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この作品には 〔ボーイズラブ要素〕が含まれています。
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金木犀

作者: 椎名亮

「いってきまーす。」

 いかにも間の抜けた声で、信也は気だるそうに家を出た。相変わらず蝉が五月蠅い。自転車に跨りながら、信也は顔をしかめた。楽しかった中学校生活も、気付けばあと半年ばかりになってしまった。6月で部活動を引退した信也は、今は高校受験に向けて勉学に勤しむ毎日だ。この夏に頑張ることが出来れば、未来はきっと明るい。そう言ったのは担任の佐藤。大げさな奴だと思いはするが、大好きだったバスケットボールに打ち込めなくなった今、受験勉強も悪くない。ペダルを勢いよくひと漕ぎし、鬱陶しいほどの強い日差しに逆らうように、信也は塾へと向かった。

 家の前の路地を抜け、大通りに沿って5分ほど走ると、信也の通う塾がある。しかし、最近は敢えて大通りから一本はずれた商店街を通ることにしている。商店街の一角に、『裏技自販機』と巷で囁かれる自動販売機がある。普段は150円するペットボトルが、そこでは何故か100円で買えるのだ。小遣いが浮くからと、同級生の間で人気のスポットだ。だが、信也がわざわざ遠回りをする目的は他にある。


「おはよう、信也くん。」

 信也は胸の高ぶりを感じた。悟られないように胸を手で押さえながら振り返ると、そこにはすらりと背の高い、凛とした表情の女の子が立っている。

「おう。おはよう。」

「今日も暑いね。」

「そうだな。」

「勉強進んでる?来週クラス分けテストだよ?」

「そうだっけ。やべーな。お前は?」

「ちゃんと計画立ててやってます。」

 この子の名前は愛。塾の夏期講習で同じクラスになったことをきっかけに、知り合うこととなった。しっかり者の努力家で、幼少期をロンドンで過ごした経験から英語がペラペラだ。授業中に先生に当てられても決して動じることはなく、背筋をしゃんと伸ばしてはきはきと発言する愛の姿を、信也はいつも憧れに近い眼差しで見つめていた。

「俺もそろそろやんねーとな」

そういって信也は再び自転車をこぎ始めた。後ろからは愛がついてくる。決して振り返ることはないが、信也はいつも背中に愛の『空気』を感じていた。それが信也にはとても誇らしい。15の夏、信也は恋をしていた。


「それでは、明日までにちゃんとやっておくように。」

 そう聞くや否や、信也は教室を飛び出した。いくら愛がいるとは言え、毎日6時間も塾に缶詰にされるのは楽ではない。ただ、この夏休みで信也の成績は飛躍的に伸びていた。一つはバスケ部を引退して時間ができたからだろうが、本当のところは夏休み明けのクラス分けテストで悪い点数を取って、愛と別々のクラスになってしまうことが嫌だったのだ。我ながら利己的な人間だと思いつつも、喜ぶ母親の顔をいざ目の当たりにするとむしろいい事をしているような気にすらなってくる。


「ただいまー。」

 いつもの気だるそうな声で、信也は玄関の扉を開けた。そこには見慣れた靴が一足、きちんと並べられていた。

「おかえりなさい。シュウくん来てるわよ。」

「わあってるー。」

部屋の扉を乱暴に開くと、そこには人のベッドの上で、これまた人の漫画を勝手に読み漁る秋の姿があった。信也と秋は中学校の同級生で、理由もなくいつの間に仲良くなった間柄である。別に趣味が合うとかそういったことではないのだが、何故か馬が合うのだ。秋は色白で、背は165センチと割に小柄である。加えて顔が可愛らしいことから、小学校まではよく女の子に間違えられたそうだ。そんな女っぽいシュウをからかって、信也は彼を『アキ』と呼んでいた。

「アキ。お前さー、ここ俺の部屋なんですけど。」

そう言うが早いか、信也はベッドに寝そべる秋の上にダイブした。

「痛ってー。ごめんごめん。これの最新刊、本屋で売り切れてたからさ。信也なら持ってるかもって。」

「あ!それまだ俺も読んでねーのに!アキ、てめー金返せよ!」

「金持ってないもん。」

「うっせー。借金してでも返せよ。」

「…しょうがないな。そんなら体で払うしかないか。」

秋はそう言うとTシャツを脱ぐ素振りをしてみせた。信也は止めもしない。秋が冗談でやっていることくらい分かっているからだ。代わりに、秋の頭をくしゃっと撫でた。大体こうすると秋は大人しくなる。

「塾どうだった?」

「別に。」

「なんとかとかいう女とは今日も一緒に行けたの?」

「おう。今日もマジで可愛かったわ。」

「へー。なんで告らないの?」

「そんな簡単に出来たら苦労しねーよ。つーか、アキだって彼女いねーじゃん。」

「あ。今、触れてはいけない心の闇に触れましたね?」

「俺らってとことんダメだなー。」

「まあまあ、あの空を見てみなよ。今日も星が綺麗だよ。例えオレらが彼女いなくたって、あの壮大な宇宙からしたらほんのちっぽけなことでしょ?」

「金木犀のあれっすね?」

「そうそう。よく覚えてたじゃん。」


 秋は前から宇宙の話が好きだった。そのせいでいちいち話を宇宙規模にしたがるきらいがあるのが玉に瑕だが。

 これはちょうど去年の今頃の事だった。夏休みの宿題で未来の地球を想像して絵を描いてくるというものがあった。信也はというと、中学生らしく廃墟にロボット、UFOといった明らかにSFものの見過ぎと思われる絵を描いた。他の生徒も絵心の差こそあれ、コンセプトは似たり寄ったりであった。そんな中、秋は他とは全く異質の絵を描いてきたのである。それは、広大な砂漠の中心にポツンと佇む、オレンジ色の花をつけた一本の木であった。

「アキ、お前テーマわかってんの?『未来』だぜ。み・ら・い。」

「信也。金木犀って知ってる?」

「なんだそれ?」

「毎年10月くらいになるとさ、黄色い花をつけるんだよ。ほら、学校の外にも植わってるじゃん。」

「そんなんあったっけ?つーか、それと未来となんの関係があんの?」

「その金木犀の香りがさ、すっごく意味深なんだよ。一言では言えないんだけど、なんて言うか『寂しい』っていうか『懐かしい』っていうか。それでいて、未来を憂えているような気さえするんだ。」

「ふーん。もーちょい分かりやすく説明できねーの?」

「そうだなー。言うなれば『宇宙』って感じ?過去も現在も未来も、ぜーんぶ包みこんでるんだよね。四次元的って言った方が分かりやすいかな?」

「うん、先生。かえって分からなくなりました。」

「知ってるよ。この感覚分かってくれた人、今までに誰もいないからさ。」

「アキってホントに変わってるよなー。変態?」

「信也ほどじゃないけどね。」


「…さみー。」

 午前5時過ぎ、信也は身震いをしながら目を覚ました。昨晩は秋とまたくだらない話を延々とした。8月の下旬とはいえ、まだ寝苦しい夜が続いていたため、エアコンをつけたまま寝てしまったのだ。さすがに16度は寒過ぎるな、そう思った信也は目を閉じたままエアコンのリモコンを10回押した。これで26度になっているはずだ。ベッドの下で布団を敷いて寝ているはずの秋は、いつの間に信也のセミダブルベッドの上ですやすやと寝息をたてていた。こいつも寒かったんだろう。秋の背中を見ながら、信也はそう思った。自分が下に移動するのも煩わしいので、信也はそのまま一枚のタオルケットを二人の肩の上まで掛かるようにして、また眠りについた。


 クラス分けテストでは、信也は見事『特進クラス』に留まることができた。夏休み最後の一週間、ほとんど寝ずに頑張ったのが功を奏したのだ。言うまでもないが、愛も特進クラスに残ったので、これでまたしばらくは同じ教室で勉強することになる。翌日、学校が終わりせっせと塾にいくと、信也の斜め前の席に愛が座っていた。

「あ。信也くん!特進に残れたんだね?カンニング?」

「ちげーよ。元がいいからな。」

 愛はこういう一言多いところがある。しかし、そんな厭味すら気持ちがいい位はっきりと言うので、信也にとっては全く気にならなかった。相変わらず、愛の授業中の発言は心地良い。特に英語の授業になると、ネイティブ並みの発音で難問をいとも簡単に解いてみせる。まるで高尚な音楽でも聴いてるような気分にさせる愛の発音は、いつも信也の心をどこか遠くへさらって行ってしまうのだった。

「おい。ちょっとこっち来いよ。」

帰り際の愛に向かって、信也が言った。

「どしたの?家でお母さんがご飯作って待ってるから、早く帰らないといけないんだよね。」

「大丈夫。すぐ済むから。」

 

 信也は、塾の駐輪場の奥まで愛を連れて行った。ここなら他の生徒に見られることはないだろう。

 実は、信也はクラス分けテストを受けるにあたって一つ大きな賭けに出ていたのだ。それは、特進に残れなければ愛のことはきっぱり諦めるが、残れれば告白して付き合ってもらう、というものだった。『付き合ってもらう』というのはいささか一方的ではあるが、これは、憧れの対象だった愛と肩を並べて付き合いたいという、信也の決意の表れでもあった。

「お前さ、俺が特進に残れたことどう思ってる?」

「どうって、よかったじゃん。おめでと。」

「なんつーかさ、俺さ…お前といると楽しいって思えるんだよな。」

「私も信也君といると楽しいよ。」

「うん。でさ、お前俺のこと男としてどう思ってる?」

「え?どーゆーこと?」

「男としてだよ。…つーか、お前さ、今彼氏いる?」

「えー。いないけど…。」

「俺じゃだめか?」

「え?」

「俺じゃだめか?俺じゃ彼氏にはなれないのか?」

「なれないかって聞かれても…困るよ。」

「俺と付き合ってくれ。俺はお前が好きなんだよ。」

「…そうなんだ。…うん。」

「いいのか?」

「…うん。いいよ。」

「マジで?」

愛は顔も上げずに小さく頷いた。

 やった。信也にはこれしか出てこなかった。まるで全世界が一遍に自分のものになったような感覚だった。あの愛が、誰しもが憧れる愛が、まさか自分のものになるだなんて。その日の帰り道の事はあまりよく覚えてはいない。唯一はっきり覚えているのは、玄関の扉を開けた時についつい大きな声で「ただいま!」と言って母親を驚かせたことくらいであった。


 それからというもの、信也の人生はバラ色そのものだった。夏期講習で知識を詰め込んだ甲斐もあって、学校の授業では積極的に発言する機会が増えた。学校が終われば愛と待ち合わせて塾に行く。家に帰れば机に向かい、一心不乱に勉強する。そんな息子の様子を見た両親は、リビングで信也の将来についてああでもない、こうでもないと話している。一見平凡そうな毎日の繰り返しが、信也には全て新鮮なものに思えた。


 9月も中旬に差し掛かると、さすがに朝晩はタオルケット一枚では肌寒くなってきた。気付けば蝉ももうほとんどいない。愛と付き合ってから、2週間が経とうとしていた。その日は久々に秋が泊まりに来ることになっている。思えばこの数週間、楽しくはあったが秋とはほとんど話せていない。浦島太郎はこんな気持ちだったのだろう。そんな馬鹿ばかしい空想を巡らせている最中、インターホンが鳴った。

「強盗でーす。」

「ばーか。鍵空いてるからさっさと入れよ。」

しばらくすると、サッと信也の部屋のドアが開いた。

「おー、信也。元気してる?」

「俺はすこぶる好調だぜ!」

「そういえば、信也最近めっちゃ調子よさそうだもんね。」

「なんつーの?俺の時代が来たって感じ?」

「あー。そんなんしたら世界の終わりだー。」

「うぜーんだよ!」

 こうして、またいつものようにじゃれ合う。秋は悪戯好きの悪ガキといった感じだ。ひどいことをずけずけと言った挙句、無邪気な顔で笑うのだ。こういう時の秋を信也は素直に可愛いと思う。

「あー、わかった。さては愛ちゃんとかいう子に告ったでしょ?」

「すっげー。お前なんでわかんの?」

「マジで!本当に付き合ってたんだ?」

 信也は自分からわざわざ切り出す心配がなくなって安心したのか、軽い調子で話を続けた。

「最初はさー、すっげー緊張してたけど、なんか付き合っちゃえば当たり前みたいに一緒にいるんだぜ。こんなんなら、最初から告ってさっさと付き合ってればよかったし。」

「ふーん。そーなんだ。」

「こないだも、塾の帰りに手つないで帰ったんだけど、やっぱ違うよな?『一体感』みたいのがさ。来週あたりキスしちゃおっかなー。これ、みんなには内緒な!」

「うん。わかった。」

「…おい。なに暗くなってんの?どーしたんだよ?」

「いやいや。なんでもないよ。ただ、オレ付き合うとかってしたことないからさ。ちょっと、『置いてかれちゃった』感みたいな?」

「なにいってんだよ、アキ!お前だって作ろうと思えばすぐ作れるって。いつまでも宇宙とか壮大なこと言ってないで、たまには現実的に考えろって。な?」

「オレはそういうの、ちょっとまだ分かんないからな。」

「俺だって最初は分かんな…」

「信也はオレとは違うよ。」

「…どーした?」

「信也はオレとは違うんだ。信也にはわかんないよ。」

「アキ?俺なんかムカつくこと言ったか?」

「いや、違うんだ。ごめん。今日はもう帰るから。」

 信也には何がなんだか分からなかった。とにかく、いつも通り秋の頭をくしゃっと撫でてやった。こうすればいつも秋は大人しくなるのだ。ただ、今回ばかりは違った。信也が頭を撫でる手を、秋は力いっぱい払い除けた。

「ごめん、信也。オレ…無理だよ。」

 振り向いた秋の瞳には大粒の涙がこぼれていた。そのまま秋は信也の部屋を足早に出て行った。呆然とする信也は勉強机に座ったまま硬直するほかなかった。こんな事は今までに一度もなかった。泣かれたことよりも、手を払われたことよりも、秋が最後に言った一言こそ最も信也を傷つけた。もう今までの関係ではいられない。その確信が信也の心を抉るのであった。


 これまでのバラ色のような人生とは打って変わり、それからというもの、誰かが時計の針に重石でもつけたかのようにのろのろと時間が過ぎた。秋とはぎくしゃくしたままだ。特に避けたり、無視したりはしないまでも、極力顔を合わせる時間を減らそうという秋の思いが信也には手に取るように分かった。これが全ての歯車を狂わせ始めていた。愛と過ごす時間も前ほど面白くない。勉強も思ったほど手がつかない。

「なあ、亮介。」

「あ?」

「ぎくしゃくした関係ってどうやったら修復できると思う?」

 信也は机に突っ伏したまま動かない亮介に声をかけた。こういうデリケートな問題を相談するなら亮介に限る。サッカー部の亮介は、いつも感覚だけであっけらかんと生きているといった印象だ。誰にでもある程度は親切に接するのだが、必要以上に干渉したり依存したりすることはまずない。信也が思うに、亮介は自分と他人の間に上手く線引きができているのだ。そういう人間は往々にしてちょっとやそっとのことでは揺るがない。秋のことで人生が真っ逆さまになってしまった信也が教えを請うには、打ってつけの相手というわけだ。

「なんだそれ?彼女?」

「いや。今回は違うんだけど。」

「ぎくしゃくすんのがなんでいけねーの?」

やっと亮介は顔を上げた。

「いや、なんか気まずいなってだけなんだけど。」

「でも、そいつって別に彼女とかってわけじゃねーんだろ?家族の誰か?」

「いや。」

「じゃー、別にいいんじゃね?なんで大切でもねー奴とぎくしゃくしなきゃなんねーの?」

「確かに、そーだよな。」

 口ではそう言ったものの、頭の中では依然として激しい葛藤が繰り広げられていた。亮介の言うとおり、愛のことならまだしも、秋のことでここまで頭を悩ませるのはバカバカしいような気がする。とは言え、秋が亮介の言うような『大切でもない奴』とはどうしても思えなかったのだ。このやり場のない気持ち…どこかで聞いた覚えがある。思春期だ!信也はふいにそう思った。保健の授業で習ったことがそのまま自分の身に降りかかっているのだ。第二次性徴期に際し、男子は声が変わり、髭が生え、体ががっしりとする。一方で、女子は乳房が膨らみ、生理が始まり、体が丸みを帯びる。それに伴い心も大人になろうとするのだそうだ。特定の異性に対して特別な感情を抱き、その相手と『一つになりたい』と思うようになる。友人関係も今までと比べてより親密さを求めるようになり、裏切られたりのけ者にされた、と感じるとひどく落ち込み、悩んだり苦しんだりする。なるほどな。信也はそう心の中で呟いた。単純なことじゃないか。思春期が来たのだ。誰かがどうこう言えた問題ではないのだ。悩むのも、心が不安定になるのも、仕方がないことなのだ。アキもきっと思春期なのだ。保健の授業の時はつまらない、あまり興味ない、などと言っていたが、アキすら気付けば思春期に悩まされていたのだ。

「おーい。戻っておいでー。」

亮介の声で信也ははっと我に返った。

「あ、すまん。ぼーっとしてた。」

「どーせ、また彼女の事考えてたんだろ?エロ信也。」

そう言って亮介は信也の股間をぽんと叩いて教室を出て行ってしまった。


 その日の帰り道、久々に塾がないので秋と二人で帰った。家の方角が同じなのだ。

「お前さ、高橋が言ってたこと覚えてる?」

「3大栄養素の話でしょ?覚えてるよ。」

「ちげーよ。思春期の方。」

「あー。あれか。なんて言ってたっけ?あんまり面白くなかったから覚えてない。」

「お前はそーゆーけどさ、実際俺ら思春期なんだとおもわねー?」

「…そうかもね。」

「『かも』じゃねーよ。こないだだって、お前急に泣いたろ?あーゆーわけわかんねー気持ちっつーのが思春期なんだよ。」

「そうだね。」

「だからさ、俺こないだのこと全然気にしてねーから、また今までみたいに仲良くやろーぜ。」

「今までみたいには…なれないと思うな。」

「なんでだよ?お前まだ気にしてんのか?」

「そういうことじゃないんだ。信也にはわかんないよ。」

「アキさー、前もそんなこと言ってたけど、言うならはっきり言えよ。じゃねーとわかんねーよ。」

「いいんだ。これはオレだけの問題だから。」

「全然よくねーし。俺に言えない隠しごとでもあんのかよ?」

「別に隠しごとって言うほどのことでもないけどさ。」

「じゃー、言えよ。わかるかわかんねーかは、その時俺が判断する。」

「思春期ってさ、恋するものでしょ?」

「おう。高橋は、特定の異性に特別な感情を抱くようになるって言ってたぞ。」

「特定の『異性』ってどういうこと?」

「だからー、アキは男だから、女に恋愛するってことだよ。当たり前だろー?」

「そんなの分かってるよ。なんで、『異性』じゃないといけないかって聞いてんの。」

「なんでって…。それが普通だからじゃね?理由なんてねーよ。」

「そっか。じゃー、『同性』に特定の感情を抱いても、それは恋愛とは呼ばないの?」

「なに言ってんの?お前それ、友情と恋愛がごっちゃになってんだよ。」

「信也。友達と恋人の差ってなに?」

「えー。『そーゆーこと』したいかしたくないか、とかじゃね?」

「そーゆーこと、って何?」

「例えば、手つないだり、キスしたり…」

「ふーん。じゃー、男同士で手つないだりキスしたりしたら変なんだ?」

「キモ!それはないだろー。」

「そーだよね…。」

「お前なに考えてんの?また宇宙規模にして考えてるだろ?もっとシンプルに考えてみろって。お前が単純にキスしたいのって誰だよ?」

「…信也。」

「え?なんつった?」

「信也。オレは信也とキスがしたい。」

「おいおい。やめろって。」

「冗談じゃないよ。ちゃんと考えたことだよ。中1の時から、なんとなく信也の事が気になってて。最初は単にすごく仲のいい友達なんだと思ってた。一緒に馬鹿やって楽しかったし、信也にだったら何でも話せた。」

「…。」

「中2になったくらいから、それとは別の感情が生まれた。信也ともっと一緒にいたい、もっと近くにいたいって、そう思うようになった。そのころ高橋の授業で思春期の話が出たんだ。オレの事言ってるみたいだったけど、なんか違った。オレの信也に対する感情は『恋愛』じゃない。『友情』とも全然違う。すごく悩んだよ。自分が普通じゃないんじゃないかって。変態なんじゃないかって。でも、信也は誰とも付き合わなかったから、オレともいつも一緒にいてくれたから、オレはそれでいいって思ってた。特別でいられるならそれでいいって、そう思ってたのに…。」

 秋の肩が小刻みに震えていた。

「3年になってから、信也の様子が変わった。オレはその時から分かってたよ。もう終わりだって。自分の気持ちを騙してまで手に入れた信也との関係は、こんなことでいとも簡単に崩れちゃうんだってさ。案の定、信也は恋をしてた。結局、付き合った。もう今まで通りにはいかないんだって、分かってたよ。信也のことは邪魔したくなかったけど、親友として応援しないといけないのも分かってたけど、どうしても気持ちが抑えられなかったんだ。…へへ、キモいでしょ?」

 信也には何も言えなかった。頭にはハンマーで思い切り殴りつけられたかのような痛みが走り、心臓が激しく脈打っているのが自分でも分かった。しかし、もう一方の自分が意外にもこの事態を冷静に受け止めていた。アキはホモなんだ。いや、高橋がホモは差別語になるから『ゲイ』と呼べと言っていた。アキはゲイなんだ。頭の中で訂正するや否や、更に心が深く沈むのを感じた。あまりに仲のいい信也と秋を見て、クラスメイトの中には二人を『ホモカップル』と呼ぶものもいた。信也はそう呼ばれることに関して何とも思ってはいなかった。むしろ、好ましく思っている節すらあった。信也にとって、秋の存在はそれほど特別なものだったし、他とは異質だったのだ。アキが『ホモ』であることには、全く気持ち悪いとは思わない。しかし、アキが『ゲイ』だったとは…。アキが1年の頃から自分のことを好きだったなんて。自分が愛に抱くのと同じ感情で見られていたなんて。気持ち悪いを通り越して、恐怖すら感じた。

「…ごめん。」

 そうとだけ言って、信也は走りだした。これが、今の信也に出来る最大限の気遣いだった。こうすることで秋が傷つくことは、信也にも分かっていた。しかし、絶望と失望の入り混じった今の信也の表情を秋に見られる事だけは、どうしても避けたかったのだ。全ての思いを振り切るように、信也は全速力で走った。赤々と燃える夕焼けが、やけに優しい。そんな慰めはいらないと、信也は真下を向いたまま走った。


 昨晩は全く寝られなかった。目の下にはくっきりとクマができていた。洗面所で2,3度乱暴に顔を洗って、遅刻ギリギリの時間に家を出た。結局いくら考えても答えらしい答えは出てこなかった。なにせ自分はゲイではないのだから理解できるはずがない、と信也は半ば諦めの境地に達していた。できることなら、昨日の夕方まで時間を巻き戻したい。そうすれば、思春期なんて馬鹿げた話はしなかったのに。

 案の定、授業には全く集中できなかった。前の方に座っている秋の背中にどうしても視線が行く。昨日までとはまるで別人を見ているようだ。悪い夢なら醒めてほしい。寝不足で頭が働かず、こんなことしか考えられなかった。

 塾に行っても同じことだった。授業中は終始ぼーっとすることしかできず、講師が何を言っても頭に入らない。講師の発する言葉の一つ一つが、頭の中で何の意味も持たずにプカプカと浮かび、次に入ってくる言葉がそれらを理解する前に全て洗い流してしまうのだ。信也はその稀有な体験を半ば楽しんでいた。そうでもしなければ、教室に座っている意義を見出すことができなかったのだ。

「信也くん、今日調子悪そうだったねー。」

「あー、なんかちょっとな。」

「こらー。今の時期に気を抜くなんて、言語道断。受験まで半年切ったんだから、ちゃんとやんなきゃだめだよ、信也くん。」

「相変わらず愛はしっかりしてんのな。明日からまた頑張るよ。」

「そうそう。今月末は、またクラス分けテストがあるんだからね。落ちたりしたらやだからね!」

「ああ。任せとけ。」


 そのクラス分けテストで、信也は下のクラスに落ちた。勉強をしていなかったわけではない。ただ、前回ほどは身が入っていなかったのは事実だろう。軽い自暴自棄に陥った信也は、その日初めて塾をサボった。

 夕飯を食べ終わった頃、愛から電話が入った。

「信也くん。聞いたよ。クラス落ちちゃったんだって?今日の授業にも来なかったみたいだし、どうしたの?」

「わりーわりー。なんか調子でなかったみたいでさ。来月のやつではまた特進に戻れるようにするから、ちょっと待っててな。」

「そんな…。こないだ約束したじゃん。今度のテストも頑張るって。信也くんにとって、私と一緒にいることってそんなに軽いことなの?」

「いや。俺だって頑張ったんだよ。そりゃ、愛とだって出来るだけ一緒にいたいしさ。」

 二人の間を沈黙が走った。意を決したように、愛が声を荒げた。

「うそ!信也くん、私がどれだけ離れ離れになって悲しかったかなんて知らないでしょ?今日だって、何かあったかもってすっごく心配したんだからね。信也くんのバカ。」

 いつも通り愛は一言多い。普段はそれが可愛いのだが、何故か今日はそれが非常に鬱陶しい。この半月間、信也は愛の知らないところで人には言えない悩みと戦っていたのだ。親友にはゲイだと告白され、毎日鬱々と学校に向かわなければならないのだ。そんなやり場のない憤りを、誰が理解できようか。そのせいで学業に専念できない悔しさに、誰が共感できようか。一方の愛はと言えば、自分の事ばかりではないか。信也が下のクラスに落ちて怒っていることも、授業に顔を出さなくて悲しんでいるのも、蓋を開ければ全て愛の都合ではないか。静かに煮えたぎる信也の怒りの炎が、いよいよ限界に達しようとしていた。

「俺さ、別にお前のために生きてるわけじゃないんだけど。」

「ちょっと!それどういうこと?信也くん、自分勝手過ぎるよ…。」

「自分勝手はどっちだよ?お前さ、さっきから俺のためみたいなこと言ってるけど、全部自分の都合じゃねーか。俺、お前のそういうお節介なとこ、マジむかつくんだけど。」

「信也くん、私のこと、嫌いになっちゃったの?」

「俺にだって、色々あんだよ。」

「色々ってなに?」

「色々だよ。」

「私に言えない色々なんてあるの?」

「…。」

「もう…やだ。」

 愛が泣いている。電話越しに聞こえる愛のすすり泣きは、まるで信也の心模様をも映し出しているかのようだった。その涙と一緒に、信也の『黒い』心も洗い流してしまいたかった。だが、無情にもその『黒い』心は、愛の涙すら弾いてしまうのであった。信也は事態の深刻さを改めて痛感した。時期を見計らって、信也は一方的に電話を切った。

 混沌としている。ベッドにうつ伏せになり、枕に顔を埋めながら、信也は低く唸った。誰かにこの思いをぶちまけたい。でも、誰に言えばいいというのだ。亮介はどうだ?だめだ。亮介に限ってこんな話をまともに聞いてくれるはずがない。きっと軽々しく「付き合っちゃえば?ホモカップルなんだし。」などと言うに違いない。愛にはもう頼れない。自分勝手はお互い様だったはずなのに、どうしてこのタイミングであんなことを言ってしまったのだろう。なんで少しの我慢が、今日に限ってできなかったのだろう。後悔の念で押しつぶされそうになった。他の誰かだ。他の誰かに話さなければならない。かと言って、他に頼るものなど見当たらない。四面楚歌とはこういうことを言うのか。ちょうど塾で習った四文字熟語がこんな時に役に立つとは予想だにしていなかった。八方塞がりにされた中国の兵士のような錯覚に陥り、信也は更に低く唸った。

 …アキか。信也は閃いた。そうだ、アキなら話を聞いてくれるに違いない。今までどんな自分を晒しても、受け入れてきてくれたじゃないか。しかしながら、皮肉なことだ。信也にとっての一番の悩みの種に、自分の思いを吐露しなければならないなんて。困惑と羞恥心が入り混じった複雑な感情の波が、やっと燈ったこの小さな灯を飲み込んでしまう前に、メールで用件だけ簡潔に書き、すばやく『送信』を押した。

「すまん。どうしても今会いたい。うちまで来てくれ。」


 ものの15分と経たないうちに、信也の部屋の扉が開いた。布団を頭まで被っていた信也にはインターホンが聞こえなかったのだ。来させたはいいものの、何から話せばいいのか見当もつかない。目を合わせることすら出来なかった。秋は黙って信也の隣に腰を掛けた。

「こんな時間にどうしたの?」

「あ…。」

言葉が出てこない。秋もそれ以上追及しようとはしない。

「あのさ…俺…わかんねーんだ。」

何でもいいから話さなければ、と信也は思いついたそばからとにかく口に出して言った。

「…?」

「俺にとって、アキは大切なんだ。それは間違いない。アキは誰とも違う。愛とも違う。」

「…」

「ここ何週間か。マジで辛かった。アキと今までみたいに馬鹿できないのが、マジで辛かった。」

「…」

「俺にはアキがいないとダメなんだ。他の奴じゃダメなんだよ。でも、その…キスとかそういうのは…やっぱり無理かもしれない。」

「そっか。」

「…今までのことは、なかったことにしよう。」

「え?」

「アキがゲイだってこと、なかったことにしようぜ。そんで、前みたいにまた一緒に馬鹿しようぜ。な?」

この提案が適切だったとは、信也は思っていない。調子がいいことくらい分かっている。しかし、これこそが他でもない信也の本音だったのだ。

「別にいいよ。」

「いいのか?」

「いいよいいよ。信也はバカだからそれくらいじゃないと割り切れないでしょ?」

「へ?」

「頭と一緒に耳まで悪くなった?救急車呼んであげよっか?」

「アキ!このやろー!」

 秋がまた悪戯っぽく笑った。やっと笑った。凍った心が少しずつ融けだした。体が熱い。信也の体に、久しぶりに血が巡るのを感じた。

「バカだからバカって言ったんですけどー。」

「はー?おめーが言うな!」

信也は秋の髪の毛をくしゃっと撫でた。秋は目を閉じてそれを受け入れた。前と何も変わらない。アキが元に戻ったのだ。


 夜中に信也は目を覚ました。午前3時くらいだったろうか。ベッドの下には秋がいる。目を見開いて天井の一点を見つめているようだった。

「アキ。お前寝てなかったのかよ?」

「いや、さっき目が覚めちゃってさ。」

「俺もー。」

「信也。」

「あ?」

「来世って信じる?」

「死んだら別の人間に生まれ変わるってやつか?いやー。あんまり考えたことねーな。」

「オレは信じてるんだ。人って死んじゃったら、なんか宇宙空間みたいなところに魂が投げ出されるんだと思うんだ。」

「はは。お前、また宇宙かよ。」

「それでさ、しばらくすると次の命の『器』に魂が移っていくんだよ。うん、そんな気がする。」

「いちいち大げさだなー。」

「信也。」

「なんだよ?」

「約束してほしいんだけど。」

「は?なんの?」

「オレら、来世では結婚しよう。」

「え?」

「今じゃ無理なのはわかったよ。でも、来世はオレがめっちゃ可愛い女に生まれ変わるから、信也はそのまま男のままね。」

「バカか?もしも生まれ変われたって、また会えるかなんてわかんねーじゃん。」

「いいんだよ、そんなこと。ねー、お願い。来世は結婚するって誓って。」

「うー…。別にいいけど。」

「言ったな。約束はきっちり守ってもらうからね。じゃ、おやすみ。」

そういって秋は目を閉じた。

「変な奴。」

信也もそう言って目を閉じた。


 10月になった。日が随分短くなった。衣替えで男子は学ラン、女子はブレザーになった。あれからというもの、日々が再び平穏さを取り戻した。愛は後日誠意をこめて謝ったら許してくれた。塾で教室が違うのは少し寂しいが、今度のクラス分けテストでは大丈夫な気がしてきた。秋とも元の関係に戻れた。さすがに勉強が忙しくなって秋が泊まりにくるとこはなくなったが、相変わらず学校では馬鹿をやって騒いでいる。クラスメイトから「ホモカップル」と呼ばれる度に、信也は秋との友情を感じて嬉しくなるのだった。


 2日の夜、秋から電話が入った。

「信也。今日は何の日だか知ってる?」

「しらねーよ。」

「当ててみ?」

「じゃーなー…ビックバンが起こった日とか?」

「惜しい!」

「なんなんだよ!さっさと言え!」

「オレの誕生日だよ。」

「全然惜しくねーじゃんか。そーだったんだ?わりーわりー。忘れてた。」

「知ってる?誕生日って、願い事が叶うんだよ。」

「俺の誕生日、別に願い事叶ったことないけどなー。」

「学校の外の金木犀。今日見たら花が咲いてたんだ。」

「あー、俺も気付いた!いい匂いだったよな。」

「オレもこれで来世に行けるんだ。」

「そーかー。なんで?」

「前に言ったでしょ?金木犀の香りは宇宙みたいだって。」

「あー。あれなー。」

「今死んだら、きっと会えるよ。来世で、信也に。」

「アキ?」

「信也。今までありがとう。信也と親友でいられたこと、すごく嬉しかった。大好きだったよ。死にそうなくらい、大好きだった。…さよなら。」

「アキ!お前まさか!」

既に電話は切れていた。掛けなおしても繋がらない。電源を切ったに違いない。

「くそ!」

 信也は、部屋着のまま外へ飛び出した。駐輪場に寄っている時間はない。全力疾走で秋の家へと向かった。止まれ。時間よ、止まってくれ。信也は心の中で何度も叫んだ。まだ、お前とは話したいことがたくさんある。お願いだから、俺を残して先に逝くな。秋がいなくなると考えただけで、信也の内臓は締め付けられるような痛みに襲われた。

 もうどれくらい走り続けただろう。不思議なものだ。どんなに走っても息が全く切れない。ただ、胸は千切れるくらい痛かった。道すがら、秋との思い出が走馬灯のように信也の頭をよぎった。…中学に入って最初の学期末試験、前日にアキと徹夜で勉強したっけ。お互いに問題を出し合ったりしたけど、最後は飽きてゲームしたんだっけ。結局試験中に居眠りして、当時の担任の小川に後でこっぴどく叱られたんだったな。…修学旅行も楽しかった。深夜に宿舎から二人でこっそり抜け出して、コンビニまで夜食買いに行ったっけ。宿舎に戻るとみんなから英雄扱いされて、なんだか嬉しかったな。…バスケの引退試合。前夜は秋と二人で夜の公園で特訓したっけ。アキは下手糞だから全然練習になんなかったけど、それでも随分勇気づけられたんだよな。

 思えば信也の中学校生活、秋がいないことなどまるでなかった。楽しい時も、そうでないときも、いつも隣には秋がいた。そのアキが…死ぬ?そんな訳がない。そんなことがあってはならない。信也は一層がむしゃらに走った。


 程なくして、秋の家に着いた。実は、信也が秋の家に行くのは初めての事だった。母子家庭で育った秋は、母親が遅くまで働いているため、あまり友人を家に呼びたがらなかったのだ。

「夜分にすいません。クラスで一緒の尾滝です。」

インターホンに向かって信也は早口でそう言った。

「ああ。信也君ね。秋がお世話になってます。」

「あの、アキ…いや、秋くんとお話があるんですけれど。」

「そうだったの?どうぞ、あがって。」

玄関を入ると、広くはないながらもきちんと整頓された居心地のよさそうな家であることが分かった。

「あの、秋くんは。」

「秋なら2階にいるわよ。上がってすぐ右のドアよ。後でお紅茶とお菓子を持って上がるわね。」

「はい。」

 信也はスタスタと足早に階段を上がった。こんな時にでも、五月蠅くして迷惑をかけてはならないという気持ちにはなるから不思議だ。

秋の部屋の扉は、言われた通り上がってすぐ右手にあった。扉には『秋の部屋』と可愛らしい文字で書かれた板のようなものが掛かっている。一人っ子のアキのことだ。きっと愛情をいっぱいに受けて育ったに違いない。信也は扉を開けた。

 玄関先と同じように綺麗に整頓された秋の部屋は、秋が描いたであろう絵画が何枚も壁に飾られている。ふわふわのカーペットが足に心地よく、本棚まで歩み寄ると秋の大好きな宇宙の本が並んでいるのが分かった。勉強机の上にはきちんと額に入れられたものも含めて写真が何枚かあった。その中の信也と秋は、どれも笑っている。

 初めて来たにもかかわらず、信也はこの場所を前々から知っていたかのような気持ちになった。どこを見てもアキなのだ。ここにはアキしかいない。ここは『アキ』そのものだ。信也は静かに微笑んだ。…しかし、何かが足りない。圧倒的に、何かが欠けている。いや、何かが余分だとも言えよう。答えは既に分かっていた。


 微笑ましいそれら全ての中心で、秋が首を吊って死んでいた。


 信也は俯瞰的にその光景を眺めた。特に何の感情を抱くわけでもない。驚くほど冷静に、信也は秋の首を絞めている縄を解き、そっとベッドに横たわらせた。カーテンの隙間からこぼれる月の光に照らされた秋の顔は、もはやこの世のものとは思えないほど美しかった。外は静寂に包まれていた。まるで、外界の一切から隔離されているかのような、また、『今』という瞬間がこの二人のためだけに存在しているかのような、異様なまでの静寂だった。頬を触るとまだほのかに温かい。信也は、秋の首についた縄の痕を人差し指と中指でそっとなぞった。そして、秋の唇の上に自分の唇を預けた。まるで最初からこうすることが決まっていたかのように、優しく、優しくキスをした。

 

 信也にとって、そして秋にとっても初めてであろうそのキスは、金木犀の味がした。


 同性愛って、なんだろう。『普通』って、なんだろう。異性を愛さなければ、恋愛ではないのだろうか。だとすれば、作中で秋が抱いた想いはなんと呼べばいいのだろうか。15くらいになると、大体誰でも一度は恋をする。好きな相手のことを悶々と考えて、授業に集中できない時もある。秋だってそうだったことだろう。信也のことを考えて、眠れない夜もあったろう。ただ、秋の場合はその想いが実ることはとうとうなかった。

 人は、人生のうちどうしても手に入れたいものが確実に手に入らないと分かった時、どのような気持ちになるのだろうか。それに対して、どのような行動に出るのだろうか。秋は正しかったのか、それとも間違っていたのか。「来世で結婚する」…一見浮世離れした秋のこの発想は、もしかしたら秋の中では最も現実味を帯びていたのかもしれない。

 この作品を通じて、『愛』について少しでも考えていただけたなら光栄だ。人それぞれ異なった形をした愛。異性愛、同性愛、家族愛、人間愛、友情、絆…それら全ての愛が、この作品には詰まっている。どれも優劣なく、どれも尊い『愛』なのだ。

(平成二十二年十一月十九日)


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