1.桃が生んだ少年
その青年はどうしたらいいかわからず、ただ呆然と立っていた。目の前に現れた鬼。青年は自分がこのまま死ぬしかないことを知っていた。
山道に鬼が出るという噂は聞いていた。だから山道を歩くときは五人以上で行け、とも言われていた。だが、まさか鬼が本当に現れるなどと夢にも思わなかったのだ。
全身の震えが止まらない。どうせいつもみたいにバカな老人が騒いでいるだけだと思って話をまともに聞かなかった自分を呪った。
だが、なにを後悔しようと、もう遅い。
両腕を広げて掴みかかってきた鬼に、青年は目をぎゅっとつぶった。
それからは何も感じなかった。青年は、自分が一瞬のうちに死んだのだ、と悟った。
だが、突然地響きが起こり、青年は目を見開く。
死後の世界というのは騒がしいものなのか、と思ったが、青年の目に映った風景は天国や地獄などではなく、先ほどの山道だった。
そして――そこには倒れ伏す鬼と、青年の前に立つ一人の少年の姿があった。
「よう、お兄さん。怪我はないかい?」
少年が微笑む。青年には目の前で何が起こっているか、理解ができなかった。
「グ、グオォ……」
地に手をつき、唸りながら鬼が立ち上がる。
「お兄さん、下がってて」
青年は呆然としながらも、少年に言われるがまま、少年の後ろに隠れた。
「よう、鬼さん。まだやるかい」
少年の問いかけに、鬼は返事をする代わりに拳を振りあげる。
「元気のいい鬼さんだな」
少年は次々と繰り出される拳をひょいひょいとかわしながら軽口を叩いていたが、
「む」
次の一撃は避けきれないと判断し、少年は足を止めた。そして、鬼へと右手を突き出す。信じられないことに、少年は鬼の拳を受け止めようというのだ。
無謀にもほどがある、と青年は思った。少年と鬼は圧倒的な体格差がある。鬼の放った右拳を、まさか、こんな少年が受け止められるはずはない――青年は、少年の体が悲惨にも叩き潰されるのを想像し、思わず目をぎゅっと閉じた。
鬼も勝利を確信し、笑みを浮かべていた。
だが少年はそんな彼らの予想を裏切り、片手で、軽々とその拳を受け止める。衝撃で辺りの木々が震え上がり、それと同時、鬼の目が見開かれた。
「いいね、力比べといこうか? それとも――手押し相撲か?」
少年は口許に笑みを浮かべ、急に力を抜いた。突然均衡が崩れたことにより、鬼は体勢を崩す。
「!?」
その瞬間、少年は自分の三倍はゆうにある鬼の巨体に左手を添え、投げ飛ばしていた。
「ゴッ……」
鬼はそのまま、泡を吹いて動かなくなった。
「相手の力量を見誤るなんて、かわいそうな鬼さんだな」
少年は肩をすくめると、
「もう大丈夫だよ、お兄さん」
振り返って青年に微笑んだ。 不思議と人を惹きつける、そんな魅力のある笑顔だ、と思った。
「君は……何者なんだ」
青年は恐る恐る問う。
「俺かい。俺は、桃から生まれた桃太郎」
そう微笑みながら、何でもないことのように言ってのけた少年に、
「桃……から……?」
思わず問い返していた。
「うん、桃からだ」
少年――桃太郎はまた微笑む。
「……」
唖然とする青年に、
「気をつけて村まで帰るんだよ、お兄さん」
そう告げると、桃太郎はすぐに山の奥へと消えていった。
桃太郎の姿が見えなくなったあと、青年は自分の頬をつねった。
痛い。夢ではないようだった。
育ての親である老夫婦と姉に「必ず帰ってくる」と告げ、見送られながら旅立って、すでに半日が過ぎていた。桃太郎は揚々と山道を進む。
「そろそろ見えてくるかなぁ」
日は高くなり、額に汗がにじみ始めていた。
東の山を二つ越えたところに「犬」と呼ばれる、腕の立つ剣豪がいるという噂だった。桃太郎は歩いて、その「犬」に会いに行こうとしていたのだ。
「腹減ったなぁ……」
桃太郎はそうつぶやき、腰に提げた袋に手をかける。中身は老婆が作ってくれた「きび団子」だった。
一つを手に取り、口に放り込む。噛めば噛むほどに甘味が出て、それとともに体に力がみなぎってくるのを感じた。なんでも「竜宮秘伝の調理法」とやらを使っているらしいが、桃太郎にはそれが何なのか、よくわからなかった。
「さて、もう一踏ん張りだ」
桃太郎は歩み続ける。
遠くには、立ち並ぶ民家が見え始めていた。