマネして、言ってみる。
もう本当に、どの料理も塩加減が絶妙で、たまらなく絶品である。
「プリンセスキャットさまが美味しそうに食べてる姿を見るのが僕の幸せです」
おセバはふにゃんとして、この上ないってくらいとても幸せそうな顔をしてくれる。
彼は、あたしのことをプリンセスキャットさま、あたしは彼をおセバと呼ぶ。彼を知る、コスプレカフェ&バーというなかなか強力な場所で知り合ったメイド友達のあいひが、お客としてやはりそのコスプレカフェ&バーをちょくちょく訪れるようになったおセバを見て始めに言い出したのだけど、よく分かんないのだが、「執事のセバスチャン」?の略だそうである。
まあ彼のあたしに対する尽くしっぷりからすると、確かにその呼び名は分からなくもないというか、確かに執事のようではある・・・と思う。彼は、身の回りのことは何でもやってくれるし、痒いところに手が届く、どころじゃない、いやもう届きすぎるほどの献身的な尽くしっぷりなのだ。
しかし、執事のセバスチャンって、最初はさすがにあたしも抵抗があったのだけど。自分、どんだけ偉そうなんだって。でも、どうやら彼自身この呼び名が気に入ってるみたいなのだ。最初は、執事なんて呼び名、失礼な話だよね、という感じで何の気なしに彼に告げてしまったのだけど、彼自らが、まさにその通りですからと自分自身をおセバと呼ぶようになり、いつの間にかあたしにもそれが定着してしまったんだから。彼が気に入っているのなら、あたしがためらうこともない。
プリンセスキャットさまってのは、まあおそらく彼にとってのお姫さま?(殴られるかな)という意味でと、見た目からして猫っぽいとか、猫系の性格してる(要するに、気まぐれ、マイペース、甘えっこ、ってとこらへんなのかな)とよく他人に言われがちなあたし だからかな、多分(あくまで多分だけど)そういう感じのニュアンスを合体させたものだと思うのだけど、彼が突如呼び出したものなので、最初は???と思ったし、最近はすっかり慣れはしたものの、正直もうすぐ三十路になる女に対して使っていい呼び名なのかは大いに疑問に感じるのだけど。いやはやなんとも。でも、まあいっか。とりあえず幸せなんだもん。
とにかくまあ主従関係は一目瞭然だと思うけど、あたしも一応は「お」を付けて彼を敬ってあげているつもり。
あたしは、そこらへんのレストランのコックなんて目じゃないレベルのお料理を堪能しながら(でも、カロリー抑えたって言っても、このボリュームでは意味ない気がするけど・・・などと思いつつ)、ふとおセバと一緒に暮らし始めてからの幸せな生活を振り返ってみる。
彼は、常日頃からあたしに、
「プリンセスキャットさまは、プリンセスキャットさまだから、なーんにもしないでいいんです。ぬくぬく快適に過ごして、すやすや眠るのがプリンセスキャットさまのお仕事なんです」
なんて言ってくれる。社会的なお仕事は勿論のこと、家事も、洗濯も、お掃除も、全て彼がやってくれるのだ。その上、あたしは毎月結構な額のお小遣いまでもらってる。普通にサラリーマンの月給と同じくらい。か、おそらくそれ以上だ。彼は、自分で会社を起こしてて、まだ歳若いのに、社長さんなのだ。と、そうそう彼の歳、言ってなかったかな。実はあたしよりひとつ年下なんだ。お小遣いだなんて、なんだか、いわゆるパトロン的なパパと愛人みたいだけど、付き合ってる恋人同士に間違いはない。さすがに、時々、自分の下着まで洗ってもらっていいのかと心苦しく思うこともあるけれど。彼は、それが幸せ・・・って言うんだから、全く奇特な人である。ちょっと変態・・・変人・・・かもしれない。うーん。
でも、本当に優しい、いい人を捕まえた。捕まえたっていうのもなんだけど、やっぱり、この人を選んで良かった、と思う。今回に限ってはあたしの勘は間違っていなかった。女の人生は男で決まるとか、選ぶ男によってはどんな女にも一発逆転のチャンスがあるとか、昔ママ(ほぼほぼ三十の人間がこの呼び方もどうかというのは自覚しているのだけど)にそういう変な人生成功のための秘訣っていうか、ノウハウとか理論みたいなものを刷り込まれたことがあるのだけれど、確かにその通りだった。それまでどんなふざけたダメな人生を送ってようと、いい男性と巡り会えれば過去は全部チャラだ。イエイ。
ママは、そのまたもっと昔、あたしがまだ小学生の頃から、今の時代は女も自立して、男性に頼らず、一人でも生きていけるくらい、バリバリ仕事ができる人間にならないとね、常に、人より一生懸命勉強して、いい大学に入って、資格もいっぱい取って、自分に力を付けて、できれば公務員がいいけど、まあいい会社に入って、男に引けを取らないくらい稼ぐ優秀な人間にならないとね、なんて言って結構な教育ママだったのだけど、あたしの成績は自分的にマックスで頑張ってもいいとこ中の上止まりだったし、高校受験にも失敗したし、あたしにたいした才能や能力がないことに気づいて、あるときから、だったら結婚相手にその能力を求めて、その人の元で保護されて生きる、女としての人生をまっとうするような生き方をしなさいって、方針転換したんだな。そして、代わりに今度は七つ下の弟に全エネルギーを傾けた。
ママは、自分自身の人生についてもいろいろと後悔があったみたいだ。学生時代にもっと勉強していたら、先を見越して絶対に需要のなくならない職業の資格を取っていたら。結婚する男が出世する男だと見極める目があったなら。なんて。だけど、結局、たいした努力もできず、先見の明も頭もなかったってこと。パパは、ずっと役職もつかないまま、高校を卒業して、ちょっと事務職をやったくらいで結婚して、子供を産んでからずっと専業主婦だったママは、子供にある程度手がかからなくなって働こうにも、そりゃ駅やビルのトイレ掃除とかならともかく、ある程度満足できるような給料と仕事内容の職がない。都会だったらともかく、実家、田舎だったしね。
鳶は鷹を生まない。蛙の子は蛙ってことに、なんでもっと早く気づかなかったのかな。自分ができなかったことを子供に託そうなんて、ムシが良すぎない?なかなかそうは思い通りにいかないものだってば。
でも、そんな風に割り切って考えられるようになったのは二十歳もだいぶ過ぎてからだったな。子供の頃は、それなりに親の望み通りの人間になれるよう、頑張ってたつもりではあるし。なのに、十代の多感な時期に、ママに諦められたー、見放されたー、ってはっきりと感じたときはそりゃあもう傷ついたけどね。当然でしょ。誰だって、物心ついてから親の期待には応えたい、って少なからず思うはずで、でもそうそううまくいくはずはないから、悩んだり、苦しんだりするわけだ。
まあ、結果的には良かったけどね。今のあたしの暮らしぶりを聞いて、ママも多少不本意ながらも喜んでるみたいだし。あたしだって、一生男と肩を並べて、社会や会社の中で闘って行かなきゃいけないなんて、考えたらぞっとしちゃうし。
元々、要領もいいほうじゃないし、他人と接するのもそんな得意なほうじゃないんだ。人間関係うまく築けたように思っても、あたしってどうも無自覚にまずいことしちゃうみたいで、結局はいつもダメになるの。信頼失って、人間関係破綻。ねえ、こういうのって、なんでなのかな?なぜ、世の中の人はみんなうまくやれてるの?って、実際その人その人になってみなきゃ分かんないけど、あたしから見れば、うまくやれてる、ってそう見えるの?あたしって、なんでこんな世渡り下手なの?不思議でしようがないよ。
でもまあ、あたしは今、おセバに守られて、社会のしがらみや面倒臭い人間関係に巻き込まれて胃が痛くなったり、ストレスから来るじんましんができたりするようなこともなく、日々安穏と過ごせて、本当にもう幸せ過ぎるとしか言いようがない。
彼のありがた~い、すごいところは、他にも挙げたらキリがないんだ。些細なことに関しても、半端じゃない忠犬っぷり。まず、彼が作ってくれる場合にしろ、外食にしろ、一緒にご飯を食べるときは、あたしが料理に手をつけるまで、絶対に先に手をつけたりしない。グラスに二リットルのペットボトルからお茶をつぐときも、そんな重い物は持たせられませんと言って、必ずついでくれるし、一緒に出かけるときは、あたしの荷物を持ち、エレベーターのボタンも押してくれる。車に乗るときは勿論、ドアを開けてエスコートしてくれるし、焼き肉はあたし好みの焼き加減で焼いてくれるし(それがまた絶妙なのだ)、居酒屋で頼んだおつまみの取り分けだって全部してくれるんだ。
寝るときも、彼のほうがあたしの体の二倍はあるのに、最初から領地はあたしのほうが圧倒的に広い。寝相の悪いあたしは時間が経つと転がって移動しちゃうんだけど、真ん中に移動すると彼はさらに端によって、落っこちそうになりながらギリギリのところでぷるぷる震えながらも必死に耐えて寝てるんだ。冬場は特に、風邪をひかないか気になって目を覚ましてしまうのらしく、ちょくちょく起きては布団をかけ直してくれたりもしてるみたいだ。何度か、布団を全部あたしに取られ、寒そうに体を縮めて寝てるおセバを目撃したこともある。
欲しい物は何でも買ってもらえるし、おセバに会うまではあたし、安~いギャル服ばかり着てたのに、そう、それこそ、一万円以内で全身コーデネイトできる感じのお洋服。・・・それでもどうかするとお釣りが来るくらいの。おセバと付き合い始めてからは、いきなりイヤミなくらい全身ブランドものになってしまった。フェラガモの靴。ミュウミュウのワンピース。ジル・スチュアートやレベッカ・テイラーのキャミソールやスカート。バーバリー定番のチェックスカート。クロエのお財布。グッチやヴィトンのバック。ティファニーやカルティエやシャネルのアクセサリー。おセバは、プリンセスキャットさまには、何でも一番良いものを使ってもらいたいんですと言う。おセバが用意してくれたネグリジェだって、薄くて軽いのに冬でも温かい最高級の絹でできたものなのだ。もうまるで、ハリウッド映画の『プリティ・ウーマン』?
あれだって、あたしにしてみれば、なんか不満があったんだ。最後、確かリチャード・ギアさまはお抱え運転手付きでジュリア・ロバーツを迎えに行ったでしょ?結局、上から目線な気がして。そりゃ自分の足で歩いていくのも、ギアさまには似つかわしくないかもだけど。
おセバは、心からひざまずいて、愛情を示してくれる。
三十年近く生きてきて、こんなに人に尊重され、大事に扱われたことがあっただろうか。あるはずがない。というか、ありえない。そんなリッチで紳士なジェントルマーン、おとぎ話の世界でも出てこないよ。
食後は、お決まりのようにリビングに移動してソファーに二人で腰掛けて、軽くワインやシャンパン(デイリー使いでもそこそこいいやつ)や焼酎(勿論合成焼酎なんかではない)なんかを飲みながら、最新の映画や話題の海外ドラマなんかのDVDを見る。基本は宅配レンタルだけど、おセバは気になる作品は大抵アマゾンで購入してしまうんだ。
お腹いっぱいな上にアルコールが入り、あたしはいつも途中で寝てしまうから、おセバは一度見たものを何度も見るはめになる。あたしは、ミステリーやサスペンスでも、ラストが分かってても見れちゃう(むしろそのほうが安心して楽しんで見れるくらいだ)ほうなので、結末やその後の展開を聞くのだけど、そこは、見てのお楽しみですと言って、なかなか教えてくれない。だけど、結局はあたしの催促に負けてストーリーを話すはめになる。おセバは頭がいいから、分かりやすく、簡潔に教えてくれる。でも、時々興奮して早口になると、おセバはオーケストラの指揮者みたいに自分の世界入っちゃった感じでまくしたてるので、あたしの頭はついていけない。もう何を言っているのかまるで理解不可能だ。ホント、自分の頭、性能悪くていやんなる。
「待って、待って。おセバ、早口過ぎ。あたしの頭じゃついていけないよお」
あたしの言葉にふっと我に返ったおセバは少し頬を赤らめて、申し訳なさそうに謝る。
「すみません。つい・・・。これだから家庭教師や塾の講師などのアルバイトをやってたときも、はっと我に返ると、生徒たちがぽかんとしてるのが目に入って慌てて謝ることが度々ありましたのですよ」
「あはは。なんか目に浮かぶわ。おセバが早口でがあっとまくし立ててるの」
「お恥ずかしい限りです・・・」
あたしは、笑いながら、おセバのお腹に頭を乗っける。ぽよんと弾力があって、でも柔らかい。おセバがあたしの頭を撫でる。女の子の手みたいにぷにょぷにょした感触。お腹が膨れて、シャツが上に上がり、そこから白いもちもちしたお腹がのぞく。水風船で遊んでるみたいに心地良い。どうしてこんな幸せな気分にしてくれるんだろう。おセバはそのお腹を恥じているようで、服を引っ張って隠そうとするのだけど、それがまたかわゆいんだったら。たまに、今お腹の子供何ヶ月目ですかあ~?なんてお腹をさすりながらいじめることもあるけれど。おセバも、あっ、今蹴ったわ~、なんてのってくれるものだから。
「ねえ、おセバ。あたし・・・、前世はおセバの子供で、あたしはおセバのお腹から生まれたんじゃないのかな」
「どうしたんですか、急に。プリンセスキャットさま」
おセバがあたしの髪を撫でていた手を止める。
「不意にね、そんな気がしたの」
「不意に、ですか」
おセバは親指と人差し指で顎をさすりながら、少し考えているような仕草をし、
「・・・そうですね。僕もそんな風に感じたことあります。プリンセスキャットさまに初めてお会いしたときから、何か懐かしいというか・・・。他人ではない気がしていました。きっと、僕らは前世で、親子か、兄弟か、何か断定はできませんけれど、身近な存在だったに違いありません。僕なんかがおこがましいですけど・・・。でも、多分今と同じように僕はプリンセスキャットさまのファンで、親衛隊とか崇拝者で、常に執事のような役割をしてお仕えしていましたよ」
そうして、おセバは照れたようににっこり笑う。心臓が痛くなる。
「・・・おセバはいつも・・・、あたしみたいなのを敬ってくれるのね。あたしなんか、ホントは前世だって、言葉は悪いけど、犬畜生にも劣るような存在だったかもしれないのに」
「そんな、自虐的過ぎますよ」
「おセバなんていつももっと自虐的じゃない」
「そうですか。自覚がありませんなあ」
「そうだよ。なんで、いつもそこまで下手に出てあたしをお姫さま気分にしてくれるのか、謎だわ。謎すぎる」
「当然です。プリンセスキャットさまは僕の姫さまですから」
おセバは、静かに、でも力強くそう言い切る。
――――――ありがとう、おセバ。こんな、あたしなんかに。あたし、これほど、人に尊重してもらったことなんて、ない、よ。
目の奥が熱くなって、じんわり涙が染み出てくる。あたしは、おセバとベッドに横になってゴロゴロしたくなって、
「おセバ、あたし眠くなってきたみたい。・・・今日は、早めに一緒に寝ない?」
少し甘えた声で言ってみた。そう、おセバのふくよかな胸に顔を埋めて、温かな体温を感じながら、安らかに眠りにつきたい。
しかし。おセバは、少し戸惑ったような、申し訳なさそうな顔をした。
「あ・・・。あー、すみません。僕も一緒にお眠りしたいところなんですが・・・。本当に、ものすごく。でも、もう少しやることがあって・・・。プリンセスキャットさまは先に寝てて下さい。本当にすみません」
くっすん。ガックリ来たけれど、しようがない。おセバは忙しい人なんだもの。自分の会社のお仕事もあるし、独学で株を学んだり、語学のテストを受けたり、宅建や税理士の資格を取ったり、二人の生活を守るために、というかさらに上のハイレベルな生活を目指して頑張ってくれているんだもの。
「分かった。頑張ってね、おセバ」
あたしがふぁ~と大きなあくびをすると、おセバは、よいしょとあたしを抱えて、寝室に向かう。ふうふう言ってるけど、それがまたかわゆい。あたしは、子供の頃コタツで寝ては、パパにベッドまで抱きかかえて運ばれるのを期待していたことを思い出す。パパはヒョロヒョロしていたけれど、昔柔道や空手をやっていたこともあり、意外に力はあった。毎回、ママが横で「また、甘やかしてえ」などと言うのが耳に入ったけど、だって、気持ちいいんだもん。あの、揺りかごのような心地よさ。起こされて自分の足で移動するよう促されると、いつもすごくガッカリした。
スイス製の、子供の頃遊んだトランポリンみたいな大きなベッドの上に、赤ちゃん子猫を扱うようにそっと置かれると、ふわりと軽くて温かい極上の高級羽毛布団を掛けられ、おセバはあたしの額にキスをし、おやすみなさいと言って部屋を出て行った。
ぱたんと扉が閉じられ、真っ暗で広い寝室に一人残されると、お酒も回って、実際三秒で眠りに落ちる自信があるほど眠いのは眠かったのだけど、あたしは、少し切ない気持ちになり、自分の身体を手の平でそっと撫でてみた。お風呂上がりに薔薇の香りのする保湿クリームを塗っておいたから、潤ってかさついてはいない。あたしの肌、まだ枯れきってはないよね?結構、いい感じじゃない?三十路(一応手前)女にしては、まだまだイケてると思うんだけど。
自分で自分を鼓舞してみる。虚しくなって、ぎゅっと目をつぶり、おセバと出会うまでの人生をいろいろ振り返っていると、すぐに深い眠りに落ちていった。
「えーっ。セックスレスう~!」
「きゃー。しっ。しいっ。声が大きいってば~」
翌日。表参道にあるオープンカフェ。来ているお客たちは当然のようにみんな雑誌のファッションスナップに載れそうなほどお洒落、が一斉にこちらを向いたので、あたしは慌てて友達のあいひの口をふさいだ。
「か、勘弁してよ、あいひったらあ」
目の前に座っている、えらく整った顔立ちをした、母親が島根県人で父親が新潟県人という純日本人なくせにヨーロピアンハーフ系のスーパー美女で、性格かなり男前でどうかするとおっさん入ってるよね?と言われがちなあいひを軽く睨む。変に人の注目なんて浴びたくないし。それでなくても、基本的に最近のあたし、引きこもりがちなために、なんだか性格もちょっと内向的になってしまって、こんなオープンで、若くてお洒落な人種の集まる場所苦手だっていうのに。ランチに食べた、手作りハンバーグとたっぷり有機野菜のサンドイッチはかなり美味しかったけど。
「ごめん、ごめん。いや、でも、びっくりして。って、びっくりするようなことでもないか。最近若い男に多いっていうもんなあ。欲求自体が希薄っていうか、あんまりそういうことに興味がない男。日本人の何十パーセントかはEDらしいやんなあ。そうそう、この間なんかY染色体が減って、男って種自体が絶滅に向かってるってテレビでやりよったわ。近い将来、女が一人で子供を作り出せるようになったら、すごくない?もう男なんて存在はカスみたいなもんや。男尊女卑なんかクソ喰らえ!女が完全単独首位、天下を取る日がついにやって来るというワケよ。でもなあ・・・、実際それって虚しい気もするしなあ。女ってこう愛されて守られてなんぼというか。彼、あんたより歳下なんやろ」
あいひが、いつものことながら、一人でまくし立てては、自分で言ったことを覆すような発言をする。あたしは、残り一口だったベルギービールを飲みきると、近くにいた店員にグラスの白ワインを頼んでから、答えた。
「うん・・・。ひとつ下で二十八」
年齢のことを口に出す度、何か心臓の辺りが一瞬微妙に不気味な音を立てる。
「まだ全然お盛んな年頃っぽいのになあ。それにまだ、付き合って、一緒に住みだして、一年半くらいやろ。レスになるには、早過ぎん?このまま続くと、やばいやん。男は年代的に言えば、十代が一番、普通はもうなんつーかサル並みなんだろけど、女は三十代が一番性欲旺盛になるらしいよ」
「う。そうなの?」
「まあ、こうやっぱり生殖には母体が若いに越したことはないんやろうから、早く早く、急げ――って、そういうメカニズムになるんやないん。どうすんの。欲求溜まっちゃったら、浮気でもすんの」
はあ?と思わず、目を見開いてあいひのほうを見たら、あいひの瞳はかなりマジだった。
「―――しっ、しないよ~。するわけないでしょ、浮気なんて。浮気なんてする人間は、最低だと思ってるし。あたしが前、相手の浮気で苦しめられてきたの知ってるでしょ。そういうとこは意外とあたしバカみたいに真面目なのよ。それに、彼のことは絶対裏切れない。あんなに良くしてくれる人裏切ったら、バチが当たっちゃうよ」
「ほー、えらいなあ。んじゃ自己処理用に大人のおもちゃでもプレゼントしよか。女にも性欲はあるんやから」
あいひの後ろの席の、巻き髪の女性の肩がぴくっと動いた。その側に待機していた、きりっとした顔立ちの店員の顔が一瞬緩んで吹き出しかけたのも、目に入った。
「もう。ふざけないでよ~」
「うちはいたって真面目なんやけどな~」
全く、真っ昼間から、こんな会話をしてていいんだろうか。いやいやダメに決まってるでしょう。うつむいて静かに軽めの白ワインをすすりながら、自問自答する。
幼い頃両親の仕事の都合で何回もあちこち引っ越しを繰り返し、一時的に関西にも住んでたことがあるという、中途半端な?関西弁を喋るあいひは、コスプレメイドカフェで知り合った一番の友人だ。あたしなんかよりずっと若いのに、達観しているというか、大人というか、とにかく大人びた感性の持ち主で、頼りにしてるし、尊敬すべきところがあるのは確かなのだけど、時々その先進的というか、型にはまらない柔軟な(時として過ぎるほどの)思考や発想による発言に置いていかれそうになる。
・・・あたしが前時代的なのかな。時々、ジェネレーションギャップを感じる。いや、そんなのも、自分がカマトトぶっているだけっちゃだけなんだけど。それなりに経験は積んできたし、経験値でいえば実はあいひよりも上なのかもしれないぐらいで・・、ただそういうことを口に出すのにはなぜか少々恥じらいがあるのだ。あたしは、白ワインのグラスを空にし、赤ワインを注文した。あいひはまだ一杯目の華やかな色のカクテルを飲みきっていないというのに。
「ちなみに、あいひのところはどうなのよ。壁紙職人の彼、いるでしょ」
急に話を振られて、あいひのきゅっきゅっと美しい弧を描いた弓形の眉がぴくりとなった。
「うちはもうとっくに恋愛感情ないし、お互い冷め切ってるもん。高校からの付き合いで付き合って八年も経つし。勿論、情はあるけどな。姉弟みたいな感じで、今さらやる気にもなれんわ。お互い外で遊んでても黙認やし。もう恋人同士っちいえるんかな。別れ時かもしれんな。ただ、一緒に住んでる家のこととかいろいろ問題あるやん。引っ越しすんの、お金かかるしな~。でも、羅夢んちはねえ。なんで彼は抱きたがらへんのやろうね。彼がカフェに通って来てた頃から知っとるけど、相当羅夢にゾッコンやったやん。あんまり好きすぎて、抱くのが怖いとか?」
「うーん」
確かに、一番始め、そういう関係になろうとしたとき、彼は好きすぎてできませんとかそういうことを口走っていた気がする。(ちなみに、羅夢というのは、コスプレメイドカフェ&バーで使っていた名前だ)あたしを抱き締めたとき、彼の肩は震えていたし、すみません、デブなもんで、暑がりで、汗かきで、とかいう発言から想像する以上にすごい汗をかいていた。あまりの怯えぶりに誘った?ほうのあたしが思いあまって、先走ってそういう方向に持っていったことが申し訳ない感じがして気の毒になったくらいだ。でも。月日は流れて、そういうことも無事乗り越えて来たはずなのに。
あたしは、赤ワインのグラスを、ゆっくりと回した。
「深く、考えることじゃないのかな・・・。おセバの愛情は疑いようがないし。すごく忙しい人だから、時間的・・・精神的に余裕がないだけかも。彼、はね、一緒に食事をするってことをすごく重んじてて、ものを食べるってことは生きることに直結してる行為だから、その時間を共有することが、コミュニケーションを取る上で一番大事だって考えてるみたいだし・・・。身体の関係が全てじゃないもん。お仕事のストレスとかもあるだろうし・・・。やっぱり男のシトっていろいろ大変だよね」
あたしは、自分に言い聞かせるように、うんうんと頷いた。でも、いまいちあいひは納得がいかないご様子。
「あたしは、毎日愛してくれるような男がいいけどな~。やっぱ、情熱的なラテン系の男かな」
あいひは今、六本木にあるお洒落なバーの、日本人とスペイン人のハーフの店員に恋をしているのらしい。もうひと目見たときから「ツボ過ぎて、やばかった」のだそうだ。
「ま、羅夢がいいんならいいんやないん」
いや、決して良くはない。良くはないけど。そりゃ、あたしだって、愛されたいけど。そう、女にだって欲望はあるのだし。
でも、いいんだ。いくら身体の結びつきがなくても、あたしたちは心が通じ合っている。魂レベルで結ばれているんだもの。あたしの中の微妙なせめぎ合いをぶっ飛ばすかのように、あいひが言った。
「正直言わせてもらえば、羅夢が貧乳なのがまずいんかもな。あの、お店でのコスプレ衣装は結構寄せてあげてだから胸でかく見えるけど、実際服脱いでガッカリしたとか」
あいひが、ひひと笑った。
「う。気にしてるとこをついたわね」
「冗談冗談。まあまあ愛に胸は関係ないさ」
「ちょっと、もうちょっと何かフォローないの?そりゃあ、確かに、おセバがヌクヌクさせてくれるおかげでようやく人並みの体重に戻ったといえ、胸はそのままだけどさ。でも、そもそも、あたしとおセバは真っ暗なとこでしかそういうことしたことないもん。だから、彼は、あたしの胸の大きさなんて知らないはず」
「ええ。一度も?明るいとこで、ないの?でもさずがに触れば分かるやろ。・・・それで、気づいて二度と見ないようにしてるとか」
「があん。やばい。そうなのかなあ・・・」
「お小遣いたっぷりもらってるんやろ。豊胸でもすれば?」
「真面目に考えてみる・・・」
「マジで冗談。それこそお金の無駄使いやろ。てか、胸がデカイ羅夢なんか想像できん。気持ち悪いわ」
「ちょっとお。ランチおごるのやめるよ。わりと、深刻なのに~。どうせあいひには、あたしの気持ちは分かんないよ」
あいひは、誰もが認めるスレンダーなのに超巨乳という抜群のプロポーションの持ち主なのだ。
「プリンセスキャットさま、帰ってらしたんですね」
あいひと別れて、新築マンションの十階にあるあたしとおセバのお城への帰り道はできるだけ歩くようにしたので、帰り着く頃にはすでにお酒も抜けていたけど、テレビをつけて夕方のニュースをぼーっと眺めていたら、いつの間にかそれが終わってバラエティに変わっていたことに気づいた頃、ちょうどおセバが仕事から戻ってきた。
「ただいまです」
「きゃ~。おかえりにゃさ~い。おセバ」
あたしは、玄関に走っていって、靴を脱ぎかけているおセバに抱きついた。
「てっきりもっと遅いと思ってましたよ。あいひさんと一緒にご飯食べてくるのかと」
「ランチはしたけど、やっぱり夕ご飯はおセバと一緒に食べたいなと思って。あいひもこのあと用事があるっちゃああるとか言ってたし。友達の紹介で知り合った、全くタイプじゃなくて、気が乗らない相手とデートなんだって。ドタキャンするか真面目に悩んでたけど。あたしもご飯済ませてきたほうがいいのか迷って、済ませてないとかえっておセバの負担になるかもとも思ったんだけど」
「さすが、あいひさん。それはいいんですよ。プリンセスキャットさまのお食事を作るのは僕にとって喜びでもありますし。それともお外に食べにゆきますか?お肉が食べたいなら、ちゃちゃっとご近所の美味しい焼き肉屋に行ってもいいし、お寿司なら築地にタクシーで行っちゃいましょう」
築地までタクシーでなんてさらっと言うけど、なにげに片道六、七千円はかかる距離なのだ。以前なら、一時期のホームレス状態のときなら、一体何食食べられるだろうって、って思わず考えてしまう。ビール換算すると(あたしの中では基本)、お店で中ジョッキ十杯以上飲めちゃうじゃない。近所の焼き肉屋、というのも、知る人ぞ知る、著名人のファンも多い、特上カルビが一皿四千円近くする高級焼き肉屋なのである。
「あたし、そんなお腹空いてないし、別にあるものでいいよ。手のかからないもの・・・といっても、あたしが言うのも図々しいけど。ホントにおセバ、あたし毎日そんな豪華なお食事じゃなくても全然いいんだよ~」
本当に、狭くて汚い、と言っちゃなんだけど、職人堅気な料理人さんが一人か二人でやってて、手書きのメニューが壁に貼ってあるような、天井の配管が剥き出し状態であったりするような、そういう焼鳥屋とか和食屋なんかも大好きなのだ。
「そんな、毎日豪華、ですか?って、これは見栄張ってるわけでもありませんし、別に無理してるわけでもありませんから。僕としては普通・・・って、嫌みたらしく聞こえますかね。でも、とにかくプリンセスキャットさまに喜んでいただければいいんです。それが僕の喜びであり、幸せであり、生き甲斐なんですから」
「おセバ~」
「プリンセスキャットさま~」
あたし、ゴロゴロと喉を鳴らすようにしておセバにすり寄る。おセバは他人には見えないしっぽをはたはたと振る。互いに愛情ゲージがひと通り満たされると、おセバは、じゃとりあえず今日は僕が簡単なもの用意しますよ、と部屋着に着替えにクローゼットのある寝室に向かった。おセバは、自分にはユニクロが一番と言って、ユニクロのTシャツと短パンを愛用している。ちなみに、下着も、靴下もだ。あたしに、何万円もする高価なお洋服を買ってくれたあと、千円にも満たない衣類を買っているのを見たときには、申し訳なさでたまらなくなった。でも、本人曰く、別にお金がないのではなく、あたしのために我慢しているのでもなく、単純にユニクロで十分なのだそうである。
その上にツウィーティーのエプロンをつけたおセバがキッチンに立ち、料理を始めると、トントントンと包丁がまな板に当たる軽快な音が聞こえてきた。
「う~ん。リズミカル。トントントントンって」
あたしが背伸びしながら呟くと、おセバが身体を反らせて、反応した。
「き~。トントンって僕のことですか。どうせどうせ、イジイジ・・・」
「あはは。おセバったら被害妄想激しすぎだよお」
「す、すみません・・・。そういや、あいひさんは、お元気でしたか」
「元気、元気。今度、家にも遊びに来たいって言ってたよ。てゆうか、ペット扱いでいいから、一緒にマンションに住まわせてくれだって」
「ははは。まだあのカフェで働いてるんですか」
「うん。他のバイトと掛け持ちで、今はカフェ出てるの週一くらいみたいなんだけど。今度一緒に遊びに行ってみる?お店突然辞めちゃったけど・・・さすがにもう時効だよね?今は店長も他の人間に任せて、お店にはあんまりいないみたいだし」
「そうですねえ。思い出の場所ですもんね」
「結構、あたしが辞めてから経ったね・・・。おセバと付き合い始めるのと同時くらいに辞めたから、一年・・・一年半くらいかな?」
「また、プリンセスキャットさまのコスプレメイド服姿見たいですけどね。本当に似合っていましたよ。僕以外にも随分熱心なファンいたじゃないですか」
「さすがに、もう大台乗ろうかってのに、きついよお」
「そんなことないですよ。まだ、十分いけますって」
嘘でもお世辞でも、正直嬉しいのは嬉しくて、その言葉に反応して、思わず顔がほころびかけたけど、
「無理無理~。働いてた頃だって、結構年齢的にもきつかったんだよ?今日・・・間近であいひの肌見てさらに実感。正直ちょっと凹んじゃったし。普通に話してると、あいひのがしっかりしてるし、年上っぽく感じたりもするんだけど。やっぱり確実に肌とか違うなあって。なんかこう、ピーンと張ってて、艶々で、もっちり、ぱあんってしてて、水分が潤ってる感じで。あたしなんて・・・、もうハリをなくしてるもん。透明感も、ないし」「プリンセスキャットさまはお若いと思いますよ。僕は昔から歳より上に見られることが多いので、羨ましいですよ。高校生のときに、母と歩いていて、旦那さん?なんて言われたりしましたからね」
あはは、と、悪いと思いつつ、笑ってしまう。
「雑誌とかテレビとか見てると、たまに驚異的な四十代とか五十代の美魔女とかもいるけど。でも、結局のとこ、やっぱりどんな若く見える、って人でも、よく見ると、それはその歳なりに頑張っているレベルでしかない気がする。あたしもそう。恋は盲目・・・じゃない。あばたもエクボっていうんだっけ?そういうの。おセバは特別なフィルターかかってるから、真実のあたしの姿が見えないんだよ」
「そんなことないと思いますけどね・・・」
料理をしている手元のほうを見つめたまま、おセバが呟いた。
おセバは優しすぎるんだ。
そう。自分が一番分かってる。男性の髪の毛と、女性の肌は、なかなかどうしても、どうにも誤魔化せないものなのだ。鏡で見ると、最近目元に小じわも出てきてめっきり老けた気がする。口元のほうれい線もうっすら。誰かに聞いたか、雑誌か何かで目にしたのだけど、老いがある日突然一気に来るというのは本当なのだ。街角でもどこでも、ふとガラスに写った自分を見てがっくりする。
おセバは毎回一緒にいるときは勿論、どこに行くにもお金を惜しまないで、あとでその分を渡すから、出かけるときはタクシーを使って下さいと言うのだけれど、あいひと会うのに久々に乗った電車の中でも、窓ガラスに映った自分の姿を見て驚愕した。うきゃー、誰?このおばさん。電車の窓ガラスって本当に恐ろしい。
ため息をつくとまたさらに老いはやって来そうで、慌てて飲み込んだ。少し前まで、自分が老いることなんて、考えもしなかったのにな。
確実に、一時期栄養と睡眠二大不足で不規則な生活を送ってたしわ寄せが来てるのかもしれない。今は、十分な休息と、睡眠と、栄養と、有り余るほどの愛情まで与えてもらってるのに。
おセバに守られているという安心感がかえっていけないんだろうか。人間、男も女も独身の頃はギラギラ若々しくても、家庭を持つと急にどっしり落ち着いて、老けてというか歳相応になってしまう人が一般的に多いように思うから、なんだろ。危機感とか緊張感みたいなものってやっぱり必要なのかな。精神的なものから来る細胞の弛みというのは恐ろしい。
「・・・あの頃より太ったってのもあるしね。へへ・・・。もう衣装入らないかも」
あたしは自分の手でお腹の肉をつまみ、努めて深刻でない風を装いながら言った。
おセバが手を止め、たたたと、リビングのほうに駆け寄ってきた。手にはフライ返しを持っている。そして、真剣な顔をして言う。
「そんなにお太りになってないですよ。というか、カフェで働いてた頃は失礼ですが少し痩せすぎなくらいでしたからね。今ぐらいでちょうどいいんですよ」
「そうかなあ・・・。まあ、確かにおセバに出会った頃はあたしの人生至上最高に痩せてたけど」
「僕、おこがましいですけど、一緒に暮らすようになってから、プリンセスキャットさまを少しは健康にしてさしあげられたという自負は多少あります」
「ホント、おセバのお陰だよ。あの頃は貧血も酷いし、ちょっと階段上っただけで、ぜえぜえ言ってたし、体調最悪だったもん。まあ、家もなくて街中彷徨ってて、一日コンビニサラダだけの日とか、ビールだけの日とかあったし、そんな生活だったからね~。身体にいいはずないし」
「それは酷い・・・」
おセバが青ざめた表情をする。
「いいの、いいの。今はこんな幸せなんだし」
あたしのフォローも甲斐なく、おセバは「おかわいそうに・・・」と目を潤ませている。いいんだってば、あたしなら。悲惨な過去も救われたんだもん。凍死or餓死寸前のマッチ売りの少女は救われたの。本当に、おセバには感謝してもしたりないよ。
「ところで、今日はコラーゲンたっぷりのもちブタとレタスのしゃぶしゃぶお鍋ですが、良いですか?時間的にも短時間で作れるものと思って」
「いいね~。豚さん。レタスもむっしゃむしゃ食べたい」
「きゃ~。僕もいつかプリンセスキャットさまにむしゃむしゃ食べられないよう気をつけなきゃ」
おセバは笑いながらそう言って、再び食事の支度に取りかかる。
確かに、おそらくおセバは幼い頃からいいものを食べて育っているから、美味しそうなどと、不謹慎なことを考えながら、あたしも再びテレビを眺める。最近女優としても評価され、活躍の幅を広げている元グラビアアイドルがバラエティ番組でお笑いコンビとともに天然(??)ボケをかましている。思わず、ソファーを叩くくらい笑ってしまったけれど、そのアイドルの顔にちょっとした違和感を感じて、どこをどういじったんだろうとついじっと見てしまったあたしは意地が悪い。
しかしまあ、外見と同時にキャラクターまで変えて、芸能界は大変だなと思う。そして・・・偉いな。ある意味その根性に尊敬の眼差しだったりして。
それに比べてあたしなんて。
「・・・・・・何にも、頑張ってないな~・・・」
思わず、口に出して呟いていた。おセバには、せっかく生活のために働かずにすんで、金銭的にも時間的にも余裕ができたのだから、あたしも何かしら自分で自分にしかできないことを見つけるねなんて言っておきながら、実際何ヶ月も何も行動を起こしていないままだ。ただ朝起きて、朝食を取り、おセバを送り出したあと、そのままパジャマも着たままで、一日だらだらと雑誌を読んだり、テレビを見たり、ゲームをしたりして過ごす。
唯一、おセバと暮らし始めて達成したことといえば、プリンセスキャットさまがお好きそうな気がするんですがどうですか、とおセバに奨められた『プリンセスメーカー』というお姫さまを育成するゲームだけだ。父親の立場になって、自分に預けられたお姫さまに勉強や習い事やアルバイトや武者修行をさせて、信頼関係を築き、真のプリンセスに育て上げるという内容だ。が、育て方によって最終的に何になるかは、最後まで分からない。
貴族の妻、あるいは農夫の妻になったり、文士や司祭や尼僧になる可能性もある。育て方を間違うと、詐欺師や夜の蝶になってしまう。あたしの育てたお姫さまは最終的に魔法使いになってしまって、ちょっと微妙だった。だから、達成といっても完全に攻略はしていない。本物の、真のお姫さまに育て上げるのは難しい。すぐすねちゃうし、ぐれるし、病気になって寝込むし。もしかしたら、おセバもちょっとは僕の苦労も理解して下さいと、暗にあたしに言いたかったんだろうか。なんて深読みしすぎかな。
おセバは、一日おうちにいるあたしに、特に何をしていたかなんていちいち訊かないけれど、日中自分がいない間、あたしが何かしらそれなりにきちんと目的意識を持って過ごしていると思っている。らしい。精神的なプレッシャーにならないよう、あまり頑張って下さいみたいなことも言いたくないと言っていたのだけど。
「今は、本を読んだりするだけでも十分だと思うんです。そのうちこれだというものが出てくるでしょう。必要だと思うものは何でも言って下さい。すぐに揃えます。プリンセスキャットさまはきっと何か成せるお方ですよ」
おセバが本気でそう思ってくれてるのか、自信はなかったけれど、資格や習い事に関する本や、あたしがちょっとでも口に出して、興味を示したことに関するものは、いつの間にか、本棚に並んでいたりする。まあとらえ方によっては無言のプレッシャーとも取れなくはないけれど。
でも、今まで、そんな風に誰かに信じてもらえたことがあっただろうか。親の、勝手な期待は別だ。おセバの言葉は確かに力を与えてくれる。自分にもできることがあるのでは、と自分自身に対して希望が持ててくる。・・・気がする。
しかし、それに応えたいと思いながらも、結局だらだら、時間だけが過ぎてゆく。おセバと付き合い始めてそれなりに経つのに、何も始めていないし、何も進歩していない。人って、生活が安定して、愛情面や経済面、金銭欲や物質欲いろんな部分が満たされると、向上心や頑張る気力なんて簡単になくして、怠けてしまう生き物に違いない。なんて、ああ、最低。なんて言い訳がましいんだろ。あたしが単純に怠け者なだけなのは、ようく分かってる。
毎日、まだ今日までは休息期間でも良いよね?まだ完全に体力も復活したわけじゃないから、もう二、三日は充電期間に充ててもいいよね?きっと、絶対、そのうち気力も充実したら、頑張るんだから。爆発的なパワーを発揮して、スーパープリンセスキャットさまになるんだから。なんて、結局ズルズル一週間、二週間と過ぎてゆく。ホント、ダメなあたし。十分分かってるけど。一年後、十年後、あたしってこんなんで変われてるんだろうか。
でも、だって(まるで子供の言い訳みたいだけど)、一日、自分のお城にいて、ゆっくりと時間を過ごせることのなんという幸せなんだろう。家があるって、昔は当たり前のことだと思ってたし、いちいち改めて深く感謝するほど考えたことがなかったけど、浮浪者同然の生活をしてみて、つくづく雨風のしのげる場所があるってことのありがたさが分かったし、帰る場所、決まった「家」があることって、自分だけの空間があるって、素晴らしいことだ。そして、誰に何を咎められることもなく、自由にのびのびできる時間もある。決まった時間になれば会える大事な人もいて、これこそ人間の求める理想の生活と言える気がする。
・・・時々、誰かに後をつけられてるような気がします、母親が興信所の探偵を雇ったのかもしれません、なんて言うおセバ同様、被害妄想癖とも言えなくはない自意識過剰さのあるあたしは、どこかに監視カメラがついてたりして誰かに見られてるんじゃないかと不安になって、辺りをキョロキョロ見回してしまったりするけれど。まさか、おセバがそんなことするはずないし。おセバは、とても、個人のプライバシーを尊重する人なんだ。
おセバは、自分が用意したおうちだっていうのに、あたしの部屋にはなるべく近寄らないようにしてるし、用事があってあたしが中に入っていいよと言ったときでも、おそるおそる、周りはなるべく見ないようにしてるみたいだし、用件だけ済ませてすぐに出て行ってしまう。あたしがいない間に勝手に入ったなんて形跡も一度もない。
あたしが昔付き合った輩なんて、大抵が携帯は勿論、財布の中身や、手帳や、机の引き出しに入れてある昔の卒業アルバムや、大事に取っておいた友達や家族の手紙まで悪びれもなく覗くような人種だったのに。付き合ったら、あたしは自分の所有物で、何したって構わないと思ってるような連中だった。あたしがこういうことは嫌だ、やめて、と泣いて訴えても、まるで聞き入れてくれなかった。あたしに人権なんて、なかった。
あたしにだって、相手のことを知りたい願望はあったけど、だって、まあそれはそうでしょう。「好き」な人のことだもの。やっぱり何でも知りたいし、理解したい。それは気持ちとしては、当然ある。だけど、さすがに携帯を覗いたりする勇気はなかった。やられたから自分もやるっているのは気が引けたし、何よりそうすることによって自分が傷つく確信があって怖かったから、ということは、やっぱり相手を信用してなかったのかもしれない。
おセバのことは、心底信用してる。だから、いろいろ詮索する必要は、ないんだ。
おセバはそもそも、あたしのことをそんなにいろいろ知りたくないと言う。出会ったときから、そうだ。あたしが自分について話そうとして、拒まれたこともある。あたしの理想としては、強引で無理矢理で精神的レイプみたいなガサ入れによってでなく、きちんと、自分の口から自分自身のことを伝え、過去も含め、自分のことを知ってもらって、理解した上で受け入れてもらいたいみたいな勝手な願望はあったのだけど。
おセバは、賢いんだと思う。どんなことにせよ、一度「知った」ら、話した本人にとってはなんてことのないことでも、相手にしてみれば、嫉妬したり、傷ついたり、余計な悩みや苦しみの元が生まれることもありますから、なんて言ってた。それって、あたしが叩けばホコリがたくさん出てくる人間だと、もしかしたら薄々感じてるからかもしれない。おセバの考えや勘は、きっといつだって正しいんだろう、と思う。
気がついたら、おセバがあたしの顔を怖々とでもいうくらい控えめに覗き込んでいた。
「考え事ですか?大丈夫ですか。プリンセスキャットさま。邪魔してすみません。準備ができたものですから・・・」
心配そうな、おセバの顔。
「んにゃあ、なんでもない、なんでもない。ごめんなさい。よしっ。早速食べるにゃり~」
ダイニングテーブルに移動すると、いただきま~す、とあたしは、手を合わせた。う~ん、しょうがの効いた、いい匂い。真ん中に置かれたお鍋の横には、綺麗なピンク色のお肉に、新鮮なレタス。もやし。ゆず胡椒や大根おろし、ポン酢にごまだれも用意されている。
「お肉もレタスも、さっとくぐらせるだけで大丈夫ですよ」
卓上コンロの上のお鍋から立ち上る湯気に、目眩がしそうなほど、幸福だと、思った。
「あっ、だいぶ肩が凝ってますねえ」
あたしの肩をなめらかに、静かな波を揺り起こすように揉んでくれていたエステシャンの塚田さんが言った。
「本当?おかしいな。肩が凝るようなこと、何もしてないんだけどなあ。姿勢が悪いからかな」
「大隈様は、働かずとも良いのでございましょう?今のご時世に、羨ましいですわねえ」
笑おうとしたのだけど、顔の上にのったゼリー状のパックが邪魔して、笑えなかった。まだ籍を入れているワケではないけれど、畑中祥子は、ここでは、大隈祥子、ということになっている。
家なき子状態だったようなあたしが、本当に恐れ多いのだけど、高級ホテルに入っているエステに、週一、二回通わせてもらっている。隠れ家的な場所にあって、海外のセレブや要人も泊まるらしい。今日はそのエステの日なのだ。フェイスからボディまで、たっぷり二時間半。終わると、お仕事を終え、お迎えに来てくれたおセバと待ち合わせて、同じホテルでフレンチか和食を食べて、タクシーで帰る。溜まっていた老廃物の流れがスムーズになり、血行が良くなった身体は、お酒も回るのが早く、ワインなんて飲んだ日には、すぐにふらふらになって、おセバに支えてもらいながら帰るはめになる。でも、それがまた最高に幸せなのだ。
エステなんて、自分のお金じゃ絶対通おうとは思わなかっただろうな。って、まず無理なんだけど。まあ三十分三千円の足ツボマッサージがせいぜいいいところだ。それもフリーペーパーについているクーポンは必ず使う。そうすると、施術時間が増えたり、金額が半額になったりする。だけど、担当者に当たり外れもあったりする。下手な人に当たると、なぜお金を払わなければいけないのか疑問に感じるくらい、もう、全くと言っていいほどツボを外して、心地よくないのだ。むしろ、苦痛なことさえある。なにげに、ツボマニアだったりする、あたし。
当然値段は驚くほど高いのだけど、さすがに高級ホテルの会員制エステに在籍する一流のエステシャンは、違う。ゴッドハンドというのはこういう人の手をいうのかと思う。人の指がここまで他人を心地よくするなんてすごいことだと思う。担当の女性の塚田さんは、とても美人で、正確な年齢は知らないが、学生時代に見たドラマや好きだった歌の話から推測するに、あたしよりおそらく若干若いのに、すでに主任についている、ということは、かなりやり手なのだと思う。アナウンサーやら女優やら、一流の芸能人にも指名され、結構な人数を顧客として持っているらしい。守秘義務があるので、あたしがワイドショーなどで見たゴシップを興味本位で訊ねても、差しさわりないことしか教えてはくれないけど。きっと、なかなか面白い情報を握っているに違いないのに。
ガウン一枚で、ほとんど素の身体を任せているのだから、こういう無防備な状態では、普段なかなか口に出せずに胸に仕舞っていることも、つい話してしまうかもしれないと思う。あたし自身も、かなり彼女には心を許してしまっている。基本彼女はお仕事姿勢を崩さないし、あたしがとりとめのない世間話を一方的に話すだけだけど。たまに彼女も、スポーツジムで働いているという付き合っている男性の愚痴をこぼしたりする。どうやら、一緒に住んでいるけど、家賃も彼女が払ってるみたいだ。なんだか身につまされる。
でも、さすがにおセバみたいな、こんなエステにまで通わせてくれる素晴らしい男性を見つけたほうがいいよ~というのもなんだし、なあ。本当に心底相手に嫌気がさしてるならともかく、「恋」しているのなら、「情」があるのなら、周りがとやかく言ったってどうしようもないことは、百も承知だもんね。まあ少しでも吐き出してもらって、ストレス軽減してもらうしかない。個室の中は、女同士の秘密の花園、究極の癒し空間って感じ。さすがに、夜の「レス」話はできないけど。おセバのお母さまも長くそのエステに通っていて、上お得意様なのだもの。貶めるようなことは言えない。
そもそも、あたしがそのエステに通わせてもらえることになったいきさつも、おセバのお母さまが、あたしの誕生日にエステの九十分施術チケットをプレゼントしてくれて、素晴らしかったです。ありがとうございました、とお礼の手紙を書いたら、とても喜んでくれて、彼女も通わせてあげたら?と言ってくれたからなのだ。お値段が高いことは重々分かっているのに、とても寛大なお母さまだ。あたしもたまにお食事をご一緒させてもらうのだけれど、ご主人(おセバのお父さま)を早くに亡くされて、それからご自身が輸入食品の会社を切り盛りして、女手一つでおセバを育ててきて、有名なエスカレーター式の私立にも入れて(奇跡的なことらしい)、大学院まで出して、女傑と言っても過言ではない女性でもある。ずっと一人息子のおセバにべったりだったようだけど、一応恋人らしき存在はいるのらしい。だけど、息子からは離れがたいみたいだ。趣味の歌舞伎やバレエにも、しょっちゅうおセバを付き合わせている。
一度、あたしも初心者でもとっつきやすいような現代劇の人気脚本家とコラボした歌舞伎の舞台を観に連れて行ってもらったのだけど、途中で思い切りぐうぐう寝てしまった。真ん中に座っていたおセバは、右端のお母さまに左端のあたしの寝姿が見えないように、微妙に前のめりになって視界を遮ってくれていたらしい。後日、でかい身体が役に立ちました、なんて言ってたけど。本当に、よくできた、息子さん。だ。おセバは。
その後、三人でお食事したのだけど、話題が舞台の詳細に及ばないよう、おセバが相当に気を使ってくれているのも分かったし。申し訳なかったな。とっても。あたしって、まるで高尚なものは受け付けない体質みたい。おセバのおかーさまも、本当はもっとそういうのが好きな、教養があって、文化的芸術的趣味にも長けたお育ちの良いお嬢さまが良いんだろうけど、よりによっておセバの選んだのがこんなんだから、ごめんなさいって感じだ。一応、あたしのことはかわいい子ね、とは言ってくれていたのらしいけど、特別気に入ってくれているワケではなさそうだし、それでもよくしてくれるのは、要するに息子のご機嫌を損ねたくないからに違いない。
「さっさと再婚してくれると、助かるんですけどねえ。なかなか子離れしてくれなくて、困ります」
そうおセバもよく口にしているのだが、本人はそういう気はないらしい。なんでなんだろ。あくまでおセバの母親、ってのほうが先にあるからなのかな。でも、おセバだってもう子供じゃないし、自立して、自分で立派にやっているのに。
品のある素敵な女性だとは思ったけれど、正直やっぱり恋人の母親というのは、気を使う、なかなか難しい存在だ。まあ、一緒に暮らさなきゃならないわけじゃないから障害になるほどじゃないけど。母親にとって、一人息子がかわいいのは当然よね?
「終わりましたよ」
赤ちゃんってお腹にいるときこんな感じじゃないのかしら、と思うような温かで優しい波間を漂っているうちに、気がついたらまた、寝てしまっていたらしい。しっかり味わいたいから今日こそ眠らずにいようと決心してるのに、いつもあまりの心地よさに途中で眠りに引き込まれちゃうんだ。・・・なんか、いびきかいちゃったかも。よだれも垂れてるし。慌てて、手の甲で拭う。塚田さんは、何も見ませんでしたよ、という風な涼しげな顔で、
「では、ごゆっくりお着替えして、お化粧室をお使い下さい」
と出て行った。すらりとしていて後ろ姿の白衣のシルエットも美しい。
プロ、だなあ。
二時間半立ちっぱなしで力のいる仕事だ。腰を痛めたり、腱鞘炎になる人も多いらしい。だけど、彼女は昔から人を綺麗にすること、がすごく好きなんだそうだ。その人にしかできない仕事、を信念とプライドを持ってやっている女性は本当に素敵だ。はああああ。それに引き替え、あたしなんて。いつも、癒される反面、コンプレックスを刺激されて落ち込むのだった。
迎えに来てくれたおセバは、あたしの纏う微妙な空気を察知するのに長けている。
「どうしたんですか。プリンセスキャットさま。今日は満足がいかなかったですか。いつもの担当の、塚田さんでしたっけ、がいらっしゃらなかったとか」
「うん、塚田さん。ね。ううん。予約の際に確認してるからいないってことはないし。今日も完璧だった。文句のつけようない。でも、それ故に多少思うところがあるの」
おセバは思春期の娘を持つ父親のように、う~んと眉間にシワを寄せて考え込むような顔をした。
「とりあえず、お腹を満たしましょう。今日は、和食にしますか。フレンチにしますか。なんでもいいですよお。食べたい物おっしゃって下さい」
おセバは、あたしがお腹を空かせすぎて、ご機嫌斜めなのだと思ったらしい。
その日窓の外は真っ白で、十階のベランダに出ると、同じ目線の高さをカラスが飛んでいた。目が合いかけたので、慌てて逸らした。完全に合ってしまったらあたしめがけて突っ込んで来そうな気がしたからだ。あたしは、しゃがみ込んで、タバコに火をつけた。
おセバにはタバコを吸うことは言っていない。おセバがタバコの煙が苦手なのはようく分かってるもの。犬のように鼻が利くおセバは、もしかしたら薄々気づいているのかもしれないけど。何日間かは禁煙に成功してたのに、つい破ってしまった。
火を消して、缶ビールの缶に落とす。少し気管支の弱いおセバは都会の空気は汚れているからといって、そうそう窓を開けることはないけれど、念のため毎回きちんと片付ける。
そのあとビヨンセをかけて、その昔クラブなんぞという華やかな場所に出入りしていた頃よくかかってた曲に合わせて踊り狂った(というほどのこともなく、ただ、身体をリズムに合わせて動かしたくらいのことだけど)。なりきりビヨンセ。イエイ!特に『クレイジー・イン・マイラブ』で最高潮に盛り上がると、喉が渇いたので、冷蔵庫から三百五十ミリリットルの缶ビールを取り出し、勢いよく胃に流し込む。胃がきゅうっと締め付けられるような感じを味わうと、すっかり気分が良くなり、飲み干すと、ソファーにもたれかかったままうとうとした。
はっとして、時計を見ると、まだ三十分ほどしか経っていなかったけれど、慌てて立ち上がる。ビール缶をゴミ袋に入れると、新しいものを段ボールから出して冷蔵庫に入れた。そろそろ買い足さなきゃいけない時期かしら。おセバが段ボールの中身を確認する前に、補充しておかなきゃ。基本的に夕食のときに開ける乾杯ビールは一日二缶か三缶程度で、おセバはいつも箱ごとネット注文するのだけど、ひと月ごとくらいに収納庫に置いたその箱を確認するのだ。箱は、アサヒ、サッポロ、エビス、サントリーのとまんべんなく揃っている。
一度、ベルギービールやドイツビールの、幾種類かが三本ずつくらい入ったセットを頼んでいたときには、思わず我慢しきれず昼間冷蔵庫から出して飲んでしまったものの、段ボールを見たらちょうどその種類がすでになく、近くの酒屋やコンビニやスーパーにも売っていなくて、焦ってしまった。仕方なく、少し遠くまで足を伸ばして、駆け回ったけれど、やっぱり見つからず、家に戻ってきたときには、ぐったり、疲れ切っていた。
おセバの頭の良さは、侮れない。あの種類、確かもう一本あったはずじゃないですっけ、などと呟かれた日には、心臓が縮む思いを味わった。おセバったら記憶力良すぎ。
「おセバの勘違いじゃない?日本のビールとはまた違って新鮮だねって、最初結構一気に開けたじゃない」
とドキドキしながらも冷静を装って言ったら、そうかもしれませんね、とおセバは恥ずかしそうに笑った。
ごめんなさい、おセバ。
おセバは、あたしのこういう部分を知ったら、どうなんだろう。それでも、好きでいてくれる?プリンセスキャットさまが一番、って言ってくれる?変わらずに、愛してくれる?どんな面があろうと、愛情は変わりません、って誓ってくれる? おセバは少々のことでは、あたしを嫌いになったりしない、変わらずに、それまでと同じように愛してくれる、ってそう思う反面、やっぱり少し手のひら返したように、すみません。プリンセスキャットさまは僕が思っていたような方じゃなかったです、さようなら、と言われそうな気もしてしまう。ヤダ。怖い。
あたしなんて、おセバの愛情を失ったら終わりだもん。な~んにもない。とりえもない。ただの、ちょっとは若く見られるけど、実際はそこそこ年食っただけの使い勝手のない女。数年前までは、ひとつ愛を失ってもまた別の人を見つけられるとも思ってたけど。今はそれもどうかな。もう誰かに、人に愛される自信なんかない。そもそもなんで若い頃ってあんな強気でいられたのかな。お洒落雑誌なんかの記事でよく書かれてる、別れは新たな出会いのためのステップなんて言葉、もう気休めにすらならない。
若い頃多少チヤホヤされてた人間ほど、その美貌(って、考えたらすごい言葉だな)が衰えてくると、焦るものなのかもしれない。賢い子は、そうなる前に、仕事なり、子供を産むなりして、自分に自信を持てることやかけがえのないもの、没頭できる趣味にしたって大切な家族にしたって、何かしらを見つけているのかもしれないけど。あたしは、何にも見つけられないまま、二十代をほぼ終えてしまった。
先行き不安。
なんだろ。やっぱり幸せ慣れしてないから? おセバの愛情は絶対だって、「永遠」だって、疑う余地もないはずなのに。おセバだって、「僕がプリンセスキャットさまに永遠を見せてあげます」と言ってくれたじゃない。
おセバは、あるとき、歌だってプレゼントしてくれた。おセバは、音を拾う器械みたいなのも持ってて、自分で打ち込みして曲も作れるのだ。
その歌は、おセバ自身もそれまで、時が経てば変わらないものなんて何ひとつなくて、永遠なんてない、と思っていたけれど、あたしと出会って、恋に落ちて、初めて永遠を信じられる気がしたし、君が信じられないと言うのなら、僕が永遠を見せてあげよう、って、歌。他にも、時間が巻き戻せるなら、昔に、学生時代に戻りたいとずっと思ってたけど、今は時間を巻き戻したら、あたしに――君に出会えないかもしれないから、巻き戻せなくてもいい、なんて歌。それから、僕は君の全てが好きで、嫌いなとこなんてひとつもなくて、君の側にいるだけで、僕の生きてく意味は満たされる、なんて歌。
おセバは学生時代、独学でギターやベースも習得したらしく、自分で作詞作曲編集もして、一枚のCDにする技術まで持ってるのだ。本当に器用なんだと感心してしまう。
よくテレビでやってたりする、「恋人に自作の歌をプレゼントする」なんて企画、爆笑してたけど、いざ自分のために作られた曲を聴いたら、胸がきゅうんとして、じんわり涙が出てきた。
「あはは、おセバきも~い」
なんて、笑って誤魔化したけれど。おセバは、真面目に受け止めてしまったようで、があん。って、本当に青ざめて、どうせキモイわよ、アタシなんて死んじゃえばいいのよ~と叫び、オカマキャラで、背中を丸めてしくしく泣きマネなんてしていたけれど。
あたしは、何度も何度もそのCDを繰り返し聞いた。
歌声は、そんなに特別プロみたいにうまい、ってわけじゃないって、カラオケに一緒に行ったこともあるから、分かってたけど。でも、耳障りの良い、好きな声だった。声量もなかなかある。おセバがよく言う、だてに太ってるワケじゃないのよ~、ただのおデブじゃないんですからっというセリフも納得だった。
――――――永遠。
あたしは、永遠に、おセバに守られて、生きたい。どんなことがあっても。守られて、ってとこが、真実の愛ではない?自分が相手も守る、くらいじゃなきゃダメかな?何があっても。もし、おセバが病気や事故で、おセバの身体が動かなくなったりしても、あたしはずっと傍にいて支えてあげられるだろうか。おセバは、あたしがそうなったら、最後のそのときまで見捨てないで面倒見てくれるかな。自分は自信を持ってきっぱり言い切れないのに、相手に望むなんてのは、ずるいよね。そんなの。だけど、あたしには、本当に、力がない。経済的にも。現実問題、おセバに何かあったらどうするんだろ。自分の力で生きてゆく能力も自信もないから、おセバに依存してるのを、打算混じりの感情を、体裁良く愛情とすり替えてるだけ?
ううん、でも、あたし、心からおセバを愛してるもの。おセバとふたりで生きてゆく、って決めたんだもの。それに、このままずっとおセバに頼ろうとは思ってないもの。いつかはきちんと自分で自立して、おセバに恩返しするもん。いつか、きっと。絶対に。
翌日も、数羽のカラスが胸の中を這ってるような、ざわざわとした気分が続いていた。
いったんおセバを送り出した後、二度寝して、ソファーに寝そべって、遅い朝の情報番組、嫁姑との闘い、壮絶バトル、制すのはどっち?などというタイトルがついたものを見ながらゴロゴロしていると、突然携帯が鳴った。ビクリとして飛び起きて姿勢を正す。別にかかってきて困るような電話はないはずなのに。
でも、やっぱり、おセバが一生懸命汗水垂らして(あくまで表現上での例えだけど。実際は冷暖房の整った、快適な場所でパソコンに向かってるのかな)働いているときに、まだ結婚してるわけでもないのに、専業主婦歴約二十年といった主婦並みの生活態度では、やましい気分になるのは確かだ。しかも、リビングのテーブルには、ビールの缶が置かれてあった。つまり、告白すると、あたしは起きて早々、目覚めのビールを飲んでいたワケだ。最低!
携帯の画面は非通知設定になっていた。一体、誰?おそるおそる電話に出ると、とっくの昔に別れたはずの、思い出したくもない、噛んだガムをそのまま道ばたにぺっと吐き出すみたいに、あたしを裏切ってぽいっと捨てた男からだった。今さらなんだというんだろう。
「あっ、祥子。良かった。出てくれて。俺、和也だけど。分かるよな。久しぶり。元気?」
最近久しく本名で呼ばれていなかったので、一瞬自分のことだと分からず、戸惑ってしまった。実の母親も、あんた、とかそんなんなんだもの。
「だいぶご無沙汰しておりますが、何のご用件でしょうか」
「コワイ声出すなあ」
すぐさま切らないところが、あたしも優しい。というか、一言、言える日を待っていたのだ。
「当たり前でしょ。元気もクソもないよ。自分にヒドイ、サイテーな、残酷で冷酷で非道で、とても普通に心のある人間とは思えないようなことした相手だもん。あんたね、何したと、思ってる。あたし、真冬に一緒に住んでたマンションに帰ったらチェーンがかかってて、中から女の子が出てきて、その隙間から貞子みたいにこっち覗いて、もう彼寝ちゃったんですけど、実はあたし、彼の子供ができちゃって、ここに住むことになったんで、もう帰ってこないでもらえます?って言われたんだよ?あまりに突然で、状況が把握できなくて、こっちが何か言う前にドア締められて、せめて荷物だけでもとか言ったのに、もう開けてくれなかったし。そのあと、すごい惨めな気持ちで近くのファミレスで朝まで過ごしたんだから。あんたの携帯、電源切られてて何回かけても、通じないし。あたしも多少払ってた家賃返せって感じだったよ。あんたなんか死ねばいいのに、ってずっと呪ってたんですけど」
「そんなイヤミな言い方するヤツだったっけ。今付き合ってるヤツの影響?」
「・・・・・・」
「正直だな」
「そんなわけないでしょ。おセ・・・彼はイヤミっぽくなんかないし。・・・多少、まあ、シニカルだけど。って、もう、いいでしょう。それで、用件は、何なの」
「お前の荷物、取りに来いよ。お前もないと困るだろ」
「はあ。ホント、よく言うわよね。二年も放置してて。どうせ、今の彼女にいい加減片付けてよとかやいやいうるさく言われたんでしょ。てか、その前から言われてないはずないと思うけど、あんたも面倒くさがりだもんね。勝手に捨てなかっただけ、その彼女も極悪人ではないのかもだけど。よっぽど、切羽詰まった?引っ越しでもするの?」
「鋭いな。ようやく籍入れてさ。マジメに彼女が妊娠したから、もう少し広いとこに引っ越すことになってさ」
「まあ想像つくっていうか、褒められるほど鋭いヨミでもないし。断りもなく処分されてなかっただけマシかなあ・・・。あたし、共通の知り合いの友達に聞いたんだけど、最初の彼女の妊娠ってのは嘘だったんでしょ。なんか、あんたも変なとこで騙されるっていうか、優しいのか、正真正銘心底馬鹿なのかよく分かんないんだよね。合い鍵、まだ持ってるから、あなたがたがいないときにお伺いしてお片付けしても良いかしら?今日すぐにでもお伺いしたいところだけど。今日は、あんた、家、いるの?大体、ちゃんと仕事してるの」
「うるせえな。それこそ余計なお世話だよ。今日は休みなんだよ。荷物まとめてあるからさ、どこか指定してくれたらそこに持ってくよ。ぶっちゃけ、現彼女に絶対に家にはあげないで、って言われてるんだよ」
「あー、そう。・・・・・・ホンっトにヒドイなあ。あたしのこと、なんだと思ってるの」
あまりの扱いに、悔し涙が滲んでくる。一応、二年間も彼女だったことがあるというのに。その相手にこんな仕打ち、ってある?
「今に始まったことじゃないだろお」
「確かに。今に始まったことじゃないけど、ね」
今の自分のセレブな持ち物を考えると、昔持ってた荷物なんてゴミ同然みたいなものだけど、それでもできれば取り返したい、手元に戻らないと気になる私物はある。
電話を切ると、一気に気力を吸い取られたみたいにぐったりし、その場からしばらく動けずにいた。窓の外で、救急車のサイレン音がしていた。
憂鬱な気分を奮い立たせ、服を着替え、化粧をする。そのとき、また携帯が鳴った。おセバからだ。突如として、鼓動が早くなる。
「――もっ、もしもし?」
思わず、つまってしまった。
「あ、急にすみません。急な電話は嫌がるかなと思って、今から電話しますがよろしいですかと一言断りのメールはしたんですが」
「ごめんなさい。見てなかった・・」
「メールでお伝えするのも申し訳ない気がして。今日なんですが、急に母親が相談があるとかで、申し訳ないのですが、少し遅くなりますがよろしいでしょうか」
「そうなんだ。って、よろしくないって言っても、断れないんでしょう」
思わず、意地悪なことを言ってしまった。
「本当にすみません。まあそこまで遅くはならないと思いますが。おそらく待ち合わせが銀座になるでしょうから、松坂屋かどこかでお総菜でも買って帰るつもりではいますけど、お腹が空いたら出前でも何でも取って食べてて下さい。ご承知だとは思いますが、キッチンの引き出しに、予備用のお金が入ってますから」
「うん。分かった。了解」
ある意味、ちょうど、良かったのかもしれない。荷物の引き取りを長引かせるつもりはなかったけれど、おセバの帰りを気にして焦らないで済む。
「なんだ。幸せそうだな」
目の前の、ちょびヒゲとたばねてあるのに茶髪混じりのロン毛がうっとうしそうな男が言った。交差点の真ん前にあるカフェ。あたしの前には、琥珀色のビール。彼の前に置かれたカフェラテのカップにかけられた指には、ごつい指輪がはめられている。以前よく見ていた頃は感じなかったけど、今思えば、外見からしてこんないかにも悪そうな男によく引っかかったもんだ。
友達と行ったクラブで知り合って、当時彼は代官山のアクセサリーショップで働いていたんだけど。お洒落でセンス良くて、腕や指にはめたシルバーのアクセの選び方も抜群で、おまけに喋り方が優しそうで、つい騙されてしまったんだ。考えたら、商売柄、接客馴れしてたからかもしれない。まあ、最初から騙されたってわけでもないけどね。確かに、とてもラブラブな時期もあったんだ。それに、あたしにたかることなく、一緒に住むことにしたとき、最初は家賃を多めに払ってくれるってだけでも感激だった。食費光熱費諸々はほとんどあたしが出してたけど。でも、結局ダメになった。やっぱり、あたしが悪いのかな。あたしに魅力がないから、飽きられちゃうのかな。大体、どの人からもお前のことが嫌いになったワケじゃないんだけど、とかお前が悪いワケじゃないって言われるんだよね。でも、じゃあ、何がいけないのかな?まあ、もういいや。
「・・・えへへ。だって、幸せだもん」
あたしは、得意げに笑う。そうだ、今のあたしは過去の男に会っても、ちっとも惨めじゃない。逆に、勝ち誇れる。と、思っていたら、
「でも、ちょっと老けたかな。目尻にシワが」
ヤツが、自分のこめかみの辺りを指して言った。
「うるさい」
ホント、そういうこと、言っちゃうところが腹立たしい。もう少し、女の子のハートを傷つけないような言い方ってないもんかね。些細なことでも過敏になる微妙なお年頃だってのに。心の中でブツブツ文句を言いながら、ビールをあおる。ビールを頼んでて良かった。酔いが回ってきて、黙り込まずに、少しは反撃することができそうだ。
「今ねえ、今付き合ってる彼氏と神楽坂の新築の高級マンションに住んでるの。いくらしたかなんて訊かないから億ションかどうかは分からないけど、とにかくすごく豪華で、入り口は宮廷の門みたいで、天井が高くて、コンシェルジュがいて、本当に素敵なとこ。三LDKで広々してるの。ガーデニングできそうなくらいの広さのベランダもあるし、キッチンも広々してて、排水溝のところにそのまま生ゴミがリサイクルして資源になる設備も付いてる。リビングも開放的で日当たり良くて、最高の場所。それを、今付き合ってる人が全部与えてくれたの。学歴も聞いたらびっくりすると思うよ。すごく紳士で、優しいし、あたしの好きなものだったら何でも、王室御用達ベルギーチョコレートに、最高級茶豆までお取り寄せしてくれるんだから。月一回アクセサリーやお靴やお洋服のプレゼントまでくれるし、一回の食事で数万使ったりするんだから。信じられないでしょ」
「はいはい。良かったね。要するに、金だけの男なんだろ。すごい年上のよぼよぼのじいさんかよ」
目の前の男が呆れたように顔をゆがめる。
「違う。あたしより・・・下だもん」
その言葉に、今度は、目を細めて蔑んだような顔。つい、タバコに火をつける。
「そ、そりゃ、あたしだって年下の彼にそこまでやってもらうの気が引けるとこもあるけど。でも、それが幸せって彼言ってくれるんだもん。洗濯も料理も趣味なんだって。風邪を引いたら、生姜湯も作ってくれるし、栄養ドリンクを買いに走ってくれる。冬にはパネルヒーターと加湿器を用意してくれたし、花粉症かな?って言ったら、空気清浄機をすぐにネットで注文してくれたし」
「だから?」
「いいじゃない。ちょっとは言わせてよ。あたし、冬空の下、凍死しかけたなあ。着替えもなかったし、下着とかも。さすがに何枚かは買ったけど、ユニクロとかドンキですらない、どうしてこんなネーミングにしたんだって不思議でしようがないようなお店の、やす~いヤツね。で、一週間くらい同じ服着て過ごしたり。マンガ喫茶でシャワー浴びてたし、知ってた?今のマンガ喫茶ってすごいサービスいいんだよ~。ソフトクリームも無料で食べられたり、ネイルコーナーあったり、ってそんなことはどうでもいいんだけど、バイト先のお店のソファーで寝かせてもらったこともあるし。師走の街中を歩いているとき、マッチ売りの少女みたいに温かい食卓やベッドを夢見たっていうか、ホント真面目に幻覚見えたなあ。神様に願ったよ。一日でいいから、温かいお布団で横になって、何の心配もなくぐっすり眠りたいって。てか、あんた、髪伸ばしすぎじゃない?なんかホストっていうか、がたいのいい、強面でちょび髭生やしてるのとか、肩や腕に入れ墨の入ったいかついのがわらわらいるむさ苦しいダンスグループのメンバーみたいな感じ?それ、そういうの、今の若いコたちにモテるワケ?あたしからすると、いかにも女の子性欲処理の対象とか道具にしか見てなさそうで、警戒されて逆に引っかからなくなると思うのだけど。さすがに少しは慎むようになった?」
「うるさいな。お前、そんなこと、ズケズケ言うようなヤツだったっけ?」
確かに、付き合ってる間は、嫌われるのが怖かったし、逆に切れられたり、自分が至らないところを指摘されたりするのを恐れて、相手にこうしたらだの、それは良くないんじゃないだの、思ってても言えないことがいっぱいあった。好きな人間に対して、あたしはいつも卑屈で弱気だった。
そんな自分が、かわいいとさえ思ってしまう。目の前のこんな男に、そこまでの価値なんてあっただろうか。思わず、ふふ、と笑いそうになったあたしに、彼が怪訝そうな視線を送る。慌てて、飲み物を口に運び、すました顔を作る。つい、タバコが進む。
なんだか、居心地が悪かった。惚れてるからって下手に出たり、言いたいことも我慢したり、媚びたりしなくていい男とするお茶はある意味楽だけど、ある一方ではとてつもないくらい変な類の緊張を強いられる。神経が浸食されて、休まらない。かつての恋人は、もはや生物の分類が爬虫類と鳥類にかけ離れているくらい違う次元の存在なのだ。
視線を落とすと、彼がまとめてきたという荷物は、旅行カバンにぎゅうぎゅうに詰められて、ひどくずさんな状態だった。履き込んだスニーカーの中にお気に入りだった白いレースの下着が詰められている。
ああもう、嫌がらせ?さらにげんなり。
「まあ元気そうで安心したよ。やっぱり別れてもお前のことは気にかかっちゃってさ」
「よく言うよね。本気であたしのこと心配したり、身を案じたりしたことないくせに」
そうだ。じゃなかったら、さすがにあの真冬に家を追い出すようなマネできるだろうか。鬼畜過ぎる。まったく。まったく。
おセバは、あたしが家の目の前のコンビニに行くのにもソワソワ落ち着きをなくすくらいで、多少どころか大いに心配性過ぎるところもあるけれど、夜、例えばティッシュが切れたとか、急にアイスが食べたくなったのに冷蔵庫にないとか、足りない物があってコンビニに行くにも、決してあたしを使おうとはしない。マンションの隣のコンビニなのに、何かあってからでは遅いからと、よいしょ、と言いながらもすぐに動いてくれる。本当に本当にあたしを愛してくれているのだ。
おセバ・・・。
何か急に目の奥が痛くなって、ぐうっと身体の底のほうから熱いものが込み上げてくる感覚に襲われ、この場にいること自体がどうしようもなく申し訳なくなって、帰らなきゃ、ともういてもたってもいられないほど思ってしまった。
「じゃ、あたし、行くね」
「家の側まで送ってくよ」
「いい、いい。何、怖いんだけど。家覚えられてお金せびりに来られたりしたら嫌だし」
「ひでえな~。ま、お前も化けの皮が剥がれないよう、頑張れよ」
化けの皮って何よ、と呟きながらその場を立ち去った。頭の中はおセバのことでいっぱいだった。
あたし、多分おセバに出会ってなかったら今日一瞬も笑えなかったよ。ああ、おセバ。おセバ。やっぱりおセバは最高だよ。
これでもう完全に一ミリのズレもなく過去とは決別だ。惨めでどうしようもない過去も、おセバに出会うために必要不可欠な事項だったと、そう思えば、報われる。憎んでた過去を、優しく柔らかい絹のベールで包むように、愛せるんだ。
と、そんなことを思いながら駅に向かって雑踏の中を急いでいると、目の前に差し出されたティッシュを受け取らなかったら、ティッシュ配りの金髪のお兄さんにちっと舌打ちされた。うえええん。途端に、ブルーになる。
ふと騒がしい物音に反応してそちらを見ると、反対側の道路に大声で、うおお~と唸りながら、リュックを背負った、焦点の定まっていない男が走っていた。反射的に自分も走り出してしまった。大丈夫よね?ナイフとか持ってないよね?
生きるのってなかなか大変だ。少しでも動くとたちまち体中から血が噴き出すって、それは誰の言葉だっけ?
あたし、願わくば、おセバに守られて、ずっとずっと心穏やかな暮らしをしたいよ。