第8章
順子は病室の前で逡巡していた。あれから、ここに来るまで迷いに迷った。
しかし、中井に「もう、この機を逃したら、まともに話ができる時がないかもしれませんよ」と追い詰められて、意を決して出てきた。
だが、いざという段になると、また迷い始めたのだった。
でも「往生際が悪いですね」と不機嫌になった中井に強引に押される形で、遂にドアの把手に手をかけた。
間近かで見る隆介は、もはや、順子の知っている隆介ではなかった。
かつて生気に溢れ、皮脂で潤っていた肌は青白くたるみ、人を射すくめるような強い光を放っていた眼は、どんよりと曇っていた。
隆介は、順子が見下ろせる位置まできても、少しの間、虚ろな視線を空に泳がせていたが、やがて「やぁ」と微笑んだ。
そして、若干しわがれてはいるが懐かしい声で「順子、ありがとう」と言った。
手をとって、少しずつ話し始めると、順子は、どうしようもなく悲しくて居たたまれなくなった。
四半世紀以上もの間、ずっと好きだった人間が消えようとしている・・・その残酷な事実を目の前に突きつけられて混乱していた。
隆介を失うと同時に、隆介の影のように共に生きてきた自分の人生も消えていく・・・
深い喪失感が順子を打ちのめしていた。
そして、今までの恨みや怒り、ここに来た目的・・・全ての記憶と思考がスッポリと頭から消え去っていった。
隆介は、親よりも誰よりも、順子の人生に長く深くコミットした唯一の人間だった。
順子は、この期に及んでようやく、隆介が自分の分身に近い、最もいとおしい存在だったのだと理解した。
・・・「どんなに邪険にされても裏切られても、私はこの人を許せた。この人が、何を考え何を望んでいるのか、手に取るようにわかっていたから。だから、どんなに辛くても行かせてあげれた。
そして、いつか必ず私の元に戻ってきてくれると信じて、ずっとずっと待ち続けていた・・・」
順子の中で、激しい感情が堰を切ったように溢れ出し、全身の細胞がしゃくりあげ始めた。
そんな順子をなだめるかのように、隆介は順子の手を撫で、痩せたもう一方の手で、弱々しくベッドの上を叩いた。
順子が、涙で濡れた目で「なに?」と問い掛けると、隆介は目を細めながら、もう一度ベッドの上をトントンと叩いた。
「一緒に横になるの? 大丈夫? いいの?」
順子は、痛み止めの点滴チュ−ブを慎重に避けながら、ゆっくりと隆介の傍に横たわった。
不思議な気持ちだった。
こんなに優しい気持ちで隆介と向かい合える日が訪れるなんて、嘘のようだった。
やがて、隆介がかすれる声で言った。「歌って。昔、二人で歌ったあの歌」
高校時代、隆介と一緒にいた時は、よく二人でカ−ペンタ−ズの『青春の輝き』を歌った。
手をつないで散歩しながら、公園のベンチで隆介に膝枕をしてあげながら、何十回何百回、歌ったことだろう。
「どうかもう一度、私を抱いて、そしてキスして!」・・・・溢れる涙でシ−ツをグシャグシャにしながら、順子は繰り返し心の中で叫び続けていた。
・・・・・・・・・・・・・・
数十分後、中井はドアを開けて、順子がベッドで歌を歌いながら隆介の髪を撫でているシ−ンに出くわし、一瞬驚いたが、そのまま静かにドアを閉めた。
「よっしゃぁ〜! 作戦完了!」
中井は踊る心を抑えながら、病室から少し離れた自動販売機が置かれているラウンジで、順子が出てくるのを今か今かと待っていた。