表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
8/13

第8章

順子は病室の前で逡巡していた。あれから、ここに来るまで迷いに迷った。


しかし、中井に「もう、この機を逃したら、まともに話ができる時がないかもしれませんよ」と追い詰められて、意を決して出てきた。


だが、いざという段になると、また迷い始めたのだった。

でも「往生際が悪いですね」と不機嫌になった中井に強引に押される形で、遂にドアの把手に手をかけた。



間近かで見る隆介は、もはや、順子の知っている隆介ではなかった。


かつて生気に溢れ、皮脂で潤っていた肌は青白くたるみ、人を射すくめるような強い光を放っていた眼は、どんよりと曇っていた。



隆介は、順子が見下ろせる位置まできても、少しの間、虚ろな視線を空に泳がせていたが、やがて「やぁ」と微笑んだ。


そして、若干しわがれてはいるが懐かしい声で「順子、ありがとう」と言った。



手をとって、少しずつ話し始めると、順子は、どうしようもなく悲しくて居たたまれなくなった。


四半世紀以上もの間、ずっと好きだった人間が消えようとしている・・・その残酷な事実を目の前に突きつけられて混乱していた。



隆介を失うと同時に、隆介の影のように共に生きてきた自分の人生も消えていく・・・


深い喪失感が順子を打ちのめしていた。



そして、今までの恨みや怒り、ここに来た目的・・・全ての記憶と思考がスッポリと頭から消え去っていった。



隆介は、親よりも誰よりも、順子の人生に長く深くコミットした唯一の人間だった。

順子は、この期に及んでようやく、隆介が自分の分身に近い、最もいとおしい存在だったのだと理解した。



・・・「どんなに邪険にされても裏切られても、私はこの人を許せた。この人が、何を考え何を望んでいるのか、手に取るようにわかっていたから。だから、どんなに辛くても行かせてあげれた。

そして、いつか必ず私の元に戻ってきてくれると信じて、ずっとずっと待ち続けていた・・・」



順子の中で、激しい感情が堰を切ったように溢れ出し、全身の細胞がしゃくりあげ始めた。




そんな順子をなだめるかのように、隆介は順子の手を撫で、痩せたもう一方の手で、弱々しくベッドの上を叩いた。


順子が、涙で濡れた目で「なに?」と問い掛けると、隆介は目を細めながら、もう一度ベッドの上をトントンと叩いた。



「一緒に横になるの?  大丈夫?  いいの?」


順子は、痛み止めの点滴チュ−ブを慎重に避けながら、ゆっくりと隆介の傍に横たわった。



不思議な気持ちだった。


こんなに優しい気持ちで隆介と向かい合える日が訪れるなんて、嘘のようだった。


やがて、隆介がかすれる声で言った。「歌って。昔、二人で歌ったあの歌」



高校時代、隆介と一緒にいた時は、よく二人でカ−ペンタ−ズの『青春の輝き』を歌った。



手をつないで散歩しながら、公園のベンチで隆介に膝枕をしてあげながら、何十回何百回、歌ったことだろう。



「どうかもう一度、私を抱いて、そしてキスして!」・・・・溢れる涙でシ−ツをグシャグシャにしながら、順子は繰り返し心の中で叫び続けていた。




・・・・・・・・・・・・・・


数十分後、中井はドアを開けて、順子がベッドで歌を歌いながら隆介の髪を撫でているシ−ンに出くわし、一瞬驚いたが、そのまま静かにドアを閉めた。


「よっしゃぁ〜! 作戦完了!」


中井は踊る心を抑えながら、病室から少し離れた自動販売機が置かれているラウンジで、順子が出てくるのを今か今かと待っていた。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ