第9章
順子は、隆介に「必ず、また来るからね」と言い残して病室を後にした。
隆介は、相変わらず柔和な顔で笑っていたが、その目は深い悲しみを湛えて、最後の別れを告げていた。
隆介の目は、いつも口以上に雄弁に彼の心を物語った。
順子を愛する時も、そして裏切る時も・・・。
それは、泰俊も同じだった。
「好きになった男は、私の胸に熱いマグマを残して消えていく。
そして、その桎梏の中で、私は焼き尽くされていく」・・・・
順子は、嗚咽をこらえながら、やっとの思いでラウンジに辿り着き椅子に座った途端、テ−ブルにひれ伏して泣き崩れた。
中井は、順子に近づくと、肩に手を置いて優しく声をかけた。
「順子さん、よく頑張って耐えましたね。辛かったでしょう。でも先生は、あなたに財産を残せて本望だと思いますよ。誰よりも順子さんを深く愛してらっしゃったんですから。
これで、昇平ちゃんをいい環境で育てられるし、順子さんも幸せに暮らせる。これからは、僕にも是非、お手伝いさせて下さい。
そうだ! 今日はみんなで食事にでも行きませんか?」
しかし、顔を上げた順子の一言に、中井の表情は凍りついた。
“エッ? 何だって? 一緒にベットで子守唄まで歌ってやって、肝心な事は言わなかったって?! どこまでマヌケな女なんだ! 何のために、気色悪い半死人とベットに横たわってたんだ? 一体、俺の骨折りを何と思ってやがるんだ!!”
だが、中井は怒り狂う気持ちをグッと抑えて言った。
「順子さんが、なぜ先生にあれ程愛されていたか、わかるような気がしますよ。貴方は、本当に心の綺麗な方だ。そんな貴方に、先生を騙すようなことを言わそうとした僕が悪かったんです。 だけど、忘れないで下さい。 僕は、順子さんに幸せになって欲しかったんです。 貴方には、僕のできることだったら何でもしてあげたいんだ。
この件は、もう僕に全て任せて下さい。順子さんが悲しむようなことは絶対にしません。これからは、僕が順子さんを守ります」
順子が帰った後、中井は腕組みをし、神妙な顔で自動販売機のまずいコ−ヒ−を飲んでいた。
“順子はアホな女だが、心底、自分を愛してくれていたと知ったら、先生はどうするだろうか。
法定相続を度外視しても、順子と昇平のために金を残してやりたいと思うだろう。
公正証書の遺贈であれば、悦子が遺留分の減殺請求をしたとしても、最大で半分の遺産が転がり込む。 俺は、順子と一緒になって、その金をもとに市議会議員選に打って出る。 弔い合戦なら、先生の威光が残っているうちが勝負だ。 十分に勝算はある!”
そこまでのシナリオを頭に描いたところで、中井は、隆介の病室にとって返し、厳粛な面持ちで告げた。
「先生、順子さんのお子さん、つまり昇平君は先生のお世継ぎです。もし鑑定が必要なら・・・」
中井が話し始めたのを制するように、隆介は片手を押し出し、はっきりとした口調で言った。
「わかっている。 弁護士の先生に来てもらってくれ。 できるだけ早くだ。」
中井は「ハッ!」とかしこまって一礼をして病室を辞すと、転がるように走って事務所に急いだ。
喜びと期待で、胸がはちきれそうだった。