2.なよ竹の中のパンドラ
一方、柴を刈るべく山へ向かっていた老爺は一本の竹の前に立ち尽くしていた。
その竹は、どう考えても異常であった。藪の中に、一本だけ光輝く竹があったのだ。老爺は柴を刈るのも忘れ、ただその美しさに見とれていた。あるいはその妖しさに魅せられていたのかもしれない。
やがて老爺はおもむろに鎌を振り上げると、その竹を叩き割り――直後、老爺は息を呑んだ。
割られた竹の断面、そこには信じられないほどに小さく、かわいらしい少女が座っていたのだ。
気づけば、老爺の手は自ずと少女のもとに伸び、その少女を掬い上げていた。刹那、これまでの経験から来る、嫌な予感が老爺の脳裏を過る。しかしこの時、老爺は、
(まさか、な……)
と、その予感を強引に塗り潰しただけだった。
そして、老婆が鬼に出くわしたのと時を同じくして山の中――老爺の抱いた予感は的中し、老爺は窮地に陥っていた。
「くっ……」
茂みに身を隠しながら相手の様子を伺う。弓矢を持って奇妙な服装をした男が、きょろきょろと辺りを見回していた。その男に見つからないよう、老爺は息を潜める。
「どうしたものか……」
老爺もこのままやり過ごせるとは思っていなかった。あくまでも時間稼ぎとして隠れたにすぎない。
(なぜ狙われておるのじゃろうか……)
思考する。男は老爺の姿を見るや否や、弓をこちらに向けて引いたのだ。何の説明もないため、老爺には状況がわからなかった。その男の顔に、老爺は見覚えもない。ただひとつ、老爺にはっきりと分かっていたのは、殺気を向けられている、ということだけだった。
老爺は弓を向けられてからすぐに逃げた。放たれた矢は虚空を抜け、木の幹に突き立ったが、男はすぐに、老爺を追ってきた。
(わしを狙ってもメリットはないはず……まさか、狙いはこの子か!?)
手のひらの上にいる少女を見つめる。少女は幼い瞳で、怯えるように老爺を見上げていた。
(ふむ……このまま音を立てずに逃げ道を探すのも手かと思ったが……それは難しそうじゃな)
老爺は少女を切り株の上に置き、近くに落ちていた木の枝を慎重に拾い上げる。物音を立てれば居場所がバレて、あっという間に終わりだ。
この木の枝はよくしなる。ここでの生活は長かったため、山のことは知り尽くしていた。
続いて、近くにあった木の蔓を引きちぎって枝に巻き付ける。
「釣竿か、懐かしい」
老爺は近くに落ちていた拳ほどの大きさの石を結びつけながら、苦笑した。それから、切り株の上で心配そうにこちらを見つめる少女に軽く笑いかけると、覚悟を決める。
相手との距離は約五メートル。老爺は木の枝を大きく振りかぶり、男の方へと、蔓の先にくくりつけた石を振り飛ばした。
その狙いは正確で、そのまま男の脳天を石が直撃する――かに見えた。
「……ッ!」
だが、石が当たるかと思われたその時。男は石に気づいたらしく、直後、紙一重で石をかわした。
「残念だったな!」
男は素早く弓に矢をつがえ、老爺に向けて弓を引く。今の攻撃で、老爺の場所は完全に把握されてしまっていた。
老爺は絶体絶命のピンチに陥った――かに思われた。だが老爺の口許には不敵な笑みが浮かんでいる。
あさっての方向へ飛んでいった石に結びつけられた蔓は男の向こうにある木の枝にひっかかった。刹那、蔓がその枝にぐるぐると巻き付く。老爺の狙い通りだった。初めから、石での攻撃が目的ではなかったのだ。
老爺は飛び上がって蔓を掴み、振り子のように男へ接近する。弓を引くのには時間が必要だ。だからこそ、弓を引き始めた瞬間は、老爺にとって隙だらけになる。
「おごぉっ!?」
男は老爺に横から顎を蹴飛ばされ、後ろの木に後頭部を打って、あっけなく気を失った。
老爺は着地し、ため息をつく――だが、その直後、一本の矢が老爺の脚を貫いた。
「ぐうっ!?」
刹那、襲い来る痛みとともに、老爺は自分の愚かさを呪った。なぜ相手が一人だと決めつけてしまったのか。結果として、相手に自分の居場所をむざむざと教えることになってしまった。
老爺はその場に屈み込む。矢に貫かれた脚では、もう動けなかった。
「残念だったねぇ、おじいさん!」
茂みの奥から現れた女は高らかに笑った。女の手には、手のひらに乗るサイズの小さな少女――先ほどの少女が乗っていた。
少女は女の掌の上で怯えるように身を震わせ、助けを求めるように老爺を見つめた。
「ハハッ、無駄だよ。歩けもしないおじいさんに何ができるもんか!」
また高らかに笑う女に、しかし老爺は、どこか不気味に思えるほどに、不敵な笑みを浮かべていた。
「ハハハ、『歩けもしない』か」
「何がおかしい?」
不審に思い、女は老爺に問う。しかし、女の顔から笑みが消えることはない。事態がどう転ぼうと、この汚ならしい身なりの老爺はなにもできやしない、女は優位に立っており、女に不利なことなど何一つないのだ。
「ハハハ、確かに今のわしに歩けはしない」
そう言いながら、老爺は笑っていた。
「気味の悪いおじいさんだ……悪いけど老い先短い生だ、恨まないでおくれよ」
女の目前に弓と矢が浮遊していた。女はなにやら不思議な力を使っているようだった。矢が弦に触れ、ひとりでに弓が引き絞られていく。そして、矢が放たれれば、老爺はそこで人生を終える、はずだった。
しかし、次の瞬間、
「奥の手は取っておくものじゃよ」
老爺がそう言った刹那、老爺の体が一瞬にして白い煙に包まれた。
「なっ……!?」
女がたじろぐと同時、白煙から突如飛び出した白い影が女の手を弾き、少女を掠め取る。
「!?」
女は目を見開いた。白い翼、すらりと伸びて尖ったくちばし――そこにあったのは、一羽の鶴の姿だった。
「あ、あんた……何者だ!?」
女が飛び退きながら問が、
「悪いが答える義理はないのでの」
鶴は答えもせず、もう一度翼を大きく翻した。少女を優しく嘴の先にくわえたまま風に乗り、高く飛び上がる。
女性はただその場に立ち尽くすしかなかった。