第5章
隆介は、公務員の父・良介、母・節子、妹の典型的な中流家庭で育った。
男の子は、父親との葛藤を乗り越えて大人になっていくというが、隆介にとっての良介の存在は、ぶつかっていく対象とはなりえなかった。
良介は、酒もタバコもやらず、夜は余程の事がない限り、6時には帰宅した。
夕食後は、歴史書を読み、10時半キッカリに養命酒をほんの少し飲んで寝る。
そして、そんな判で押したような生活の繰り返しに飽きなかった。
隆介は、良介を黒沢明監督の『生きる』に出てくる老いた役所の職員とそっくりだと思っていた。
ただひとつ違うところは、映画の主人公は、死ぬまでの最後の日々に自分の生きた証を残したいと奮い立ったが、良介はそれさえもしなかったという点だ。
良介の最後のポストは、区役所の生活福祉課長だったが、その頃の区内は同和問題で大きく揺れていた。
ある時、役所の同和対策に苦情が寄せられたが、良介は問題を直視しようとせず、のらりくらりと言い逃れをした挙句、定時に退所し帰宅した。
その後、抗議団体が、家まで押しかけてきた。
そして、情けない事だが、吊るし上げられている良介を修羅場から救い、その場を収めたのは、必死の面持ちで説得にのぞんだ母・節子だった。
団長と母が対峙したあの時の切迫した奇異な光景を、隆介は今も忘れられない。
節子は、良介に言われるままの忍従の日々を生きてきた。
延々と、退屈な夫の身の回りの世話をし、黙々と家事をこなして2人の子供を育ててきた。
女性としての最盛期を、紅をつけることもなく、髪をひっつめ、荒れた手で家事に明け暮れた。
良介が脳梗塞で寝たきりになってから7年間、ずっと付き添って最後を看取り、ようやく自由になったのも束の間、去年、心不全で亡くなった。
遺品を整理していて、鏡台の奥から半分が切り取られた写真が出て来た。
口紅をして長い髪の母が、誰かと手をつないで楽しそうに笑っていた。
隆介の最初の結婚は、順子と別れて3ヵ月後だった。
相手は、上司の紹介で、取引先メーカーの社長令嬢だった。
彼女は若く美しく、明るく聡明だった。
一緒にいるだけで、将来の展望が開けていくような気がした。
順子を嫌いになったわけではない。
だが、その時の隆介には、確実な明日の希望が必要だった。
しかし、そうやって一緒になって7年目のある日、妻から離婚を切り出された。
「すれ違いが続いて、気持ちが離れてしまった」とは、表向きの理由で、実際は、義父の熱望する子供ができなかったことと、隆介の異性関係だった。
「おやじのくだらん人生を反面教師にして、ここまでやってきたんだ。今更、愛がどうのこうのなんてぬかすバカ女なんか、こちらから願い下げだ。それより、次の県議会議員選には、もっと金の工面ができる女が必要だな」
隆介は、通天閣を見上げながら、一気にグラスのバーボンを飲み干した。