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完璧な王太子殿下の隣で

完璧な王太子殿下の隣で、私は彼と幸せな夢を見た

作者: 日室千種
掲載日:2026/07/17



 私は、何ひとつ自分で選び取ったことがない。


 選び取る余地のない切迫した環境でも、厳しく躾けられ望みも言えないわけでもない。

 ただ、自分の指で何かを指し示す必要がなかっただけ。

 力ある公爵家の娘に産まれ、両親家族の愛情はもちろん、全てにおいて、望む前に十分に与えられて育ったからだ。母乳さえ、空腹に泣き始める前に与えられていたかもしれない。


 年頃となり同世代の社会に触れれば、相応の洗礼を受けて、私も変わっていたかもしれないけれど。

 その道は、私が七つの歳に早々に閉ざされた。

 王太子殿下の婚約者として指名された私は、公爵家の娘である前に未来の王太子妃として、さらに手厚く見守られ、公爵家と王城から出ることすら稀になったからだ。

 王太子殿下の掌の上で、何を思い煩うこともなく、あたたかく極上の愛に包まれて、穏やかで優しい夢を見ていた。

 夫となった彼が突然倒れて、夢が幻となるなど思いもせずに。





 夫は生まれながらに王太子と定められ、幼い頃から多忙で、同世代の子供と遊ぶ機会などなかったそうだ。

 筆頭公爵家の娘とはいえ、私はただの貴族令嬢。出会いの場は限られる。

 私が夫に初めて会ったのは、王城で開かれる王妃様のお茶会だ。女性と子供だけの、少し親密な場で、それとなく子供同士の相性を見るための会。

 いつもは王妃様と近しい貴族夫人とその子らが集う場に、母である王妃様との交流のためと短時間顔を出された王太子殿下に、参加者として名を名乗り、ご挨拶をしただけの出会いだった。


「王太子殿下、初めまして。シャツェーレです」


 なんら特別なこととは思わずに、親族の年長の子に挨拶をするように名乗った私を、王太子殿下はじっと見つめて、やがて静かな笑みを浮かべた。

 その瞬間、彼の金の髪と金の瞳が、キラキラと光を放つように輝いた気がした。


「こんにちは、シャツェーレ。私はイスウァルデリヒ」

「イスウァルデリヒ、様」

「ふ、上手だ。君はそう呼んでいい。誰かに指摘されたら、許されたと言っていい」

「はい、イスウァルデリヒ様」

「うん」

「私のことはシャッツェと呼んでください。その方が響きが良いでしょう?」

「ふふ、わかったよ。シャッツェ」


 イスウァルデリヒ様——その後、すぐにルディと呼ぶようになった——は、まだどうしたって子供の歳だったのに。大人でもたじろぐほどに、落ち着いた優しいひとだった。

 不躾に名を呼ぶ不敬を知らず王族との距離感がわからない私を、他の大人に叱られないようにと先回りして庇い、全てを受け入れてくれた。だけではなく、いつのまにか私は、定期的にお城に上がってルディと親しくすることが決まっていた。


 家に戻って、これは叱れなくなったわねと少し困ったように首を傾げるお母様が、お父様に宥められていた。

 後になって、わかったことがある。

 両親は、私が重責を伴う王太子妃となることを望んではいなかった。恥をかいて、生まれて初めて叱られることになっても、殿下の目に止まるよりはよいと、予め礼節を厳しく教えなかったのだろう。もし必要だったら、お茶会の前にきちんと教えてもらえていたはずだ。

 その画策が、かえってルディの中に私を焼き付けることになってしまったけれど、時すでに遅し。

 一月後には、私とルディとの関係には婚約者という名前が正式に与えられた。

 ルディは、幼く優しげであっても王族で、きちんと自分の意思を通すことのできる方だったのだ。

 私にとってもルディは初対面から好ましくて、何度会っても嫌なところは何一つ見つからなかったから、何も問題はない。


 婚約者となっても王族に嫁ぐための勉強など必要はないと、王家からのお達しがあったそうで。私の在り方は変わらないまま、公爵家の家族と過ごすように、王城のルディの側で過ごす時間だけが増えた。

 そうして、私に見えるところでも、そうでないところでも、ルディは私を大切にしてくれた。まるで私が繊細な薔薇の苗か、羽の生え揃わぬ雛鳥かのように、甲斐甲斐しく。


「シャッツェ、こっちにお座り。そこは日が当たりすぎる」

「シャッツェ、喉が渇いたろう。花茶はどう? 香りの強すぎないものを淹れさせたよ」

「元気がないね、シャッツェ。何か気がかりがある? 手を握っておくからゆっくり話してごらん」

「いいとも今日は丸一日、シャッツェのために空けておいた。一緒に何でもできるよ。時間はたっぷりある」


 父母でさえ、公爵夫妻としての忙しさのために、ここまで私に寄り添う時間はなかったと思う。

 私の中の一番が、母でも乳母でもなく、もちろん父でもなく、ルディになるのに時間はかからなかった。


 ルディは、さすがに王太子殿下らしく、私を構うのに遠慮がなかった。分刻みの予定をこなす日々の隙間の時間に、私の都合を合わせさせた。

 私の朝食の時間が1時間早くなったり、帰ろうとしていた馬車を途中で王城に引き返すこともあったが、私との時間を作るためにルディが二つの授業を同時に受けているなどと聞くと、そのくらいは合わせてもいい気がした。

 私だって、ルディに会いたかったから。


 ルディが中心になってくるくると振り回される私の毎日。


 そんなルディは同時に、私のすることを決してダメだとは言わなかった。

 嫌いな野菜を残しても、好きな本だけを何度繰り返し読んでも、途中で飽きてしまった刺繍を侍女に代わりに刺してもらっても。何も問題じゃないよと微笑んだ。

 こればかりはと、野菜が足りなくならないようにこっそり他の野菜を取り入れるよう指示していたそうだけれど。

 私はそんなことは何も気づかず、ルディの隣で、時にうたた寝をし、時に何かに夢中になりながら、心のままに毎日を過ごせばよかった。






 ルディの完璧な庇護下にいても、外と関わることを禁じられていたわけではない。

 ふつうの貴族令嬢のような社交からは遠ざかっていた私が、他者の目を気にするようになったのは、侍女同士が話していた「ゴシップ」とやらがキッカケだ。


「まあ。私が表に出ないからと、長年の婚約者である私を差し置いて、取って代われないかと期待をする貴族や娘が絶えない、というのね」


 王城の廊下で噂話をしていた侍女たちは、私に呼び止められて真っ青になっていた。もっと知りたかったのに、倒れそうになりながらそれ以上のことは言えませんと言う。

 私付きの侍女たち尋ねても良かったが、最も頼れるのは、ルディである。

 私は素直に、ルディに話を持ちかけた。


「ルディ、私が表に出れば、そんな人たちは諦めるのかしら」

「どうかな。別に今のままで構わないよ? そもそも、シャッツェが社交をしていないのは、私に優先的に合わせてもらっているからだし。しつこい場合は遠ざける」

「でもルディ、そう簡単にはあしらえない相手もいるのでしょう?」

「まあ、まだ、いく人かは」


 珍しくルディが眉間に皺を寄せたのに、少しドキドキした。不機嫌な顔は、滅多に見られない。厳しくなる雰囲気も、素敵だった。

 私は、少し、いつもより踏み出してみたくなった。かといって、社交を始めるわけではない。そこまでは、したいと思わない。


「ねぇ、どの家の何という令嬢なの? 私、その方たちとお話ししてみたいわ」


 ルディは、私のやりたいことに、ダメとは言わない。そんな全幅の信頼を乗せたおねだりだ。

 ルディは、金色の目を見張ったけれど、やっぱり微笑んで、いいだろうと認めてくれた。


「良い縁もあるかもしれない。機会を設けよう」


 ルディは約束通り、何人かの令嬢と顔合わせの機会を作ってくれた。




 その一人が、ジエリオラだった。

 ジエリオラは、侯爵家に嫁いだ母の妹の娘で、私より1つ年下の従姉妹にあたる。叔母が若くして他界したために母と侯爵家も疎遠になっていて、それまで会ったことはなかったけれど。

 初めて会ったジエリオラは、首をまっすぐ持ち上げて、周囲を警戒するように見回していた。所作は美しいけれど張り詰めていて、首を垂れてはいけないと思い詰めているかのようだった。真顔の顔立ちは、私より五つは年長だと言って誰も疑わないだろう。


「来てくれてありがとう」

「初めまして、従姉妹様。血の近さのよしみで、これから仲良くしてください」

「まあ」


 二人きりになった途端のぶっきらぼうな挨拶に、私は驚いて、まあとしか言えなかった。

 するとジエリオラは半眼になって、さらに上から私を見下ろすようにした。


「どうして貴女みたいな人が、婚約者に選ばれたのかしらね」

「まあ」


 今度はもっと驚いた。

 目の前の人に意見をぶつけるのでもなく、貶す言葉を独り言のように溢して見せるなど、時代がかった宮廷小説でしか読んだことがなかったからだ。

 演技か演出かと思ったが、顔合わせの時間中ずっとその調子で、ジエリオラは本当に私のことが嫌いのようだった。

 厳重に囲われていた私は、ジエリオラと会って初めて、私のことを嫌う人がこの世にいるのだと実感したのだ。純粋に、心から驚いたものだ。


 最終的に七人の令嬢と会ったけれど、そこまで攻撃的な対応をしたのはジエリオラ一人だった。


「シャッツェと会ったことで、六人の令嬢が諦めてくれたよ。予想外だったな」

「そうなの? ねえ、ジエリオラは残ってる?」

「いや、彼女も他の家との婚約を結んだはずだよ」

「そうなのね」


 少し、ひっかかった。


「彼女が気になるの?」

「うん、そうかも」


 ジエリオラと会って得た驚きは、甘くはないけれど新鮮で、自分が見知っていたのとは違う世界が見える気がして、悪くはないものだった。

 だから、ジエリオラが私を嫌っているのだとしても、私はジエリオラのことを嫌いではない。

 そんな、良くも悪くも相手の気持ちは気にしないところは、ルディに似たのかもしれない。


「侯爵令嬢の相手は辺境伯だ。嫁げば、都からは遠くなる。結婚するまで、自由に会うといい」

「そうね、そうするわ」


 というわけで王城にジエリオラを呼びつけることになった。

 当日、さぞ怒っているだろうと思ったのに、ジエリオラは不思議とまんざらでもない照れたような顔つきをして、ただ顎だけはツンと上がっていた。


「私とまた会おうだなんて、おかしな人ね」

「そうね、あなたのことが気になったの。そうしたら、ルディが会うといいって機会を作ってくれたわ」

「——あなた、本当に自分では何にもできないのね」


 ふんと鼻で笑う気の強さも、こころなしか以前より勢いが弱い。

 そのピリピリとした刺激を内包した幻のような甘さを、私はかなり気に入って、その後も何度か城に招いて話をしたのだった。


「殿下はいずれ王となられるのよ。その隣で殿下をお支えするのに、そんなに何もできないなんて、お役に立てるはずがない。妃になろうなんて考えずに、どこかの領主の妻か何かにおなりなさいよ」


 毎回、迷惑そうにやってくるジエリオラは、仕方ないわねと言いたげに腕を組んで、少し頬を染めてそんなことを言う。

 私は、すなおに首を傾げた。


「まあ。公爵家に生まれた娘が、王太子に求められたのを蹴って、どこかの領主に嫁ぐわけにはいかないでしょう? それに、私だって何もできないことはないわよ?」


 楽しむ域までは達していなくとも、それなりに難解な文を読み意図を解し、また文を書く。会話も同じ。だから、事実としてできることはある。


「もう! 違うわよ! いいえ! できると貴女が思い込んでるのならば、かえって悪いわ。貴女、それだけできるくせに、選ばないんだもの!」

「選ぶ?」

「そうよ。政治だって人生だって、自ら選択肢を選び取ってこそ、でしょう? 貴女が自分で何も選び取らないから、貴族たちもそこを弱みと見て突くのよ」


 そういうことか、と私は頷いた。

 ただできないよりも、できるけれどしないという方が罪が重いと言われれば、それはそうかもしれない。


「でも、必要ないのだもの」

「必要でしょう!? 王妃になるのよ? 必要じゃないなどと、誰が。まさか、殿下がおっしゃったの?」

「ルディが? いいえ。私がそう思っているの」

「……呆れた!」


 彼女はその日は肩を聳やかして去ったが、私は真実しか語っていない。


 ルディが望むのは、私が、私の心のままに在ること。


 ルディが美味しそうに飲む苦味のあるお酒を、私も楽しんでみたくて少し分けてもらった時は、すぐに取り上げられた。舌に乗せただけで口に合わないと思ったことが、ルディはすぐにわかったらしい。


 ルディが読んでいた地政の本を試しに読んでみたら面白くて、ハマってしまった時は、止められなかった。ルディは微笑ましいという顔で、似た本を次々に提案してくれたくらいだ。でもふと、少し食傷気味だなと思った時には、提案の頻度は、気が向いた時に読めるくらいになった。


 刺繍は好きではないけれど、レース編みは好きだ。編んでいると、やめるべき時を見失って、つい夜更かしをしてしまう。それでも素敵な作品ができて満足している時は苦ではない。ルディも甘い顔で見守ってくれる。

 けれど、夜更かしの疲れと焦りのせいで編み目がキツくなって作品が歪んでしまい、がっかりしているのをルディに見せてしまってからは、たびたび、侍女から切り上げて眠るようにと促されるようになった。私のお屋敷の侍女なのに、ルディの指示を聞くのはおかしいけれど。誰もがそんなものだと思っている。


 他にもある。他国の言葉を学びたいと教師をつけてもらっては、あまりピンと来ずに勉強をやめてしまってを繰り返し、結局、今は誰も使わない古代神聖語を学ぶことに決めた時も、ただ、いいねと背中を押された。


 私に会いたいという数多くの申し出に気が向かない時も、いつだって、ルディは私のよいように計らってくれた。

 むしろ、無理をして役にたつ勉強をしようとか、我慢して誰かの意見を受け入れようとすると、少し微笑んで言うのだ。


「シャッツェ、本当にそうしたい?」


 と。


 ルディは、私より、私の心を知っているみたい。

 私はルディの愛が心地いい。私も、ルディに心地よく居てほしい。

 だから、ルディのためにも、何かをする時にはまず、自分の心に問うことにしている。

 これは、好き?

 これは、してみたい?

 そこに嘘があっては、すぐにルディにバレてしまうから。

 私はいつだって真剣に、私に向き合っている。




 時が満ち、私は成人を迎えた。

 当初の予定通り、その日に婚儀を行い、王城に入った。

 そして予定を大幅に前倒しにして、ルディは翌日、王となった。私は一日だけ王太子妃となり、すぐに王妃としてルディの隣に立つことになった。


 流石に疲れ果てて、二人が寝室で向き合ったのは、即位の翌日の夜だった。

 ルディは、寝着姿の私を満面の笑みで正面から抱き上げて、くるくると回った。はしゃぐルディは、不機嫌なルディよりも、もっと希少だ。


「ははっ、やっとシャッツェを迎えられた。私は頑張った」


 子供の頃より子供らしく喜ぶルディに、私も笑みが溢れた。


「私も嬉しい。これでいつでも会えるわね」

「そうだね、どんなに遅くに寝台に入っても、シャッツェがそこにいてくれる」


 しみじみと言うので、私は不思議に思った。


「婚儀を上げる前から城で暮らすこともできたのに」


 ルディが望めば叶うことだ。むしろ、早朝に呼び出したり、日に二度呼び出したりするより、穏便ではないだろうか。


「私は、シャッツェを公爵家から奪うわけだからね。せめて成人までは一緒に過ごしてもらいたくて、耐えたんだ」


 奪うという言葉を使うあたり、私の中でルディが最優先になることは、ルディの中では確定なのだろう。もう、かなり前からそうなっているのだけれど。


「シャッツェから望んでくれれば、話は別だったんだけど」


 私を下ろして、一転、拗ねたようなことを言い出す。

 まあ、と私は頬を染めた。拗ねるルディは、初めて見たからだ。


「ルディは忙しいから。夜はゆっくり一人で過ごしたいかと思っていたのよ」

「寂しくはならなかった?」

「それは、すこし。でも、翌日も会えるから」


 ルディが小さく笑ったけれど、それはなんだか、私の意識をゆらゆらと絡めとるような、妖艶な笑みだった。

 触れてみたいな、と思いながら見つめていると、ルディが私の手をすくい取り、私が触れたかった頬に押し付けた。


「あ」


 思ったより、柔らかくない。

 自分とは、違う肌。

 触れたところから、目覚めてしまいそう。


「シャッツェ。夜も寂しくてたまらなくなるよ。すぐにね」





 

 王となったルディは、王太子時代から固めてきた地盤を活用して権威を高めていく。城も国も、ルディを中心に力強く回り、綻びはない。

 私は、完璧に廻る国の仕組みの中に自分の居場所を作りたいとは思わなかった。

 それよりも、ルディが私の顔を見てほっと僅かに肩を下げる、その瞬間を大事にしたかったから。

 夜も昼も決して寂しさを感じさせないように、常にそばにいたかったから。

 私たちは、誰よりも強権を握る王と、その横でただ愛されて微笑む王妃となった。


「甘やかしてばかりでは、困ります。こうも何もできなければ、いつか妃殿下がお困りになるでしょう」


 小言を言うのは私の父公爵のみ。

 ご隠居された前国王陛下は、息子の好きなようにしたらいいと、にこにこなさる。

 即位の儀に参列してくれたジエリオラだって、仕方ないわねなどと言いながら祝ってくれた。


 ふわふわと柔らかくて甘い日々が過ぎる。

 そんな私の元で、ほっと息をついては、一層輝きを増して邁進するルディ。

 何もできない王妃が、何の問題にもならないほどに、彼の治世は安泰だった。

 さらには二人の間に、新しい命も授かって。


「ルディ、見て。可愛い子よ」

「ああ、シャッツェ。よく頑張った。よく……。ありがとう」

「名付けをして」

「私が付けていいのか?」

「ええ、私はルディの付けた名で、この子を呼びたいわ」

「——エアヴァナハト。エアヴァナハトはどうだろう」

「エアヴァナハト。素敵ね。素敵。優しくて、強い名前だわ」


 ルディが与えてくれるものたちが、私の中をあたたかく満たす。






 ルディは、ある日突然倒れた。

 吐き気と頭痛がおさまらず、数日のうちに、みるみる痩せてしまった。


 私は、その時期のことをあまり思い出せない。

 私をふわふわと包んでいた甘い輝きがすべて黒い毒に塗りつぶされて、息をすると胸が爛れて吐いてしまうのに、息をしなければならない。そんな無情な世界で、苦しみ続けるルディにずっとずっと縋り付いていた。


 あとで、聞かされた。

 呆然とする私の背を撫でながら、ルディは、まだ十に満たないエアヴァナハトに後を託していたと。

 後を託すのに、何もできない王妃には頼れなかったのだろうと、心無い噂が流れていると。


 どうでもいい。

 どうでもよかった。

 だって、私はよくわかっていたから。

 ルディが私に言葉をかけなかったのは、私が望むことを叶えられないと知っていたからだ。

 それまではずっと、私の願いを聞いてくれていたのに。


 元気になって。

 また穏やかな日々を、共に過ごして。

 お願い、置いていかないで。


 ルディは、私の最後の願いは、叶えてくれなかった。


 暗く沈む王の寝室に、やがて強い香が焚かれた。

 医師が、我が子が、父が、何かを言っていたかもしれない。

 全てに耳を塞いで、ずっとルディの手を握っていたと思う。でも、飲まず食わずの体はいつしか意識を失い。目が覚めた時には、ルディは美しい白晶の棺に入れられていた。


「母上、さいごですよ。お別れをしなくていいのですか?」


 まだあどけない声の息子に問われて、私は身についた習慣で、ぼんやりと胸に問いかけた。


 お別れをしなくてよいのか?

 お別れ。

 お別れなど。


「したくないわ」

「母上、ではその花輪は、私が」

「したくない」


 遺された者の誰か一人が、死者の冥福を祈って花を贈る。

 私がしなかったら、息子がする。私は、したくない。したくないけれど、息子にもさせたくない。


 私は、心と足を地に擦り付け引き摺りながら、ずしりと重たく絡みつく香りの花輪を持って、ルディの側に歩み寄った。

 棺の蓋はまだ開いている。今なら、まだ起きて、シャッツェと私を呼んで、エアヴァナハトと二人まとめて、その腕に一緒に抱きしめてくれるかもしれない。

 私は半分夢を見ながら、痩せてしまったけれど美しく装ったルディに、花に乗せようとした。


 手が、勝手に花を握りつぶした。

 ガタガタと震え出す体を、自分では止められない。


「いや」


 まだ、別れたくない。


「いやよ」

「母上!」


 また、そこから記憶がない。


 のちに、葬儀は、エアヴァナハトが代わりの花を供えて、滞りなく済んだと聞かされた。

 私は、七つの子供に一人で父親を見送らせ、最愛の夫に最後の愛を伝えることもできなかった。




 遠く、霞んだ世界の中で、誰かが何かを決めていく。私の気持ちなど、誰からも問われない。

 王位は、ルディの従兄が継ぐこととなった。二代前に王弟が興した一代限りの公爵家が、功績により伯爵位を得た。その伯爵を継いだばかりの男。名は、アグリオス。

 私とエアヴァナハトは王城を出て、公爵家に戻ることになる。

 ではさらにその次代は、エアヴァナハトか、それとも——。

 わあわあとたくさんの声が、嵐のように私の意識を潰していく。









『シャッツェ』


 ふと、愛おしい声に呼ばれたような気がして、はっと目が覚めた。


「——お父様?」

「っ、シャツェーレ。お前、正気に」

「今、私を呼ばれましたか?」

「呼んだとも。私も、お前の母も。エアヴァナハトも、何度も」


 尋ねておいて、私は「違う」と思った。私を呼んだ声は、その誰でもない。


「ああ、意識がはっきりしたところで、すぐに聞かせる話ではないな。よいか、これだけ承知しておくのだ。エアヴァナハト殿下、いやエアヴァナハトは、辺境に送る。それが、あの子が無事に生きる唯一の道だ」


 父はそれだけ告げて、慌てて母とエアヴァナハトを呼ぶよう周囲に命じている。

 ここは——まだ王城だ。今は、いつだろう。

 いや、それよりも。

 私は、急にぐるぐると世界が動き出したような目眩を感じながら、必死に、言われたことを考えた。


「あの、子は、次代の王、ではないのですか? ……なぜ、辺境か、死か、などと。どういう、どういうことです?」


 エアヴァナハトは正当かつ優秀な王子だ。まだ幼いことは、一時王位を譲る理由にはなるかもしれない。だが、申し分なく成長して成人すれば、王位に最も相応しいのはエアヴァナハトのはずだ。

 なのになぜ、そんな仕打ちを受けるのか。


 私の猛抗議に父は苦い顔をしたが、先の発言を撤回しようとはしなかった。

 しきりに私の体調を気にかけながら、陰鬱な見通しを説いてくる。

 一時的にといえど、ルディの従兄が王位に就けば、後継に己の子を望むは人のさが。その時もっとも邪魔になるのは、誰か。


「陛下は権力をご自身に集めすぎた。まだ幼い子供に託すには過ぎたる権力だ。従兄のアグリオス様は、継承権を持つ方々の中では最も安心して王位を任せられると、貴族たちの総意なのだ。だが、候補の中では穏当だとしても、エアヴァナハトのために動いてくださるというわけではない」


「穏当などと、誰が! あの方は私欲が強いと聞きました。それでルディも彼を遠ざけていた」


「否定はせぬ。だからこそ、取り入る隙があると見られたのだろう。陛下と疎遠だった貴族たちが手を組んで多くの同意を集めた。こちらが立てられる候補は、高齢すぎたり、病がちでいらしたりと、頼りない。ましてこうなっては、まずエアヴァナハトの命を守らねばならん」


「そんな! ……さきほど、貴族の総意とおっしゃいましたね。ということは、お父様も、賛同されたのですか?」


 父は、ますます渋い顔をした。


「シャツェーレ、そなたとて、先ほどまで気力もなく諦めていただろう。エアヴァナハトはまだ七つ。十歳を越えていたら、考えた。だが、七つの子を、王という過酷な立場には置けない」


「王位を今すぐ継がせることは、諦めなければならないでしょう。でも、私はあの子に、王位を継いでほしい。だって、王位も、命も、もとよりあの子のものです!」


 私の願い。当たり前に叶えられるはずのこと。

 けれど、叶えてくれる人は、もういない。


「そうだな、そうできたら、どれほどいいか。だが、ひとつを決断すると、もつれた糸が絡まり合って付いてくる。切り離すことはできない。そんな甘い世界ではないのだ。今のあの子に王位を継がせることは無理だ。であれば、次にアグリオス様があの子を引き上げてくださると思ってはいけない。むしろ、命を狙われると思いなさい」

「なんて、邪な」

「それが、人というものだ」

「だからと、それを呑み込んで受け入れろと……?」

「そうだ。王位などより、生き延びよ。王位に興味はないと示し、隣国にでも……」

「あんなに、優秀なのに。ルディの、王の子なのに、ですか?」

「まだ幼すぎる。お前は、あの子を守れるのか? あの子に命を差し出せと言っているも同然だと、わかっているのか」


 返す言葉を失って、私は駆けつけた母とエアヴァナハトに涙ながらに抱きしめられながらも、父の言葉ばかり考えて、上の空だった。


 エアヴァナハトは、気丈に振る舞い、まるでルディの代わりをしようとするかのように、私の側から離れなくなった。

 夜も目が離せないとばかり、エアヴァナハトは私と一緒の寝台で眠りたがった。赤子のうちから別室で眠らせていたので、母親となってから初めてのことだ。

 生まれたばかりの頃は、小さなゆりかごすら大きく見えるほどだったのに、もう私が押しつぶしたりはできないくらいには大きくなった。

 それでも、エアヴァナハトは、赤子の頃のようにあたたかい。ルディとは違う、力強い体温。

 王城の慣れ親しんだ寝台が、ひどく冷たく余所余所しく、私を再び暗い闇に塗り込めようとしてくる夜だったけれど、エアヴァナハトに触れているところだけが、灯火のように私を繋ぎ止めた。




『シャッツェ』


 ああ、これは夢だ。

 夢を見るより、考えなくてはいけないのに。

 悲壮に思い悩む私に、ルディは優しく尋ねる。


『悩むのはいいが、そう沈むのはよくない。どうしたら憂いが晴れる?』


「エアヴァナハトの未来を、よいものにしたいの。でも、どうしたらいいのかは、わからない」


 全て、ルディに任せてきた。今更私が悩んでも、よい考えなど浮かばない。


「ルディ、あなたがいてくれたら、あの子を立派な王に導いてくれたでしょうに」

『導く、か』

「ええ、きっと、最善の道を選んでくれたでしょう?」

『最善の道は、私にもわからないよ、シャッツェ。私も、常におそろしかった』

「あなたが……? ……ごめんなさい。私は、あなたの重荷を、ひとつも分かち合わず、負うこともなくやってきた。それは、もしかしてあなたを、苦しめていた——?」


 ぽかりと、目が開いた。

 答えは聞けないまま。汗をびっしょりとかいて、体はすっかり冷え切っている。

 思わず隣を見て、そこに夫ではなく息子のあどけない顔と、その頬の涙のあとを見つけて、私はどっと暴れ出す心臓に翻弄された。


 息子を王に。いいえ、どんなものでもいい、息子の明るい未来が、ほしい。

 私の中にかつてあったどんな願いより、強い望みだった。

 でももう、ルディはいない。

 いないのだ。





 無策のまま、数日が過ぎた。

 私の様子がおかしいのを心配してか、父公爵が手を回したのか、あるいは時流を読んでのことか、侍女も侍従も私の要求には応じない。

 ルディの側近たちと連絡を取ることも、有力な貴族たちに話を聞くことも、父公爵との面会もできなかった。


 自室で本を読んだりレースを編んだりと、好きに過ごすことはできる。エアヴァナハトも、私から離れようとはしない。

 外から見れば、以前と同じ、表だった活動や政治向きの話からは遠ざかって、常春の狭い世界に籠ってふわふわと生きる、今までと同じ王妃に見えただろう。


 五日後、朝から侍女たちが部屋に集まり、私とエアヴァナハトを飾り立てた。

 流石に何のためかときつめに問えば、城の大広間で戴冠が執り行われるという。

 ルディの時とはまるで違う、急拵えの即位の儀を、アグリオスが要求したのだと。


 ほら、欲だけで動いている。そう私は内心毒づいた。次に、不安になった。本当に、即位だけで、終わるだろうか。

 その後の、エアヴァナハトの身の上は。

 その時はじめて、ぞっと全身が総毛立つほどの恐怖を感じた。

 即位後は、アグリオスが王となる。王がエアヴァナハトに留まれと言えば、エアヴァナハトは辺境に落ち延びることすら叶わない。


 王位に興味などないと、もっと早くに、よくよく示しておかねばならなかったのではないだろうか。

 息子が大切ならば、父の言うとおりにすればよかっただろうか。

 決断が遅すぎたかもしれない。

 私の愚かさが、我が子に跳ね返るかもしれない予感に、震えを止めることができなかった。


 それを、見かねたのだろうか。

 侍女の一人が、潜めた声で囁いた。


「公爵様はエアヴァナト殿下を支持するかどうかで迷われ、道を探っておられました。ところが今回儀式が強行されることとなり、対応が間に合っておりません。アグリオスの性急さに多くの貴族が不快を示すも、もはや誰が味方で誰が敵かもわからない状況です。……せめて王妃陛下とエアヴァナハト殿下を城から生きて連れ出そうと、手を尽くしております。どうか、平静にお待ちくださいませ」

「……そなたは?」


 侍女は、兄だとしてルディの側近の名を口にした。

 誰が味方かわからない今の城の中で、ルディの側近たちは、私とエアヴァナハトの味方だろうか。


「陛下に忠誠を捧げたからには、王妃陛下にも忠誠を捧げます。どうか、我らを信じ、短慮は起こされませぬよう。アグリオスは、王妃陛下に手ずから王冠を授けてもらおうと、そうお考えです」


 侍女はそれきり、口をつぐんだ。他の侍女たちが近寄ってきたためだろう。


 衣装の衣擦れの音だけが響く中、少し落ち着くと、見えてくるものがある。

 貴族たちが求めたのは、ハリボテでもよい、誰かが王となり形ばかり王権が続くこと。そのハリボテの王を支援して、自分たちが利益を得ること。

 ハリボテの王に、真の正統性など不要なのだ。

 泣き腫らした王妃が玉座の間で、王の従兄に王冠を手ずから授ければ、傷心の未亡人を支える頼もしい王、王妃にも頼られる次代の王として、印象付けることができると考えているのだろう。そんな、曖昧なものでよいのだ。


 私にしてみれば、唾棄すべき茶番だ。

 私は、エアヴァナハト以外に、ルディの王冠を被せたくはない。


 けれど私は、すでに痛いほどに思い知っていた。

 ルディを見送ってから、誰も彼も、王妃としては尊重してくれても、私の言葉を聞こうとはしない。何も選び取らず、何も成すことのなかった王妃に、あえて問いかけ、耳を傾けてくれる人などいないのだと。

 まして、今は隣で、エアヴァナハトが美々しく飾り立てられている。儀式にエアヴァナハトは参加しないが、念のため会場の近くに待機するのだと言う。

 それは、逃げ出すための準備か、それとも葬儀の時のように、私が役に立たない時にはエアヴァナハトを代理としようというのか。いずれにせよ、どこかの誰かの思惑にエアヴァナハトは囚われている。


 もし私が今更声高に拒絶を叫び出したなら、私は引っ込められ、エアヴァナハトが押し付けられることになる。

 正統なる王子が、自らの手で、自分を殺すかもしれない男に王冠を授けることを、強いられるのだ。

 それだけは許し難く、結局私は亡者のように、見えざる力に従えられて、身を引きずるようにして大広間の上座に立った。


 かつて何度も、ルディの隣で立った場所だ。

 アーチの重なる高い天井が、採光の妙技によって、玉座の真上が最も明るくなるように四方八方から照らされている。

 王権の歴史と繁栄をまざまざと見せつける、壮麗な場所。

 ここはこんなに、がらんとして寂しい空間だっただろうか。


 私の用意を待ちかねていたように、供を引き連れた尊大な態度の男が、ズカズカと進み出て、私の前に膝をついた。

 ルディに似たところなどひとつもない従兄、アグリオス。美男とも称されることもあるそうだが、隠しきれない笑みに口元が緩み、卑しさが覗いている。

 形ばかり膝をついたまま、供の男たちと何事か言い合っては、声を上げて笑い、こちらには礼も視線も寄越さない。


 そんな無作法を見るのは初めてで、私は少し、呆然としていた。


「……王妃様。ご無事で何よりです」


 すぐ隣から囁かれて、ようやく気がついた。私から一歩離れたところで、目を伏せたまま王冠を乗せた台を捧げ持つのは、ルディの側近の一人だ。


「そなたは。……さきほど、妹と名乗る侍女が」

「妹はお役に立ちましたでしょうか。今日は側近だった者皆が大広間におります。この後は速やかに城を辞す所存にて、陛下と殿下の御身、必ずお守り申し上げます。すでに殿下の周りにも護衛が……」


 次の手順を説明するかのような密やかな声に導かれて、ちらりと柱の影を見た。

 確かにエアヴァナハトの周りに、見覚えのある顔が立ち並んでいる。本当に、エアヴァナハトを守ろうとする人間もいるのだと、ぼんやりと感じとる。


「王妃陛下、戴冠ののちは、王子殿下と決して離れず」

「おい、早くしろ。膝が痛い」


 小声の会話は、アグリオスには聞こえていなかったようだ。


「は、ただいま。王妃陛下、こちらの王冠を手にお取りください」


 言われるがまま、かつてルディが身につけていた、馴染みのある王冠をビロードの台から持ち上げた。

 初めて手にする金の冠は、ずしりと重い。

 これがルディが背負っていた重荷かと思うと、目が、また熱をもつ気がした。

 この王冠の重み。本当に手放してしまって、いいのだろうか。


 体が、錆びついたように動かない。


「おい、もったいぶるな」


 待ちくたびれたらしい。傷心の未亡人に対する思いやりなど表面上も取り繕うことなく、アグリオスは立ち上がり近づくと、私の腕を無遠慮に掴んだ。そのまま手を引き寄せて、王冠を自らの頭に載せさせようとする。

 だが、乱暴に引かれ体勢を崩した私の手から、王冠は転げ落ちた。


「なんてことを! 王の象徴だぞ! 勿体ぶるからこんなことになるんだ! 何がしたいんだ!」


 私を突き飛ばすように放して、いきりたつアグリオス。


 何がしたいか。この数日で初めて私にそう尋ねたのが、この男だとは。

 決まっている。

 これは、ただの悪い夢だ。

 早く目を覚まして、ルディの隣に戻りたい。

 私の望みを聞いて、叶えてくれるあの人の隣に。


『シャッツェ』


 また声が聞こえて、ルディの微笑みが眼裏に浮かんだ。

 抱き上げられた息子が、正装した父の頭上に輝く王冠を珍しがって、手を伸ばした時。軽く嗜めた私に、大丈夫だと笑ったのだ。


『王冠など、あれが王だとわかりやすく見せるためだけの帽子だよ。シャッツェ、私は王になることは決まっていたけれど、良い王になろうと決めたのは、貴女に幸せでいてほしいと思ったからなんだ。だから私は、貴女に感謝している。貴女こそが、私にとっては真の王冠かもしれない』


 きっとルディは、誰よりもその重さを知っていた。私の知らない王としての顔で、光に付随する闇も見てきたはずだ。

 その上で、王冠なってなど、と笑い飛ばしていた。


 私はゆっくりと姿勢を正して、アグリオスを見下ろした。階を転げ落ちた王冠を追いかけ、熱心にその傷を確かめる男を。


 この男は良き王となるだろうか。

 いや、決してならない。

 母の贔屓目を引いても、まだ七つのエアヴァナハトの方が、ルディに近い王の心を持っている。


「おお、よかった。無事のようだ。そら、これで……」


 私は、目の前に突きつけられた王冠を、王剣で薙ぎ払った。


 王剣。この国の王が常に身に帯びる、王冠と対になる美しい金の短剣だ。ルディが倒れてから、必ず持ち歩くようにと託されて、今まで肌身離さず持っていた。

 抜かずの剣と言われ、鞘の中に刀身はない。


 黄金の輝きが一閃。

 王冠は男の手から飛び、今度は放物線を描いて玉座の足元に叩きつけられた。

 紅い毛氈の上で鈍く動きを止めた王冠は、繊細な細工があちこち折れ曲がっていた。


「な、な、なに」

「控えよ、アグリオス」

「はあ!? おい! 前王の無能な取り巻き共! この女を引っ込めろ! あとで覚えておけよ。俺が王となったら、貴様ら安穏と暮らせると思うな」


 我を忘れて喚き散らすアグリオスに対して、ルディの側近たちは私を守るように立ちはだかった。その顔には不安と焦りが浮かんでいるのに、だれも、私に何をしたいのかなどとは問い掛けない。


 それでいい。

 私が望みを言って、叶えてくれる人は、もういない。

 ルディの代わりを探しても、いるわけはない。


 ここからは、私の番なのだ。




「アグリオス。そなたに王たる資格はない。王冠は王の象徴にあらず、王たるものの資格はその魂にある。王冠にかまけ、貴族の和を軽視し、己の欲だけを優先するような愚か者が王となるなるなど、害悪でしかない」


「なにを生意気な。たかが王妃がそのような」


「無礼者。そちらこそ、たかが伯爵であろう。この国で、王妃は、王と並ぶもの。正当なる王子を産んだ母たる私は、誰より優先して、中継ぎの王ともなることができる」


 今の今まで、大広間の装飾に同化していたかのようだった貴族たちが、雷に撃たれたかのように騒めいた。慣例に強い古老たちが目を白黒させつつ頷き、王城の官吏たちが視線を交わす。

 誰からも、訂正の指摘は出てこない。


 馬鹿なことを、とせせら嗤うアグリオスたちは、気がついていない。

 大広間の貴族たちは、ゆっくりと静まり、静観の構えだ。

 アグリオスの即位を見届けにきたはずの貴族たちが、どちらに付くか、今になって判断を迷っている。

 アグリオスは国に貢献した者たちを侮辱し、王となった果ての暴虐を図らずも自ら予言した。うまく取り入ろうと考えていた貴族たちすら、明日の我が身を不安に思ったのだろう。


 だが、誰もがまだ、戸惑いから抜け出せない。互いの出方をうかがったまま、動かない。

 アグリオスを見放そうとしている流勢が、そのまま私の方に来たりはしないようだ。


 しかたがない。私は何も成してこなかった。王の隣で微笑んでばかりの王妃は、実績がないどころか、アグリオスのようなわかりやすい我儘も言わず、内面を読めないのかもしれない。

 信じるにせよ、利用するにせよ、誰もが、私に期待を持てないでいるのだろう。


 私は内心叫び出しそうになりながらも、静まりかえった大広間から、顔を背けずに耐え続けた。

 恐れも、迷いも顔に出さぬように、口の中を噛む。

 ルディ……ルディ……。

 心の中で名を呼んで、溺れる者のように縋り付いて、強張った体に息を吸い込んだ。


「私が、女王となる」


 宣言と共に、側近たちの背後から歩み出た。

 不思議なもので、それまでぎゃあぎゃあと叫んでいたアグリオスは、ぐぅっと唸って一歩下がった。

 こんなに足が震えることを、私一人でできることではない。

 きっと、ルディが隣にいる。


 私は足元の歪んだ王冠を片手で拾うと、向きも位置も適当に、自分の頭の上に載せた。

 頭にうまく嵌らず、首がぐらぐらする。

 不恰好だろう。でも、王冠は、ただの帽子だから。


「世迷言を!」


 アグリオスが憎々しげに叫んだ、その時だった。


 大広間のどこからか、パチパチと手のひらを打つ音がした。

 人垣が割れる。

 背の高い偉丈夫を連れて現れたのは、首を真っ直ぐに伸ばした貴婦人だ。


「ジエリオラ」

「私ども侯爵家一同および辺境伯領とその一族は、新たな女王を支持し、忠誠を誓いましょう」


 数年ぶりに会う昔馴染みの眼差しは、決して甘くはない。


「女王陛下、貴女には何もご自身の実績がない。空っぽです」


 そうだ。かつて彼女の忠告を聞き入れなかった私には、何もない。


「けれど、前国王陛下の側近を務めた一族の者より、貴女あってこその陛下であったと聞いております。貴女は陛下の、支えであり、道標。陛下が国を導く、指針そのものであられたと」


 ジエリオラが、私からだけ見えるように、わずかに口を尖らせた。


「女王となられても、その指針を錆び付かせぬとお約束いただければ、我らは全力で治世をお支えいたします」


「——夫の名に誓って、約束しましょう。頼みます」

「御意」


 ジエリオラとその夫である辺境伯が、夫婦揃って私に膝を折った。

 それを契機となった。

 貴族たちが一斉に手を打ち足を踏み鳴らし、波が伝わるように女王万歳の声が上がっていく。

 父公爵たちが、なだれるようにしてエアヴァナハトの周りに集まった。

 ルディの側近たちが私を取り囲み、明るい目で私に向かって頷いた。

 アグリオスたちは、味方を失い、呆然として大広間の隅へと押しやられた。


 私は玉座に歩み寄り、その前に立つ。

 すかさず側近の一人が、静まれ、と声を張り上げたが、その必要はなかっただろう。

 大広間の全員が、私の瞬きひとつも見逃さないとばかりに、注目をしていた。


 かつて、何度も目にした光景だった。

 違うのは、かつてその視線が集まるのは隣のルディだったのが、今は私に向いているということ。

 そして集まった視線に押されて後ろへよろめきそうになるほど、重い圧を感じたことだ。

 恐ろしいほど長い沈黙の中、しわぶき一つ起こらない。

 皆が、私を待っていた。


 堪らず「ルディ」と呼びかけようとして、それすら見られてしまうことに気がついた。

 誰にも頼れない。

 誰かに代わってもらうことも、退くこともできない。

 逃げ場がない。

 追い詰められる。

 とても、とてもおそろしい。


『シャッツェ』


 声が聞こえた。

 不思議だ。今は特に、近く聞こえる。

 玉座の前だからだろうか。

 それとも、今ようやくにして、私が選び取ったから?


『貴女は貴女の思うがままがいい』


 ルディ。あなたはいつも、こんな思いをしていたのね。それなのに私には、私のままであれと言ってくれていた。

 強い人だったのだ、私の夫は。


「——皆、聞いての通りだ。私が次の王となる」


 ルディの口上を思い出して切り出したせいで、少し男性的な口調になった、

 けれど声は細く、自分でもわかるほど情けなく震えていた。

 話す内容だって、決まっているわけではなかった。

 けれど。


「ははっ、ほら聞いたかあの声。あれで女王なんて、まるで向いてないだろう」


 隅の方から揶揄が投げつけられた瞬間、口から言葉が突いて出た。


「アグリオス、そなたほどではない。緊張は人の子ならば誰にでもあることだ。それを揶揄するそなたは、やはり人の心がない。——私は、せめて人の心を知る王にはなろう」


 そうだ。私は、無理に良い王にならなくてもいい。


「私には、夫のような良き王となる才覚はない。王となる覚悟を決めるのにも、ここまで時間をかけてしまったことからも、明らかだ。……夫は、あまりに突然いなくなってしまった。私の心はまだ悲しみから抜け出せてはいない。だが、国はどんな時であれ揺らいではならない。私は悲しみを一時忘れ、ふさわしき者が育つまで、この国の安寧と繁栄を守っていきたい。それが、私の、夫への愛でもある」


 あの時、棺に向けては送れなかった、精一杯の想いを言葉に込めた。


 その時、覚えていなかった記憶がふわりと浮かんだ。

 一秒も惜しんで苦しむルディの側にいたのに、疲れに抗えずうつらうつらとしていた時。私の背を、震える手で撫でながら、ルディが傍に佇むエアヴァナハトに声をかけていた。


『私は父として王として、幸せに生きた。お前の母は強い人だから心配はない。だがまだ幼いお前を置いていくことになるのは、無念だ。エアヴァナハト、頼む。心のままに、よく生きよ』


 ところどころ掠れた声は、どの程度息子に、周囲に届いただろう。


『頼む……。シャッツェの、側に』


 側にいろ、とは言っていなかったと思う。でももしかしたらエアヴァナハトにはそう聞こえて、そのおかげで、私は息子と身を寄せ合い温もりを分かち合うことができたのかもしれない。


 ルディは私に、側にいる、と言ったのではないか。

 ゆっくりと座った玉座は、まるで夫の温もりを覚えているかのように、温かかったから。

 そこで、ずっと待っていてくれたかのように。


「これを私の即位の儀とする。皆、よろしく頼む」


 私が口を閉じると、大広間が湧き立つような拍手に包まれた。

 後に、ひしゃげた王冠と輝く王剣を手にした女王として繰り返し描かれることになる、私の即位の瞬間だった。


『シャッツェ』

「ルディ。これで本当にいいのか——。いいえ、やっぱり聞かないわ。これが正解かどうかは、誰にもわからないのよね」

『そうだ。だから、正解になるよう努めるんだ』

「助けて。見ていて」

『見ている。ずっと』

「そうね、知っている。あなたはいつも見守ってくれてた。やるわ、私。エアヴァナハトが無事に王位を継ぐまで」




 ★




 中庭にその姿が見えた時、私は思わず微笑んだ。

 ジエリオラは、かつてと変わらず、少し口を尖らせて不本意を表明しながら、頬を少し上気させて嬉しそうという、複雑な表情でやってきたからだ。

 夫たる辺境伯は、丁寧に頭を下げるものの、遠方に控えて近寄ってこない。


 いいのよとジエリオラが言うがよくはないので、そちらにも席を用意するよう申し付けた。


「女同士の会なんだから来ないでと言うのに付いてきたのだから、立たせておけばいいのよ」

「相変わらずご夫君に厳しいのね。辺境に移住する前はアレで可愛いところもあるのよ、なんて軟化してたのに」

「ちょっと! あの人耳がいいの! 余計なことは言わないで! あっ、このナッツの焼き菓子だけ、あの人にも出してあげてくださる?」


 しょうがないから気を使ってやるのだとばかり、夫の好物を指定する。こんなところが可愛いのだろうなと思って、彼女が嫁ぐ前にルディにもそんな見解を話したことを、ふと思い出した。


「どうしたの。あっ、別に見せつける意図なんてなかったのよ!」


 慌て出すジエリオラがおかしくて、私は大丈夫だと手のひらで押し留めた。


「気を遣わせてごめんなさい。思い出すことはあっても、よそのご夫婦を憎らしく思ったりしないわよ。ても、そんな貴女は、きっと憎らしく思うのでしょうね。それだけ好きなのだから、優しくしたらよいのに」

「な、なな、な。や、優しくなんて……いいじゃない! そんな話をしにきたんじゃないわ」


 確かに、それ以上は夫婦の話だ。

 つい、娘時代のように話せて楽しくなってしまった。

 声を出して笑ったのは、ルディを失って初めてかもしれない。


 即位の儀から、二月。

 忙殺されていた私の予定が空き、そろそろ辺境に戻るというジエリオラと会う機会を設けることができるまでに、それだけの時間が必要だった。

 王城は、大きな混乱はなく、あるべきところに皆が戻ったような形だ。

 アグリオスや他の貴族の意図を汲んで動いた城の使用人たちも、私の即位ののちは、改めて忠誠を捧げてくれている。もちろん、心のうちまではわからないけれど、今は全てが、滞りなく動いていた。

 ルディがいた頃と同じに。


「それにしても、即位の儀はなかなか良かったわよ」

「え?」

「みんな、貴女のことただの中継ぎ、仮初の女王だと思っていたのに、貴女ったら、新女王のもと体制を刷新なんて誰かが言い出したのに、冷たい顔をして『必要ない』ってバサーって」


「だって、必要ないでしょう?」

「そうね、でも少しでも利を得たいと、仮初の女王という餌に食いつき、おこぼれに預かる好機だと考えていた者はそれは多かったはずよ。なのに、貴女が、北の陸路整備は誰、南は誰、水運は誰、なんてつらつら誦じて挙げたから、みんな驚いたのよ。この王妃は案外飾りじゃないんだってね」


 そこで誇らしそうな顔をするジエリオラに、私はとっておきの砂糖菓子を一つ、お皿に取り分けてあげた。


「ルディがね、疲れて寝付けない時に考えを整理したいって、寝台に入ってから口述していたの。半分寝ながら聞かされてなんとなく覚えていただけよ。内容は、ルディの頃のまま、現状維持」

「あー、そんなので覚えちゃうのね。そう、そうよね。貴女はそういう人よね。演説もみごとだったわよ、って褒めようと思ったけど、やめておくわね」

「ふふ。ジエリオラこそ。あの時……貴女が声を上げてくれたから、ひっくり返せた。見事な間だったわ。それに、味方でいてくれて、ありがとう」


 私は予感していた。

 今後長く、ジエリオラとは切っても切れない関係になっていく。

 良い関係にしたい。だから、誠実に心から、感謝を伝えた。ジエリオラがどんどん顔を赤くして、顎をつーんと上げていくのを、楽しみながら。


「でも、あんなに私のこと嫌っていたのに、不思議ね」

「なっ、貴女、すぐそうなんでも口にして!」

「だって、従姉妹を強調しながら名乗りもせず、仲良くと言いながら微笑みもしなかったんだもの」


「あのねえ、その前にあの顔合わせだって、酷いものだったでしょう?」

「酷い?」

「ええ、そうよ。まず殿下が貴女にピッタリくっついて現れて、目の前でのろけにのろけて、こちらには視線で威嚇して、その上で令嬢二人で仲良くって残されて。仮にも殿下との婚約を希望しているっていう立場で、どう仲良くしろっていうの? もう、気に食わないところを言うしかないと思ったのよ」

「まあ」


 そうだっただろうか。

 わかっていない私に、いやあのね、とジエリオラは眉間を揉みながらも教えてくれる。年下なのに、姉のような振る舞いが好きなのだ。


「殿下、いえ陛下はお優しいけれど怖い方だったわよ。あなただけよ、でろでろに甘やかされていたのは。私以外の令嬢はみんな落差に絶望して婚約者の座をすぐ諦めたの。方針を変えて、王妃の友人を目指そうとしてみれば、二度目以降は貴女との面会を許されなくて。皆、心をへし折られて早々に婚約して行ったという噂よ。え、あれって、そういう作戦だったのかしら」


「作戦は知らないけど、私はジエリオラにだけはまた会いたいと言ったわね」


 当時をぼんやり思い出して話すと、ジエリオラははいはい、と手を振りながら、耳を真っ赤にさせた。


「私、当時他の令嬢たちからちょっと孤立していたのよ。ずけずけものを言う、淑女らしくないって。……なのに、また呼ばれたから、変だなぁと思ってたのよ! なんていうか、自信がついた気がしてたけど。貴女のきまぐれってことなのね。やあね!」


 それから、少し思案げな顔で、もしかしてと問われた。


「三年前に、辺境に優先的に薬を送ったのも?」


 改まって聞かれるほどのことはない。


「ああ、あのこと。あの時はルディも心は決まっていたのよ。隣国から入ってくる病だもの。最前線で食い止められた方が全体の被害は少なくなるじゃない」

「王城の主要な人間の薬を確保してからにしろって声も、あったんでしょ?」

「あった、みたいだけど、その辺はルディがなんとかしたのよ」

「王と王妃の薬は不要だその分早く辺境へ、って宣言を皮切りに貴族たちが同意したって聞いたけど」

「それは確かに私が言ったかも。だって、相手は病よ。身分が高いからって気にしないわ。こちらがそんなことを気にしていたら、戦う前から負けるじゃない」


 ふ、ふふふ、とジエリオラが肩を震わせて笑い始めた。


「報告は真実だったってことね。いえ、真実なのはわかってたけど、貴女から見たらそうなるのね。——なんであれ、貴女の示した指針のおかげで、辺境の何万の民が救われた。私の夫も、家族も救われたわ」

「まあ。こちらこそ。辺境で食い止めてくれたおかげで、国中に病が蔓延せずに済んだし、次の流行にも、備えられたわ」

「「ありがとう」」


 声が重なって、若い娘のように笑った。

 過去の選択に感謝をされるのは、素直に嬉しい。

 問題ごとは禍福交互にやってくる気はするけれど、今は、心でルディにも、よかったわねと労りを送ろう。


 この頃は、ルディの声が聞こえる時が少なくなった。

 誰にも話してはいないけれど、あんなにはっきりと声が聞こえるのは、私の心の作り上げた幻想ではない、ように思う。期待している、というべきか。

 王家の古い紋章には、光と風が入っている。かつて古き時代には、風を読んで天候を知る一族だったという。

 風と親しい一族なら、もしかして本当に、ルディは私のそばで見ていてくれるのかも。

 なんて。

 真実など、分かりようがないけれど。


「ねえ、あの、すごく個人的なことを聞くから、嫌だったら引っ叩いていいからね」


 ジエリオラがまた面白いことを言い出した。


「なあに? 引っ叩いていいお話?」

「いや、貴女なんかに引っ叩かれても、きっと痛くも痒くもないわね。じゃあ、もし嫌だったら、私が代わりに、私にこれを貴女に質問させた奴をボコボコにするわ」

「質問?」


 そこからジエリオラはまたひとしきり唸って逡巡していたが。


「あのねえ、新しい恋人とかはいらないの?」


 予想外だった。

 まだルディを喪って二月しか経っていない。

 いつかは出てくる話だったかもしれないが、あまりに早い。さらにそれがジエリオラ経由だとは、想像もしていなかった。


「いや、こんな話、早すぎると思うのだけど。ほら、付け込まれないように、という意味もあるし。陛下一筋だと、慣れてなくて取り込みやすいと舐められるかもとか。……その、寂しくはない?」


 最後にぼそりと心配を口にするのが彼女らしくて、私はまた、今度は大声をあげて笑った。

 ジエリオラは、ぽかんとしている。


「ご心配ありがとう。でも大丈夫。頼れる人はたくさんいるもの。それに、私、陛下一筋ですけれど、寝室を共にした殿方は陛下以外にもおりましてよ」

「えっ!?」

「エアヴァナハトです」

「な、なんだ! 親子じゃない! びっくりさせないでよ」

「ふふ、あのね、私があまりに落ち込んでいた時に、寄り添って眠ってくれたの。子供の体温って高いのね。しっとりしてて、心が抱きしめられてるみたいだったわ。あれ以上の幸福は、ないわね」


 ——ルディとの、夢の中のような時間以外は。


「もうそんな機会はないでしょうけど、私、あの夜の思い出だけで、一生力をもらえるわ。——だから、代わりの誰かは要らないと、心配症のどなたかにお伝えしてくれる?」


 ほっとした顔を見せたジエリオラは、しまったとばかり、キリリと眉を吊り上げた。


「あっそ! まあ、今いい顔してるから、貴女はそれでいいのよね。困ったら、その、すぐに言うのよ!」

「ありがとう、ジエリオラ。私の親友」


 な、な、なと繰り返しながら真っ赤になったジエリオラは、


「もう帰る! また来るからね!」


 と夫の元に逃げ出した。


 入れ替わるように、テラスから少年が俊敏に駆け出してきた。

 わたわたとするジエリオラと辺境伯とを不思議そうに見上げながらも、立ち止まってきちんと挨拶をしてから、母上!と駆け寄ってくる。

 二月の間にもみるみる少年味を増してきているが、上気した頬はまだまだ、かつてのふくふくとした頬の滑らかさを思い出させた。


 気のおけない友の労りと励まし、愛しい息子の親愛に満ちた眼差し。

 まだ頼りない王に休暇を与えてくれる側近たちと、真摯に仕えてくれる使用人たち、そして程よい距離感で支えてくれる家族。


「ねえ、ルディ。これ全部、あなたが私に与えてくれたのね。ありがとう」

『二人で得て来たものだ。シャッツェ、こちらこそ、ありがとう』


 久しぶりに、返事が聞こえて、微笑んだ。


 抱きついてきたエアヴァナハトが、私の顔を覗き込むように確認して、嬉しそうに破顔した。ずっと疲れて酷い顔をしていたので、心配をかけていたのだろう。

 あの夜身を寄せ合って過ごして以来、王家の母子としてはふれあいが増えた。

 私はこれが、とても嬉しい。

 隣にいるべき人がいないと、ふと感じてしまうことがあっても。


 けれどその時、するりと私と手を繋いだエアヴァナハトが、キラキラとした金の目で空を見上げた。


「母上、今、気持ちいい風がいたね」

「気持ちいい風?」

「うん、少し父上の匂いのする風!」


 ぐ、と一瞬、目の奥が熱くなった。


「まあ、それは気持ちいい風ね。お父様を思い出せて、嬉しい風だわ」

「うん! ねえ、母上。今日はおやすみだと聞いたよ。料理長にお願いして、父上の好きだったお菓子を作ってもらったんだ、一緒に食べよう」

「ありがとう、エアヴァナハト。楽しみだわ」


 あたたかな掌が私を連れていく。

 私は、この手を守るためにこれから長く戦うだろう。

 ルディに見守られながら。

 彼の隣で見ていた甘い夢は、まだ続いている。




(了)

リクエストをいただいての「完璧な王太子殿下の隣で、私は彼に恋を囁く」のスピンオフでした。未読の方はぜひ、そちらもよろしくお願いします!

シリーズから読みに行けます。あるいは下にリンクあり↓


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シリーズ作品
「完璧な王太子殿下の隣で、私は彼に恋を囁く」
十数年後のエアヴァナハトのお話です。
― 新着の感想 ―
愛し愛された大事な人を亡くして、なお王位を守ったお母様のエピソード 息子の婚姻譚とはまた違った重みがあってめっちゃ良かったです〜!
後書きのリンク先が間違ってますー
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