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――彼女が帰ってくる。
今にも反逆が起きようとしていた天界に、その情報は瞬く間に広がった。彼女が、帰ってくる。探しても探しても見つからなかった彼女が、ついに。
彼が探し出し、なんとかつれて帰ってこようとしているという。
だがやはり、彼女は無抵抗では帰ってこないらしい。
よく分かった。
よく理解できた。
私は今までの記憶が走馬灯のように駆け巡るのを感じた。
そして私は、自らの左胸に刺した長めのナイフを引き抜く。
私は、ミサイドと関わるうちに、様々な経験をした。
ミサイドと我慢比べをしたり。
ミサイドが神になったり。
私の体が一週間動かなくなったり。
創造主と呼ばれる存在と電話で話したり。
神が定めた選択肢の話をミサイドとしたり。
挙げていったらきりがないほど多くの経験をした。
それと同時に、ミサイドから多くの話を聞いた。
初代創造主が人間の罪を肩代わりした話。
天界に居た人間の話。
罪に溺れた堕天使の話。
愛を求めた悪魔の話。
これも、挙げていったらきりがないほど多くの話だ。
左胸から引き抜いたナイフから、真っ赤な自分の血が滴り落ちるのを見ながら、私はナイフで左手首を切る。
開いた傷口から漏れ出した、血という名の穢れ。
真っ赤な、穢れである何か。
それは確かに私のものであり、私のものではなかった。
私という意識のものではなかった。
私という存在のものでしかなかった。
それは確かに、私のものではあったのだけど。
ミサイドと出会ってから、ずっと感じていた何かの記憶が、戻り始めて行く。
大体、こんなこと、破片を集めて組み合わせれば簡単なものじゃないか。
まるでパズルだ。
ただのパズルだ。
ミサイドがこの場に居たら、何を思うだろうか。
ナイフを手にした私を見て、何を思うだろうか。
罪悪感か。
無力感か。
どちらにせよ、ミサイドにとって心地よい感覚ではないはずだ。
穢れを嫌う神は、穢れに住む神に殺される。
そんな感覚を、ミサイドは味わうのだろうか。
私が昔感じた、その感覚を。
そっと左手首の傷口を舐めれば、そこはまるで何事もなかったかのように元の滑らかな左手首に戻って行く。
まるで、時間を巻き戻したかのように。
冒頭の話に戻ろう。
私が何を理解したか。
それは、語るには多くの時間がかかり、人間のように人生という名の短い時間の中では語りきれないものだ。
神や天使のように、命ではなくただの存在でしかない者に与えられた、永遠という名の長く短い時間の中でも、語りきれないものだ。
其れ即ち。
世界を創り出した神の記憶。
時間を創り出した神の記憶。
存在を創り出した神の記憶。
目に映るものも映らないものも、すべて。
すべてのものを創り出した神の記憶である。
私が何故そのような膨大な記憶を理解したかというと、私がそのすべてを創り出した神であるからだ。
世界も。
天も。
地も。
時間も。
生物も。
人間も。
天使も。
悪魔も。
神でさえも。
創り出したのは、私だ。
すべてを創り出して、捨てたのも。
それも私だ。
ミサイドはこのことを知ったらどう思うだろうか。
いや、考えるまでもない。
もう今では、ミサイドという名の存在も、なくなってしまったのだから。
時間軸を振り払い、世界の存在までもを振り払った。
世界をこの手で創り出し、世界をこの手で消し去ったのだ。
そんな、馬鹿げた話を、ミサイドは聞いてくれるだろうか。
聞いてくれないだろうな。だってミサイドはああ見えてこの世界を私よりも愛しているのだから。
ミサイドは、神の代わりに生まれた人間の時間軸を守ってくれたのだから。




