第75話 公爵令嬢、怒る
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新学期が始まって一ヶ月が過ぎた。
アリスティアは、騎士コースでの基礎鍛錬の他に、離宮の庭園内で緩やかな走り込みを行い、着実に体力をつけていた。柔軟体操もしようかと思っていたのだが、皇太子に軽い筋力トレーニングをした方がいい、と言われ、頭を悩ませた結果、腹筋をできる範囲内でやる事にした。
そして一ヶ月経った結果、体力は増え、腹筋がうっすらとついてきた。まだ目立つ程ではないが。
「ティアは今日から基礎鍛錬に腕立て伏せとスクワットを加え、それが終わった後は型稽古をしよう」
そう言って皇太子は、授業開始後から始める基礎鍛錬が終わったあと、剣術の型を教えてくれた。
アリスティアは女の子だから大剣や長剣は無理だろう、という事で片手剣を使う事になっていた。その片手剣の型を教えて貰った。
それを、体に覚え込ませる為に繰り返す。
体幹がブレないように、毎日繰り返す必要がある。
今のアリスティアではまだまだフラついており、綺麗な型を取れない。令嬢だから当然なのだが、アリスティアはそれで納得出来なかった。なので、エルゼ宮の庭園での稽古が増える事になったのだが、それは後の話。
アリスティアは、教えて貰った型を只管振っていた。
汗が浮き出て流れ落ちる。それを拭き取りもせず愚直に素振りを繰り返す。
汗をかく程だから、息も上がっている。それでもやめずに繰り返すアリスティアを、皇太子はその金色の目を優しく緩めながらじっと見ていた。
そして、その様子を少し離れた位置からアロイスが、また生徒たちがこっそり見ていた。
この一ヶ月で見慣れた光景。
今更驚く事はなかったが、砂糖を吐きそうな甘ったるい光景ではあるな、という気持ちにはなっている。
「ティア。そろそろ休憩を入れろ。それ以上続けても筋肉を痛めるだけだ。休憩を入れて体を休める事も必要だ」
「わかりましたわ。ではちょっとお水をの」
「ここにある。ほら、ティアの好きなハーブ水だぞ」
飲んできます、と言いかけたのを遮られてハーブ水が満たされたグラスを差し出される。
「ありがとう存じます、ルーカス様」
受け取ってハーブ水を飲むと、爽やかな味がするハーブ水はよく冷えていた。多分、水差しに氷が入っているのだろう。
「汗を拭かないと風邪を引く」
皇太子はそう言うとタオルでアリスティアの顔や首筋の汗を丁寧に拭いてくれた。拭き終わったタオルを肩にかけた皇太子は、ベンチに座ってアリスティアをごく自然に膝抱きした。
一瞬、何をされたかわからなかったアリスティアだったが、理解した瞬間に顔が赤らんだ。
「るるる、ルーカス様! みみみ皆さんの前ですわ! 皇太子殿下として、皆様のお手本になる様な行動をなさいませ!」
アリスティアが羞恥でいたたまれず注意しても、
「だからこそ、婚約者を大事にしている姿を見せているのだが?」
と柔らかい笑顔で言われると、それ以上は何も言えなくなる。
あまりの恥ずかしさに、アリスティアは皇太子の胸に顔を押し付けて隠そうとした。
皇太子はくつくつと笑い、アリスティアの頭を軽く抑えた。
目撃していた生徒たちはと言うと、「またか」という顔をした。いつもの光景になりつつあった。それだけ、皇太子のアリスティアへの溺愛は周知され始めていた。
しかし、またかと思ってもその場の全員が、砂糖を吐きそうな気分になっていた。
アロイスだけは微笑ましいものを見守る目であったが。
暫く放置しておいてから、アロイスは時間を見計らって皇太子達に近づいた。
「皇太子殿下。そろそろ鍛錬再開のお時間です」
「む。もうそんなに時間が経過したか。ティア、休憩は終わりだ。鍛錬を続けよう」
そう言いつつ、皇太子はアリスティアを抱き上げ、鍛錬場所に連れて行こうとした。
「ルーカス様! 一人で歩けますわ!」
アリスティアは抵抗した。しかし、彼女がいくら抵抗しても、本気で嫌がっていない事はお見通しのルーカスはアリスティアを離さない。
すぐにいつも使っている位置に下ろされた。
「ルーカス様! 抱っこで運ばれたらせっかく鍛錬しているのに意味がなくなりますわ!」
「鍛錬しているからこそ、遠慮なく抱っこできるのだが?」
「今までルーカス様が遠慮していた事などありませんでしょう⁉ いつもいつもわたくしが嫌がっても抱っこしていたくせに!」
「だがティアが本気で嫌がっているならやらないぞ? 本気で嫌がってないから抱っこしていたのだが?」
「〜〜〜!!」
アリスティアが真っ赤になって悶えているのを楽しそうに見ている皇太子は、実は意地悪なのかもしれない。
その様子を見聞きしていた他の生徒たちは──エルンストは、兄はそんなに毎回アリスティアを抱っこしてたのか、と戦慄した。どれだけ溺愛しているのか。何もかも敵わない、と密かに落ち込む。
「まあそれよりも鍛錬だ」
「この状況で鍛錬にすぐ取り掛かれる鋼の心臓は持ち合わせて居ませんわ‼ ルーカス様のイジワル‼」
ついにアリスティアが涙目になって拗ねた。
でも逃げ出すと思ったらその場に座り込んで顔を両手で覆って震えているだけという辺り、授業を逃げ出すのはダメだという気持ちが働いているのかもしれない。真面目だ、とエルンストは思う。
と、鍛錬しながら横目で見ていたら、兄がまた自然体でアリスティアを抱き上げているではないか!
「ティア。すまぬ。困らせるつもりはなかったのだが」
片手抱きにして──兄はどれだけ力があるのか──背中をぽんぽんとあやすように軽く叩きつつ。
「アロイス」
と教官に呼び掛けた。
「は。なんでしょうか、陛下」
アロイスの言葉にエルンストは混乱した。
陛下って、兄はまだ皇王位に就いてはいないのに?と混乱する頭で考える。
「アロイス、我はまだ国に戻ってはおらぬ。まだフォルスター皇国の皇太子だ」
皇太子は眉を顰めてそう言った。
「御意。ですが我ら竜人にとっては御身は竜王であらせられます」
アロイスのこの言葉でエルンストは理解できた。竜王か。それならわかる。
と、納得しかけて。
まだフォルスター皇国の皇太子だ、という兄の言葉が妙に気になった。
「我は、まだフォルスター皇国の皇太子だ、と言った。まだ我の言葉を否定するか⁉」
皇太子は覇気を溢れさせる。
いきなり雰囲気が変わった。
人から超常のモノへと。
「いえ、申し訳ございませぬ。私の心得違いでした」
アロイスが跪く。
いや、誰もが跪かずには居られない、絶対王者である、と告げる空気は生徒たちにも読みやすく、全員が跪いていた。
「ルーカス様!!」
バチン。
そんな音が鳴り響き。
「ティア、痛いのだが」
絶対王者である筈の、そんな存在から漏れた声は困惑が滲んでいて。
その頬はアリスティアの両手が添えられて──多分、アリスティアが両手で叩いたのだろう。
「ルーカス様! 今は授業中ですのよ! 覇気だだ漏れで生徒たちを威嚇するのはおやめなさいませ! まだフォルスター皇国の皇太子だと仰られるのであれば、なぜ覇気で竜王だと知らしめようとなさいますの⁉ 馬鹿ですか馬鹿なんですのね⁉ その覇気は仕舞ってくださいませ!」
と婚約者の幼女から叱られ──だいぶ口が悪いが──覇気を綺麗に収めて雰囲気を超常の存在から人間へと戻した。
「すまぬ、ティア。だが両手で叩くのは」
「馬鹿にはこのくらいがちょうどいいのです! 大体、イーゼンブルク教官はフォルスター皇国の民ではありませんわ。竜人の国の民であり、近衛師団長という立場であれば竜王の護衛と首都の防衛が任務でしょう⁉ であれば、ルーカス様はイーゼンブルク師団長の護衛対象で、敬うべき竜王という意識を変える事などできませんわよ!」
皇太子、つまり先程の竜王相手にぷんぷんと怒るアリスティアの姿は、素直に尊敬に値した。アリスティアは全然怖がっていないとか、竜王がシュンとしているとか、目にしたものが驚愕する事実ではあるが。
「フォルスター皇国の皇太子であるなら、民に殺気を向けるのはおやめなさいませ、といつぞや申しましたわよね⁉ 覇気だって同じですわ! 殺気などは、自国の民ではなく、敵に向けるもの、と申し上げたではありませんか! 忘れましたの、六年前の事を!」
黙って聞いていたエルンストは、そこではて? と疑問に思った。六年前と言うと、アリスティアはまだ五歳の筈だ。
「覚えておるよ。フェザー辺境伯領、ユーフェニア砦で言われたな」
「兵士に殺気を向けるのと、ここで民に尋常ではない覇気を向けるのは同じですわよ⁉ 自国の兵士は大事になさいませ、と申し上げたはずですわよね⁉ 兵士は民ですわよ⁉ この頭には何が詰まっておりますの⁉」
あろうことかアリスティアは、皇太子の頭をポカポカ叩き始めた。流石にギョッとしたのか、クロノスが口を出した。
「アリスティア様、皇太子殿下の」
「クロノス様は黙っててくださいませ!」
途中で遮られてピシャリと撥ね付けられたが。
「アリスティア様、とことんキレてますね」
クロノスがボソッと呟くのが聞こえた。
「あの様にキレるのは度々あるのか?」
こちらも小声で尋ねる。
「そうそうないのですが、多分、人前で抱っこされた羞恥心と、民を蔑ろにしていると思っての怒りが合わさってキレたのでは、と思いますよ」
小声で返された内容に納得する。
「ティア、私が悪かった。不必要に覇気を出さない様にするから、とりあえず頭を叩くのはやめてくれ」
「頭を叩くくらいで済ませてるのですから、感謝して欲しいですわ! 本当なら位相結界に閉じ込めた上で火炎獄と氷結獄の交互攻撃をお見舞いしたいくらいですもの!」
「さすがの私でも温度差で参るからやめてくれ」
「水蒸気爆発でも起きればいいですのに!」
かなりアリスティアはキレているらしい。
「アリスティア様。私の為にそこまでなさらずともよろしいのですよ。皇太子殿下の機嫌を損ねてしまったのは私の落ち度」
「アロイス様も黙ってて!」
またもやピシャリと撥ね付ける。
これは相当機嫌が悪い、とその場の誰もが思うほどにアリスティアは取り付く島もなかった。
「ルーカス様。いつも思いますけど、ルーカス様は人間の常識を蹴飛ばしすぎですわ! まだ人間の世界で暮らすのなら、もう少し人間の常識の範囲内で行動なされませ!」
それをアリスティアが言うのか、とエルンストは思う。人間の常識を蹴飛ばしているのはアリスティアも同じだと思うのだ。
こんこんと説教を続けるアリスティアに業を煮やしたのか、皇太子がアロイスに、
「成層圏に行ってくる」
と告げて、アリスティアを抱えたまま飛び上がり──そのまま上空へと消えて行った。
「仕方ありませんね。マティアス、イザーク。竜王陛下と半身様を遠くから守り参らせよ」
アロイスがそう命令したのは、皇太子の専属護衛で、鍛錬場の隅に控えていた青年たちだった。
「「応」」
短く答えた二人はすぐに飛び上がり竜の姿へと転じ、そのまま皇太子を追うように上空へと消えて行った。
生徒たちが驚愕しているのがわかる。
エルンストだって驚愕していた。
「二人とも、竜人ですからね。空での警護は竜人以外できませんからね」
隣からクロノスののんびりした声がした。
「お前は知っていたのか?」
「三年前に決まった事でしたので」
「そんな前に決まっていたのか⁉」
「声量を抑えてください。ルーカス様が竜王の転生体だと公式発表される直前に決まりました」
「なんと……」
「竜王陛下を護衛無しで放置しては置けないと、竜王代理のカイル様、甥御様が仰ったのです。それで竜人の近衛兵から専属護衛をつける事が決まったのです」
知らなかった情報がもたらされる。
だが、新たな情報を教えられた興奮よりも、今まで教えてくれなかった事に対する悔しさが湧き出る。悔しがっても仕方ないのはわかっている。学園に入学するまでは兄とは殆ど話した事はなかったのだから。
それでも悔しさは変わらない。
兄から信頼されるようにならなければ、この先も、遅れて新たな情報を教えられる事になるだろう。そうならない様に、勉強も政務も頑張らねば、とエルンストはひっそりと決意を固めた。
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