第86話 学園祭①
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アリスティアがスヴァイツ王国から戻って数カ月。
その間、非常に平穏な時が流れていた。
夏季休暇も終わり、後期が始まってから一ヶ月のこの日、学園祭が行われるのである。
昨年は仕事の都合で参加出来なかったアリスティアとクロノスは、初めての学園祭に興奮していた。
「クロノス様、エルンスト様、次は一年生の展示を見ませんこと?」
「アリスティア様、皇太子殿下が来られる前に移動してはいけませんよ。皇太子殿下が不機嫌になられます」
「ルーカス様が遅いんですもの。待ちくたびれましたわ」
「お願いですからおとなしくしていてください、アリスティア様。あなたは皇太子殿下の婚約者という立場を軽んじ過ぎています」
「軽んじている訳ではございませんわ。わたくしだって立場を弁えておりましてよ。でも、学園内では一学生でしかありません。ですから、楽しまなければ損だと思いますの」
「アリスティア様が他の生徒からちょっかいをかけられる事はもうほぼ有りませんけど、外部招待者は事情を知りませんから、ちょっかいをかけられる可能性があるんですよ。そうなったら皇太子殿下が静かにキレます」
「キレるって、そんな。ちょっかいをかけられるという意味がわかりませんわ」
「アリスティア様、無自覚なのは罪ですよ。最近、美少女ぶりに磨きがかかっていますからね」
「ほう。クロノス、ティアを口説くか」
「げ! 皇太子殿下! 違いますこれは口説いてるんじゃなくてアリスティア様に自覚をしていただく為に容姿を褒めていただけに過ぎません僕死にたくない!」
怯えて早口に一気に言葉を吐き出したクロノスは、ぜぇぜぇ言っていた。
「冗談だ、クロノス。そんなに怯えるな」
皇太子はくつくつと笑いつつ、クロノスを面白そうに見やった。
「皇太子殿下、お人が悪すぎます!」
「許せ。そなたがティアを口説くとは思ってもおらぬよ。そなたは分を弁えておるゆえな」
「心臓に悪いので、真面目にそんな冗談は言わないでください」
眉を下げて困った様に言うクロノス。
それに対して皇太子は肩を竦めただけだった。
「ルーカス様、遅いですわ! 一年生の展示や、屋台の食べ歩きをしたいですのに、時間がなくなりますわよ!」
「許せ、ティア。来賓の相手をエルナードたちに任せるのに手間取った」
「来賓の相手なら仕方ありませんわね。でも早く行きましょう?」
「そうだな。展示は逃げないが、屋台の食材は限りがあるからな。早く行かないとなくなるかもしれぬな」
ギョッとしたアリスティアは、ルーカスの手を引いて足早に歩き始めた。
皇太子は引かれるまま、アリスティアについていく。
とんでもない美形の皇太子は、そこかしこで注目を集めていた。
当然、アリスティアが皇太子の手を引いている事も注目を集めている。
(ふむ。ティアがこのままだと誤解されかねんな)
皇太子は小さく嘆息する。
美形に生まれたくて生まれた訳ではない。しかしその美貌が情報収集に役立つのならと、途中からは利用して来た。
それがここではアリスティアを害する要因になるのだから、やはり顔の美醜は厄介だ、と思う。
「ティア」
「なんですの、ルーカス様?」
律儀に立ち止まってルーカスを見上げるアリスティアを、皇太子はひょいと左腕で抱き上げた。
「るるるルーカス様! 抱っこはやめてくださいまし!」
途端に顔を赤らめて狼狽えるアリスティアを見て、皇太子は彼女の頭を撫でて楽しそうに笑った。
「婚約者を大事にして何が悪い?」
「ルーカス様のは大事にと言うより、甘やかしですわ! 自分で歩けますから、おろしてくださいまし!」
「私がティアを甘やかしたいのだよ。ティアはいつも頑張っているからな」
その様子を隣で見せつけられていたクロノスとエルンストが半眼になってうんざりした顔になるのは仕方ないだろう。
周囲の二年生は、いつもの事だと生ぬるい目で眺め、一年生は目を白黒させている。
「皇太子殿下。アリスティア様が恥ずかしがっていますよ」
アリスティアが不憫で、クロノスは助けを入れてみたのだが。
「慣れていないから恥ずかしがるのだ。慣れる様に回数を多くすれば、ティアも平気になるだろう?」
アリスティアを見つめて蕩けるような、しかしよく見ると愉しそうな笑顔を浮かべているのを見るにつけ。
(アリスティア様、頑張って慣れてください)
アリスティアには悪いが、何となく皇太子の考えている事が透けて見えて、クロノスは内心で掌を返した。
☆☆☆☆
皇太子の姿を見る事などほぼ無い一年生は、今見たその皇太子の姿に唖然としていた。
氷の様に醒めた金色の瞳、艷やかな黒い長髪に、そこに混じる水色の一房の髪、顔はいつも厳しさを湛えている、と噂の美貌の皇太子が、婚約者の少女を片腕で抱き上げ、蕩けるような笑顔を婚約者に向けて、自分が彼女を甘やかしたい、と宣った。
しかも、抱き上げられるのに慣れていないなら、慣れる様に回数を多くするという。
衝撃である。
衝撃的過ぎて皇族への礼儀も忘れてしまうほど、ガン見してしまった。
「ルーカス様はいつもわたくしを子供扱いですわ」
婚約者の少女は不満げに唇を尖らす。
「ティアは私の中ではいつも淑女だよ。私を叱ってくれるのはティアしかおらぬ。皇王陛下ですら私を叱らないのに」
「ルーカス様がいつも叱られる様な事をなさるからですわ。皇太子として手本となる様な振る舞いをなさらないから」
「ティアと一緒にいると、甘えたくなるのかもしれないな」
「いい大人がわたくしのような少女に甘えるなど」
「婚約者にくらい甘えてもいいだろう?」
だんだん聞くのが辛くなってきた、その場に居合わせた一年生である。
はっきり言って甘い。ダダ甘い。
砂糖を吐き出しそうなくらい、甘いのだ。
「いつもルーカス様に甘えさせて貰ってますから、たまにはルーカス様が甘えたくなるのかもしれませんわね。いいですわ。わたくし、頑張ってルーカス様に甘えてもらえる様になりますわね?」
「ティアは優しいな」
そう言った皇太子は、婚約者の蟀谷に軽くキスをした。
途端に真っ赤になる婚約者を見て、また皇太子が顔を蕩けさせている。
(皇太子殿下は、婚約者をどれだけ溺愛されてるのだろう。胸焼けがする)
一年生は皇太子と婚約者を見てそう考えていた。
☆☆☆☆
外部招待者であるロスマン子爵は、今見た光景に慄いて後ずさりした。
──あれは何だ。
──皇太子殿下はあんな人物だったか?
──凍える皇子と噂されていた皇太子殿下と同一人物なのか⁉
婚約者の少女を抱き上げ、自分が甘やかしたいのだと言い。更に、恥ずかしがるのは抱き上げられる事に慣れていないから、慣れるまで回数を増やせば良い、と言い。
顔が、蕩けている。
凍えるどころか、デロデロに溶けているではないか、とロスマン子爵は慄く。
婚約者の方が、恥ずかしがって逃れようとしている様に感じる。
──しかも、婚約者の少女に甘えているだと⁉
──あの、凍える皇子が⁉
──何だ、あの顔は。何だ、あの目は。
──蟀谷にキスした⁉ 衆目の中で⁉
──あの皇太子殿下が⁉
ロスマン子爵は混乱していた。
そこに、娘から声がかかる。
「お父様。お待たせいたしました」
「あ、ああ。レオノーラ、あれは何だ」
動揺している父の視線の先を辿った娘が、皇太子と婚約者の少女を見て軽く目を瞠った。
「……皇太子殿下と、ご婚約者様のアリスティア様ですわね」
「皇太子殿下はいつもああなのか?」
「私は一年生なのでわかりませんが、二年生の方から聞いた噂では、皇太子殿下はアリスティア様をそれはそれは溺愛なさっているそうですわ」
「溺愛……」
「ええ。毎回、アリスティア様が出席なさっている日は、放課後になると必ず迎えに来るとか、騎士コースでは皇太子殿下が付きっきりでお教えしているとか」
「待て。騎士コースとはなんだ?」
「アリスティア様は、官僚コースも普通コースも教育コースも魔術コースも選ばず、剣術を習いたいからと騎士コースを選択されたそうですわ。その際の皇太子殿下の出した条件が、エルンスト第二皇子殿下と、皇太子補佐官であるクロノス様が騎士コースを選択して、アリスティア様の護衛をする事だそうです」
「第二皇子殿下まで護衛役にするのか⁉」
「それと、同じ騎士コースを選択している、私と同じクラスの男子生徒によると、教官も竜人の国からアリスティア様の為に連れて来た、近衛竜師団の師団長だそうですわ」
「……皇太子殿下が竜王の転生体だと言う発表が三年前にあったが、まさかそれが本当だとは」
「騎士コースの教官は、アリスティア様を守れる騎士を育てる、と仰ったそうですわ。そのせいで、とても厳しい鍛錬になっているとか」
ロスマン子爵は、娘の言っている事が理解出来なかった。
溺愛する皇太子像が思い浮かばない。
「騎士コースの方が仰るには、コースの授業中でも溺愛ぶりが顕著で、皇太子殿下は、休憩の時にアリスティア様の汗を丁寧に拭いてあげたり、休憩が終わると抱き上げて鍛錬場所まで連れて行くそうですわ……聞いてて、砂糖を吐きそうだと思いましたわ……」
娘は遠い目をしていた。
そこへ声を掛けてきた人物がいた。
娘が二年生にいるコルベール伯爵であった。
「ロスマン子爵、久しいな。息災にしておったか?」
「これはこれは、コルベール伯爵。ええ、私は変わりなく。伯爵はいかがですか?」
「私も変わりないよ。ところで、何をされておられた?」
「ええ。皇太子殿下の事を……ちょっと……」
「ああ、もしかして皇太子殿下のバークランド公爵令嬢への溺愛ぶりを娘御から聞かされておりましたかな?」
得心がいった、というように苦笑しつつ話すコルベール伯爵に、ロスマン子爵は戸惑いつつ頷いた。
「詳しい事は、同じクラスにいるうちの娘に聞いた方がいいでしょう。もうすぐ来ると思うので、少し待ってて貰えますかな?」
「それは構いませんが……」
「お父様。お言葉に甘えましょう?」
レオノーラは父親に甘えるようにねだった。
ロスマン子爵は娘には弱い。レオノーラが皇太子に横恋慕しているのは知っていたが、それを止める事もして来なかった。
だから今回の事は皇太子の話が聞ける好機と捉え、積極的に聞きたいのだろう。
たとえ皇太子が婚約者を溺愛してても、皇太子はとんでもない美青年で、少女が憧れるのも無理はない、と思っている。だから窘めなかった。
ロスマン子爵とコルベール伯爵が、他愛のない世間話をしていると、コルベール伯爵の娘がやって来た。
「お父様、お待たせしました。ロスマン子爵、お久しぶりですわ。ご機嫌よう」
「ロジーナ嬢、久しぶりですな。こちらは我が娘のレオノーラで、今一年生です」
「ロジーナ様、お初にお目にかかります。レオノーラ・エルマ・セラ・ロスマンでございます」
「レオノーラ様、お初にお目にかかりますわ。ロジーナ・フリーダ・セラ・コルベールです。二年生ですわ」
「ロジーナ。お二人とも、皇太子殿下のお話を聞きたいそうだよ。話してあげてくれるかね?」
「わかりましたわ。でも長くなりますから、学園内のカフェに行きませんこと?」
ロジーナが促すと、三人ともそれに否やはなかった。
中庭からカフェに移動し、テーブルにつく。カフェの給仕が注文を取りに来たので紅茶を頼んだ。
「さて、皇太子殿下ですが。最初から飛ばしてましたわ」
「最初から飛ばして?」
「ええ、ロスマン閣下。入学式でアリスティア様が首席として代表の挨拶をされたのですけれど、彼女が挨拶を終えると、肩を抱かれて婚約者であると明かされました。そして、彼女は皇太子補佐官であり、この教育制度の発案者でもある、と。彼女を侮る事は、皇太子を侮る事と同義である、とも仰られましたわ」
一年半前を思い出しているのか、ロジーナは中空を遠い目で見ている。
「その後、平民クラスが講堂からクラスに戻っている間に、壇上でアリスティア様と何事か話していた皇太子殿下は、彼女の蟀谷にキスをして、婚約者にキスをするのはおかしくないだろう、と仰られたのです。皆さん、あまりの事に歓喜の悲鳴が漏れましたわ。抑えていましたけど」
くすくすと笑うロジーナは、本当に楽しそうだった。
「入学式のあとのホームルームが終わったあと、皇太子殿下がオーサの海岸に学年全体を転移させ、アリスティア様の魔術ショーを見ろと仰られましたの。
その魔術ショーは凄くて。アリスティア様が、戦略的魔術師と呼ばれる理由が良くわかりましたわ」
またもくすくすと笑うロジーナ。
しかし、その顔はすぐに顰められる。
「戦略的広範囲隕石落としと戦略級超広範囲隕石雨を三発ずつ撃ったアリスティア様に、『あなたは魔王だ!』と宣言したバカがおりましたの。
アリスティア様はきょとんとされておりましたけど、皇太子殿下は酷く不愉快そうな顔をしてそのバカを見ておりましたわ」
「ロジーナ、言葉を慎みなさい」
「慎む必要などございませんわ、お父様。だって、そのバカは不敬罪と国家転覆罪で処刑されましたし、そのバカ娘の家は、爵位剥奪されましたもの」
「バカ娘?」
「ええ、ロスマン閣下。男爵の娘ですのに、自分は将来の皇太子妃になるのだ、と、その自分にそんな態度を取っていいのか、とアリスティア様を非難しましたのよ。ありえませんわ。皇族の婚姻相手は高位貴族からと決まっておりますもの。
国家転覆罪は、皇太子殿下を魅了眼で操ろうとしたかららしいですわ。
その娘、普段から将来は皇太子妃になるのだと言っていたのに、親はそれを窘めず放置していたらしいんですの」
ロジーナの言葉に、ロスマン子爵の顔色が悪くなる。
「それと、魅了眼を使われた皇太子殿下は、アリスティア様に名前を呼ばれた事で正気を取り戻したようですわ。どこからか転移で呼ばれた皇太子殿下の専属護衛二人に、その娘は魅了眼を使うから注意しろ、と叫ばれておりましたわ。
その後皇太子殿下は、人間離れした跳躍力でアリスティア様の元に行き、何事か話しておられたのですが、いきなりアリスティア様を抱き上げ、魔術ショーは終わりだ、と仰せられました。その後アリスティア様が伏せられたのだとのお噂を聞きましたの。その間にそのバカ娘の事を調べたらしく、男爵令嬢は退学処分、男爵家はお取り潰しになりましたわ」
ほうっ、と右手を頬に当てながらため息をひとつついたロジーナは、それに、と言葉を続けた。
「数年前に、ローザンヌ公爵家のお茶会にアリスティア様が年齢差があるにも関わらずに呼ばれたそうですの。
アリスティア様の事を心配なされた皇太子殿下はお茶会に飛び入りで参加されたそうですのよ。
その際、ローザンヌ公爵家の長女のナタリア様が、公爵夫人からの紹介も無しに皇太子殿下にお声がけされてしまい、それで殿下のご不興を買ったそうですわ。
皇太子殿下はお怒りになり、公爵夫人に対して、娘に分不相応な夢を見させるな、皇太子妃は若い令嬢の手本となるべき存在、お茶会に歳の離れたアリスティア様を呼びつけて晒し者にし甚振るような輩は皇太子妃にはしない、と吐き捨てられたとか。
そのナタリア様の妹が高位貴族クラスにおりまして、アデリア様と仰るのですが、アデリア様の呼びかけでアリスティア様の親衛隊を高位貴族クラスで編成する事になりましたの。
ところがアリスティア様はそれを嫌がりまして。
アリスティア様がお断りされているのに、アデリア様は、自分たちの細やかな喜びの為にも親衛隊の存在を許して欲しい、と強請ったのですわ」
ロジーナはそこで紅茶を一口飲み、乾きかけた口を湿らせる。
「それがアリスティア様のカンに触ったらしく、それまでは柔らかく断られていたのに、いきなりキツい言い方で断る旨を言われましたのよ。
自分は戦略的魔術師で、戦場の勝敗を一人で左右できる存在だ、軍団が束になって向かって来ても自分一人がいれば事足りる、実際、以前ハルクト軍三個師団を壊滅に追い込んだのだ、と冷たく言われましたわ」
「は⁉ ハルクト軍三個師団を壊滅に⁉ ではあの噂は本物だったと⁉」
「ロスマン閣下、わたくし、それがどんな噂かは存じ上げませんが?」
「六年前、ハルクト王宮に魔物が突然現れ、王族と高位貴族が壊滅した事件があったのですが、それに関わったのが皇太子殿下とアリスティア様だったというものです。
なんでも、スタンピードを我が国で起こすために魔物を召喚し、その隙をついて侵略する為に国境沿いにハルクト軍三個師団が待機していたのだとか。
それが突然、全員が麻痺と幻覚に襲われ、壊滅的打撃を受けて、後方に下がらざるを得なくなったというものです」
「ではアリスティア様がお話しされたのは、その事でしょうね。
お話を元に戻しますわ。
三個師団を壊滅に追い込んだ、とアリスティア様が話された直後、皇太子殿下がその場に転移なされました。
不穏な気配を感じた、自分はアリスティア様を戦場に送るつもりはない、と労い、彼女の肩を抱き、髪の毛にキスをされましたの。
その後、アデリア様を見据え、ローザンヌ公爵家はまたアリスティア様に何かする気か、と問い質したのです。
アデリア様は、アリスティア様を害する気はない、分不相応な願いも持ち合わせていないと仰られましたの。
しかし皇太子殿下の怒りはそれでは収まらず、それならなぜアリスティア様がこれ程までに苛立っているのか、先程からアリスティア様は親衛隊は要らないと断っているのに臆面もなく許せと強請るのはどういう事だと。
そう仰られながら、教室中を睨み回しましたわ。
あの時ほどわたくし、皇太子殿下を怖いと思った事はございません。
その後のやり取りでも、アリスティア様には親衛隊など不要、わたくしたち程度の実力ではアリスティア様の足を引っ張るだけだ、何の役にも立たないとハッキリと宣告されましたわ。
あの時、アリスティア様は皇太子殿下の逆鱗だと、その逆鱗に触れてしまったのだと痛感いたしましたわ」
また紅茶を飲む。すっかり冷めてしまっているが、喉を潤すためなら丁度いいくらいである。
「ロスマン閣下、対処を間違えると皇太子殿下の怒りを買いますわ。皇太子殿下はアリスティア様を、真実、愛していらっしゃいますから」
カフェの中は喧騒が渦巻いているが、この場だけは酷く静寂に満ちていた。
ロスマン子爵の顔色は悪い。
娘のレオノーラの顔色はそれ以上に悪い。
こんな砂糖を吐きそうな話で顔色が悪くなるのだから、お察しだ、とロジーナは醒めた目で二人を眺めた。
「アリスティア様に纏わるお話はまだありますのよ?
第二皇子殿下が、アリスティア様に横恋慕致しまして、それを目敏く察せられた皇太子殿下は、アリスティア様の凄さを第二皇子殿下に滔々と語られ、いい加減、皇王陛下の手伝いで政務をしろと説教をされましたわ。
その後、鍛え直すと仰られ、第二皇子殿下も放課後の執務に加えられたようですわ。
その甲斐あってか、第二皇子殿下は見違えるほどにご成長なされまして、ご勉学の方も扱かれたのか、学年順位が当初は公表の中にも無かったのに三位まで上がられましたの。そして、今では首席のアリスティア様に、次席のクロノス様、三位の第二皇子殿下が、揃って最低限の出席を許可されて、学園に来るのは数日に一度になりましたわ」
ふふ、と笑いが漏れる。
「アリスティア様が学園に来ない時は皇太子殿下もいらっしゃいませんし、アリスティア様が学園に来られた日は、皇太子殿下は全力で溜まった学園の仕事を片付け、放課後になった途端にアリスティア様を教室まで迎えに来るのですわ。
そして片腕で抱き上げ、愛しそうに会話され、クロノス補佐官と第二皇子殿下を伴って執務室に転移されるのです。
アリスティア様は、皇太子殿下のそんな行動にいつも戸惑っておられて、そんな様子が大変可愛らしくて。
教室中が微笑ましく見守っていますのよ。たとえ砂糖を吐きそうな雰囲気でも、アリスティア様を見守るのは二年生の高位貴族クラスの務めとなっておりますの」
にこにこと微笑みながら、レオノーラを見ると、顔を俯けていた。これでもうこの娘は大それた願いを捨てるだろう、とロジーナは思う。
ファンクラブもきっとアリスティアは要らないと断るだろう。でも陰ながら見守るならば、知られないならば許されるはずだ。
ひっそりと口の端に笑みを乗せ、ロジーナは冷めきった紅茶を飲み干した。
☆☆☆☆
「慣れませんわ! こんな、人前での抱っこに慣れたくありません!」
アリスティアは叫ぶ。それが衆目を集める行為だとは、羞恥でいっぱいいっぱいの頭には思い浮かばず、必死で言い募る。
「人前での抱っこに慣れてしまったら、淑女としてどうかと思いますのよ! ですからルーカス様、今すぐおろしてくださいまし!」
しかし、ルーカスの肩をバンバン叩いて懇願する彼女の抵抗は紙にも等しく。
「ティアをおろすのはお断りだ。私がティアを甘やかしたいのだと言ったであろう? ティアは、私の大事な婚約者で、半身なのだから」
皇太子は、そう言ってアリスティアの抵抗を封じた。
皇太子は、周囲の視線の意味を正確に把握していた。だから、外部招待者が、アリスティアに向ける不穏な視線と、一年生の女生徒が自分に向ける視線を、まとめて封殺する為に、わざとアリスティアを抱き上げ、甘い言葉を並べ、溺愛している様を周囲に見せつけた。
演技が演技になっていないのは、この際放置で良いだろう。
アリスティアの防波堤になるなら、自分の評判などどうでもいい。
アリスティアは半身なのだから、自分が守るのは当然だ。
それに、学園で公然と抱き上げられる事に慣れて貰わないと、このあとアリスティアは困るだろう。
なぜなら、自分はおそらく、封印を解いたらアリスティアを抱き締めて離さないだろうから。
慣れて貰う為にも、少しずつ抱き上げる回数を増やそう。
ひっそりと、皇太子は決意した。
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