泣き虫ほたる
夏ももう終わりにさしかかり、外で鳴く蝉は、短い命をこれでもかと言わんばかりに謳歌している。耳に痛い蝉の声を聞きながら、空を見上げると、あぁ、やっぱりもう秋か、と思わざるを得なかった。
――綺麗な夕焼け。
太陽が地平線に沈んでいく様は、まるで空が燃えているようだと、毎年秋が来る度思う。
俺はこの秋の夕空が一等好きだった。
グラデーションの見事さは言うことないが、この見る者を切なくさせるような物悲しさや、だけどなぜか目が離せない力強さは、俺の心を捕えて離さない。
陽が沈んでいくごとに冷たくなっていく窓の桟に寄りかかりながら、太陽が眠りにつく、そのほんの少しの時間を、教室で一人で過ごすのが俺の日課になっている。
秋だけではなく、一年通して毎日だ。
だから季節ごとに空の表情が変わるのも知っているし、その中ではやはり、秋の夕空が一等魅力的なのだった。
窓の桟が体温で、ほんのり温かくなってしばらく経った頃、教室のドアが遠慮がちな音をたてて開いた。
空も暗くなって結構な時間が経っていたから、警備員か教師でも見回りに来たのかと、面倒だなと思いながらも振り返った。
いつもはもっと早めに帰っているのだが、今日の夕焼けは今年の中では一等素晴らしく、しばらく余韻に浸っていたのだ。
だが、振り返った先にいたのは警備員でも教師でもなく、一人の女子生徒だった。
同じクラスの、確か名前は…。
「雪村くん、まだいたんだ。」
そう言って、丸い目を更に丸くして驚いている。
「教室。明かり点いてないから、もう誰もいないと思ってた。」
雪村くんがいてびっくりしたんだよ、と仄かに笑った。
「そうか。驚かせて悪かった。」
俺がそう言って詫びると、何がおかしいのかくすくすと笑いだした。怪訝そうな顔でもしていたのか、俺の表情に気づくと、はっとした表情をして、それでも、ふふっと微笑むと、ごめんねと言って笑い止んだ。
「雪村くんの事を笑った訳じゃないの。ただ、生真面目だなと思って。」
それから、ふっと思い出し笑いのようなものをしてから、彼女は言った。
「雪村くん、知ってる?雪村くんって、私たちの間で、何て言うか、ひっそりと人気があるんだよ?」
その突拍子もない言葉に今度は俺が目を丸くする番だった。
訳が分からない。俺は元来無口な方で、積極的に女子に声をかけるなんてことはしたことがない。
「放課後一人で教室にいるじゃない!?それって、結構有名でね?いつの事なのか、誰の事なのか分からないんだけど、ある放課後に雪村くんに偶然相談にのってもらった子がいたらしいのよ。覚えてる?」
俺は首を振った。全く覚えがなかった。
そうと言って彼女は笑った。雪村くんらしいねと。
「それでね、雪村くんって生真面目だから、きちんと話を聞いてくれるっていうので、何て言うか、相談役みたいな…。心当たりない?」
そう言えば、と思った。こうして一人で教室にいる時、時々誰かが話しかけてきたように思う。あれのことか。
そして、あぁ、そうかと思った。
目の前の彼女もまた、一人では抱えきれない何かを持っているのかもしれない。
そう思って彼女を見ると、彼女も気づいたのか、俺の隣で膝を抱えて座り込んだ。教室の床は碌に掃除がされていないせいか、小さな埃だらけだったが、彼女はそんなこと気にしていないようだった。
小さな体を更に縮めるように、ぎゅっと力を入れて膝を抱えると、肩までの真っ直ぐな彼女の黒髪が、その横顔を隠してしまった。
蝉と鈴虫が合唱しているのを、暗闇を眺めながら聞いていると、あのね、と彼女が口を開いた。
「私、付き合ってた人がいるの。先輩なんだけど、でもね、別れちゃった。」
彼女の声は、制服のスカートに吸い込まれているようで、くぐもって聞こえた。
「その時にね、言われたの。私の気持ちが分からないって。悪いけど、他に好きな人が出来たんだって。――ショックだったなぁ…。」
最後の言葉は、ぽつりと吐き出されて、消えた。だが、その残滓は彼女と俺の間の空気に未だ漂っているようだった。
「私の気持ち、全然伝わってなかったんだって。こんなに想っているのに、何で分かってくれなかったんだろうって、しばらくの間、先輩のせいにして恨みごとばっかり考えてた。」
でもね、と彼女は言った。でもね、私気づいちゃったんだと、そう言ってしばらく口を閉ざした。
窓から入り込んでくる風は、まだまだ生温く夏を感じさせたが、ほんの少し混じる秋の匂いが、センチメンタルな気分にさせた。
俺はこれまで異性との付き合いはなかったが、好きな相手から別れをきり出されるその辛さを想像することはできる。
いくら相談役として俺が有名だったからと言って、碌に面識がない俺に相談しようと思うくらいには、辛く、切羽詰まっていたのだろう。
それから数分経って、漸く彼女は再び口を開いた。
「私ね、一度も言ったことないの。好きだって、先輩に。先輩に振られたことも、もちろんショックだったけど、何より一番ショックだったのはね…。」
そう言って、一旦彼女は大きく息を吐いた。
俺は気づいていた。淡々と話す彼女の声が、段々と湿り気を帯びていくのを。吐いた息が喉の奥で震えているのを必死に堪えているようだった。
「好きだって、言えなかった。一度も。……先輩といるとね、嬉しくて、泣きたくなるの。声が震えるのを必死に隠して、嬉しいのに泣きたくなるなんて変だけど、幸せだったから、泣き顔なんて見せたくなかったの。でも、きっとね、私、先輩に好きだって言ったら、泣いてしまう。好きって言う度に、泣いてしまうと思うの。――でも、こんなことになるなら、泣いてもいいから、言えばよかった。好きだって言えなかったことが、とても、とても、悔しい。」
そうして、彼女は黙った。
しゃくり上げることはなかったが、きっと彼女は泣いているのだろうと思った。先輩を想って、その恋心を涙とともに溶かしているのだろう。
彼女は全身から、先輩への想いを溢れさせていた。
その想いの強さが、ほんの少し羨ましかった。
「蛍…。」
ふと頭を過った言葉。それが口を突いて出てしまった。いきなりしゃべった俺に驚いたのか、聞こえなかったのか、彼女は、え?と言ってこちらに顔を向けた。
もう泣いてはいなかったが、その頬と瞳は幾許か湿っているようだった。
「いや、蛍に似ていると思って。―知らないか、都都逸。」
「どどいつ?」
彼女は知らないようで、小首を傾げながら繰り返した。首を傾げたその拍子に、彼女の髪がさらりと揺れた。
「『恋に焦がれて鳴く蝉よりも、鳴かぬ蛍が身を焦がす』―聞いたことないか?その蛍に似ていると思ったんだ。」
そう俺が言うと、彼女は照れたような、それでいて苦虫を噛み潰したような何とも言えない表情になった。そして、雪村くんらしいけど、と前置きをして言った。
「私の名前、覚えてないでしょう?」
名前も知らない子の話をこれまで延々と聞いていたのかと、呆れた様子で彼女は言った。
「――蛍。私の名前は、山里蛍って言うの。雪村くんとは名簿が前後なんだけどな。」
覚えておいてねと、苦笑交じりに言い、山里は立ち上がった。埃で汚れてしまったスカートを掌ではたくと、くるりと体ごとこちらに向いて深々とお辞儀をした。
「話を聞いてくれてありがとう。そして、こんな時間まで、ごめんなさい。でも、雪村くんのおかげで気持ちが少し楽になった。――本当に、ありがとう。」
そう言うと、山里は、また明日ねという挨拶と、ありがとうと、もう一度言ってこの教室から去って行った。
いつか、蛍の想いに気づく人が現れればいい。
好きだと言えない、蛍の想いの深さに気づいてくれればいい。
でも、とも思う。
きっと、俺らが気づいていないだけで、蛍も好きだと泣き喚いているのかもしれない。
「鳴けない蛍、か…。」
泣き虫な蛍がいてもいいと、俺は思う。今日の山里のように。
窓の外を見ると、黄色い月が顔を出していた。きっと明日もいい天気になるだろう。夕陽もこれからが見頃だと、そう思いながら窓を閉めた。