10、感謝
公爵様はルノーと別れ、こちらへと歩いてきた。
「エスペランサ嬢、大丈夫だったか?」
「はい。こちらは問題ありませんが……」
開口一番に言われた言葉を聞いて、私は目を丸くした。心配される事などひとつもなかったからだ。首を傾げていると、公爵様がそう訊ねた理由を教えてくれる。
「ああ、いや。少々顔色が悪かったように見えたんだが……エスペランサ嬢はあまりこのような場所に来た事がないだろう? 気分を悪くしているのではないかと思ってな」
そういえば、血を見ただけで倒れてしまった人もいたな、と思い出した。
私が王宮にほぼ監禁されていた頃、ジオドリックが私を怖がらせようと、倒した血だらけの魔物を見せに来た事がある。確かに私は驚いた……けどそれだけだ。
その後私と別れたその後に別の令嬢と出会ってしまったのか、その方が魔物を見て倒れてしまった事で苦情が来たらしく、翌日私に当たってきた記憶を思い出す。
「お気遣いありがとうございます。ですが意外と私、図太いのですよ。公爵様の戦いをしかと拝見させていただきました」
「そうか、それならいいのだが……手を組んで見ていたようだったからな。もしかしたら、苦手なのかと思ってな」
「その事でしたか。恐れ多くはありますが、お二人が怪我をしないようにと祈らせていただいたのです」
その言葉に公爵様は虚を突かれたような表情で私を見ている。私は大丈夫である事を伝えるためにも、にっこりと微笑むと、彼はふっと口角を上げて笑った。
「そうだったか。君が祈ってくれたお陰で、私はルノーに勝つ事ができた。感謝する」
初めて見る彼の笑顔に、私は予想外の一撃を与えられた事で頬が火照る。公爵様のまっすぐな瞳が恥ずかしくて少し俯いていた私だったが、隣にいたリーナが微笑んでいると気がつき我に返る。
そうだ、私は許可をもらいに来たのだった。
改めて公爵様へと視線を送ると、不思議そうな表情でこちらを見ている彼がいる。
「公爵様、おひとつ許可をいただきたいのですが」
そう告げて、私はお願いをした。
「なるほどな」
私の話を聞いた公爵様は考え込む。彼に相談したのは、朝の事についてだ。
私はどうしても日の出と共に目が覚めてしまう体質だった。けれども、夜遅くまで働いているリーナたちをそんな早くから私に付き合わせたいと思っていない。だから、リーナたちも他の使用人と同じくらいの時間から、私の世話を始めるようにしてほしいと考えていた。
私はまだ婚約者の立場。侍女の仕事を勝手に変える事などできないのだ。
「私としては朝、読書に集中する時間ができるので有難いな、と思いまして」
「まあ、君が良いというならそれでも構わない」
思った以上にすんなりと許可を出した公爵様に驚いたのは、リーナだったようだ。
「旦那様、本当によろしいのですか?」
「ああ、屋敷内の事だからな。エスペランサ嬢が問題ないと言うのなら、それで良い。ただ、来訪者が泊まりで来る場合などもある。その時はマルセナの指示に従ってほしい」
「承知いたしました」
有難い事に許可を得る事ができたので、明日からは通常の時間に顔を出してもらえば良い。二人に苦労をかけなくて良かったと胸を撫で下ろした。
しばらく雑談をした私たち。そろそろお邪魔かと思い、訓練場を後にしようと考えていたが、公爵様の後ろからルノーが現れた。
彼は私を見て、二度瞬きをしてから手で目を擦る。
「おや、初めて見るお嬢さんですな?」
「……エスペランサ・ホイートストンと申します。この度公爵様の婚約者としてこちらに参りました」
ルノーに礼を執ると、彼は再度目を見開いて私を見た。そして今まで武人の顔つきだった彼の表情が、私の言葉で一瞬にして穏やかな顔つきに変わる。
「やはり魔導皇女様の……いやはや、魔導皇女様によく似ていらっしゃる」
「母の事をご存知なのですか?」
母が亡くなってから乳母も追い出されてしまったため、母の幼少の頃の事を聞く機会がなかったのだ。記憶にある母は、私を抱きしめてくれて「大丈夫よ」と声を掛けて微笑んでくれた。優しかった母。
ルノーは昔話を懐かしく感じているのか、目を細めて遠くを見ながら話し始めた
「儂は昔、公爵様のように帝都の騎士として働いてましてね。まあ、しがない子爵家の三男坊だったので、儂は騎士として身を立てていたわけです。儂は騎士としての才能があったらしくてですねぇ、一時期バレンティナ様の護衛を勤めさせていただいたのですよ」
母が十一歳くらいの話らしい。
「あの時の皇女様はそれはそれはお転婆で……あの時から魔法や魔術に傾倒されていましたよ。いつも魔法や魔術を色々と試しては、失敗されていましたね。それでも『楽しい』と笑っているお方でした」
私の頭の中の母とは似ても似つかない。けれども、なんとなく想像ができるような気がした。確かに母はいつも微笑んでいた。けれども、たまに舌をぺろっと出したり、片目をつぶったり……お茶目なところもあったように思う。
「帝国へと嫁がれる、とお聞きした時は驚いたものです。ですが、こんな可愛らしいお嬢様を残されたのですね」
ルノーは母を思い出して感極まったのか、私の手を取ろうとした――その時。
「ルノー様、淑女の手に易々と触れてはなりません」
私の前に颯爽と現れたのは、マルセナだった。




