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1.前編「日常の異常」

 季節は立夏。

雲一つない快晴の青空と、肌を照りつける太陽が眩しく光る。湿度がない分、過ごしやすくはあるが、じわりと汗が滲む気候だ。


上野駅から動物園通りをひたすら真っ直ぐ進む。途中で右折して、清水坂を上った先に見えてくるのは――都立忍ヶ丘(しのがおか)高等学校。

校舎に入ってすぐのピロティには、ステンドグラスから優しい光が降り注いでいる。


そんな一角の教室に並ぶ、白とチェック柄の制服集団。長袖のワイシャツと半袖のポロシャツが混ざり合い、その姿だけで外の移ろいが見て取れる。


体育が終わった後の四限目。

疲労や空腹が入り混じった生徒は、どこか気だるげに授業を受けていた。

昼休みを心待ちにした者が、落ち着かない様子で時計へと視線を向ける。

そんな授業後半の気が緩んだ頃、数学担当教師の稲塚 翔平(いなづかしょうへい)は、生徒を一瞥してから口を開いた。


「ここ、テストに出すからなー」


その数秒後――チャイムの音が鳴り響いた。


教師の言葉に渋々了承する者、不満を口に出す者と、教室内の反応は様々だ。生徒の表情を眺めながら、稲塚は教材をまとめて抱えた。

廊下側の席、前から二番目に座る熟睡した生徒の肩をトントン、と叩く。寝惚けた男子生徒は「なに?」と言いながら、隣に立つ稲塚に驚きで目を見開いた。


「おはよう、もう昼休みだぞ?分からない奴は、早めに聞きに来いよ。先生テスト作りがあるからな。」


「腹へったー」


「今日弁当ないんだー。食堂行かない?」


「ごめーん、先食べてて!多分、また先輩来るからさ――。」


教師の話を聞き流しつつ、クラス内は賑やかな空気へと切り替わる。

その様子に小さくため息をつきながら、稲塚は静かに教室を後にした。


 そんな教室のど真ん中。両腕に顔を乗せて机に突っ伏す男子生徒が一人。

黒縁眼鏡と合わさった鋭い目つきが際立ち、眉間にしわを寄せたその顔は、憮然とした表情をしている。


眠そうに教室の時計を見上げると、机に引っ掛けた鞄を持ちながらのっそりと立ち上がった。

伸びっぱなしの黒髪と姿勢の悪い猫背のせいで、陰気さを象徴しているようである。――三木遊希(みき ゆうき)は一瞬だけ、教室内を一瞥した。


寝起きでぼやけた視界を、慌ただしく横切る人影に肩が揺れた。咄嗟に派手な女生徒を避けようと、自然と身体が後ろへしなる。


(……うわ、びっくりした。)


女子特有の甘い香水の匂いが、嗅ぎ慣れない鼻孔を刺激した。空腹なはずなのに、その匂いで食欲が霧散した気分だ。

賑やかな教室から早く離脱したくて、俺は鞄を抱えながら足早に二年B組を後にした。

生徒が行き交う廊下を無関心で突き進む。


渡り廊下を超えたすぐ、特別教室棟にある美術室前には、既に多くの生徒が集まっている。

昼食の時間すら惜しむように、彼らは大好きな制作時間に青春を捧げているのだろう。


俺も絵を描くのは好きだ。

しかし、そこに芸術性や熱い思いは求めていない。

俺のような二次創作に勤しむオタクという者は、美術ではなくキャラクターへの愛が原動力だからである。

推しの為に課金し、推しを愛する為に絵を描く。


そんな訳で、入学初日に押し付けられた美術部のチラシは、帰宅と同時にゴミ箱へと流れ落ちていったのだった。

それはそれとして、学校のレクリエーションで言われた「部活に絶対所属」という言葉に、俺の神経はかき乱された。


適当な文化部に、という甘い考えは一瞬で崩れ去る。どの部活も蓋を開けてみれば、コンクールや野外活動の条件で溢れているではないか。

そんなん聞いてない……という訳にも行かず。

どうしたものかと悩んでいた所、それは起こった。


 とある生物の授業の日。俺は人込みを避けるため、クラスメイトが教室を出て行く姿を眺めていた。

生物室に残っているのは、雑談に夢中の女生徒が数名。

そろそろ戻っても大丈夫かと、教材とペンケースをまとめて席を立つ。


汚れ一つない綺麗な水槽の前を横切り、教室を出ようとした。

いつの間にか生物の担当教師――島 芽々湖(しま めめこ)先生が目の前に立っていた。

姿勢の悪い俺と、あまり身長の変わらない島先生が、何かを企むように微笑んでいる。


『三木 遊希さんだよね?暇なら亀の水槽洗うの、手伝って欲しいんだけど。』


『嫌ですけど。』


至極面倒な……いや、便利屋に使われるのを危惧した俺は、即答でお断りした。

だけど、そんな俺の言葉に怯むことなく、島先生は変わらない表情で話を続けた。


『生物部に入ってくれるなら、君に静かで作業のしやすい部室の提供をする、と言ったら?』


口の端を少しだけつり上げた島先生は、さながら裏取引をする輩のようであった。

脳内で甘言に惑わされるなと、用心深い俺が騒ぎ立てる。いや、しかし。

なんて言い訳を並べながら、あまりにも魅力的なその言葉に、思わず心が揺らいだ。


多くの生徒が行き交う学校で、静かな環境スペースが手に入るというのは、あまりにも興味を引く話題だったのだ。

葛藤する俺に、島先生は追い打ちをかけるように耳元で囁いた。


『君が描いている“ソレ”は、人目に付きたくないもの……じゃないのかな?』


ソレ、と指をさした先には、小さめのメモ帳が一つ。生物の教科書とノートに挟まれた、一見では気付きにくいそれを、島先生は迷わず指摘した。

これは、いつでもどこでも、同人のネタやプロットを殴り書きするための“お供”である。

人の目につかないよう注意を払ってきたはずなのに、先生には見つかっていた。

それが動揺に繋がって、俺は島先生を見上げると、恐る恐る口を開いた。


『……どこまで、知っている?』


『……ふふ。』


不敵に笑う島先生は、答えの変わりにポケットからとある用紙を取り出した。

三つ折りされたその紙を開き、俺の眼前へと突きつける。目の前の用紙に書かれた「入部届」の文字。

それはもう、逃げ場がないということを示していた。同時に、俺の選択肢は実質一つだった訳である。


『大丈夫、私達は同類だから。口の堅さは保証するよ……。』


意味深なことを言う島先生の顔は、なぜだかとても楽しそうだった。


そんなこんなで、俺は島先生のペットを世話する代わりに、授業のない生物室を好きに出来る権利を得たのであった。

入部届の記入を済ませた書類は、光の速さで先生に回収され、翌日から生物部の一人として水槽掃除もさせられた。

最低限の部活動、と言う名の島先生のお手伝いをする。これが、俺の平穏な作業環境の代償として提示された、契約内容だったのである。


別に俺は流されやすいタイプでも、うっかり壺とか買わされるようなタイプでもない。そう、断じて。

これはキブ・アンド・テイク。つまり、お互いの利害が一致してのこと。

二次創作、同人作成、漫画やイラストを学校で伸び伸びと創作するためである。

後付けの入部理由だが、生き物は別に嫌いじゃないからまぁいいか、という及第点である。


熱心な美術部員と目を合わせないよう、一階への階段を降りて行く。

それだけで、廊下の喧騒が少し遠のく気がした。


扉の上に掲げられた『生物室』の文字。

いつものように扉を開けば、水槽から漂う独特な匂いが鼻をついた。

広い教室に並ぶ四人掛けの木造机。その隣には、シンクとガス栓が並んでいる。


一番後ろの窓際席に鞄を置くと、近くの扉から女性の話声が聞こえた。なんの躊躇いもなく、準備室へと繋がる扉を開く。

そこに広がるのは、高校の生物室にしては“整えられすぎた”、水槽と照明が立ち並ぶ小さなアクアリウム。

壁沿いに並んだ様々な大きさの水槽には、色とりどりの魚たちが優雅に泳いでいる。

ポンプからブクブクと泡立つ音がそこかしこから聞こえ、青白い光が水槽を美しく照らしている。


その並びの一つ、亀の水槽に張り付いていた島先生は、扉の音に振り返りもせず背中を向けたままだ。

まるで、俺以外の生徒が来るとは思っていないような、そんな調子で声だけをかけてきた。


「おー、来たのか三木。相変わらず熱心だねぇ。」


「こんにちは、島先生。今日は何したらいいんですか。」


「そっちの水槽三種類に餌やりしといて。あとさぁ、今週バイトが無い日ってある?水槽洗いたいんだよね~。」


「えぇ……じゃあ、明後日の木曜なら。」


「いいねー、部活動に真面目な生徒は、評価に値するよ。」


「……そらどーも。」


ペットの亀を愛おしげに見つめる島先生には、冷めた視線をぶつける俺の気持ちなど眼中にない。


早急に終わらせてしまおうと、熱帯魚が泳ぐ水槽に餌を降り注いだ。

腹を空かせたネオンテトラやグッピー、なんか見たことない綺麗なメダカ達が、一斉に水面へと集まりだす。

浮かんだ餌を突く姿は、少しだけ愛嬌を感じて癒される気がした。


魚の食事姿に誘われたのか、忘れかけていた空腹が小さく鳴り響いた。


「ふふ、いっぱい食べて偉いぞ亀介。……よし、私は仕事があるので職員室に戻るよ。鍵は放課後にでも、いつものとこに戻しておくように。じゃあね。」


「お疲れさんでーす。」


少しくたびれた白衣と、肩にかかる黒髪を揺らしながら、島先生は足早に準備室を後にした。

扉が閉まり人気が消えた空間に、水槽から響く心地よい水音が耳を撫でる。


電気のモーター音、ポンプから上がる気泡の音、循環フィルターから落ちる水音。

まるで、小さな水族館のようなこの場所は、少しだけ特別なように感じていた。


薄暗い部屋の一角で、水槽を小突くようなコンッコンッという音が鳴る。そちらに目をやると、壁沿いの餌を食べ損ねた亀介と、視線が合う気がした。


「……ゆっくり食えよ。」


間抜けな姿に釣られて、呆れたようにそんな言葉が口をついた。


 生物室に戻ると、ひんやりとした空気を感じた。生徒が授業を受けるメインエリアには、準備室ほどではなくとも同じく水槽が並んでいる。

誰もいない教室に、モーターやポンプの音が規則正しく響いていた。


先程、荷物を置いた一番後ろの窓際席へと近付く。

鞄から母お手製の弁当を取り出し、ついでに漫画のネーム用ノートも取り出した。

弁当の蓋を開くと、食欲をそそる良い匂いが漂う。


背もたれのない椅子に腰を据えると、やっと一息つけた安堵で小さなため息が零れた。


 さて、問題です。オタクが空き時間を有効活用すると言ったら、それはなんでしょうか。

正解はソシャゲのイベントを走ることです。


弁当をつつきながら、スマホに写された推しのキャラクターに頬が緩む。

小説が原作の作品「そして彼女は」のソーシャルゲーム版。

その作中に登場する中華風の国――ガドルス帝国の女軍人、路 猫成(ろ まおちぇん)

清楚な容姿に長い黒髪をポニーテールでまとめ、礼儀正しく優しい笑顔が魅力のキャラだ。

帝国の命令と自身の使命に揺れ動きつつも、健気に戦う姿に多くのファンが心打たれたはずだ。


 それなのに、イラスト投稿サイトには、俺が描いたマオちゃんのイラストがアホ程溢れている。

というか、俺以外に描いている人が極端に少ないけど、きっと何かの間違いだ。

今だって、ソシャゲを回していない普段使いのスマホから、断続的に通知の報せが届いている。

コメントへの反応は、後で時間が出来た時にすればいい。


今、俺がやるべきことはただ一つ。


このイベントで上位ランキングに入り、報酬の限定新衣装マオちゃんを手に入れること。

周回設定にしたスマホを眺めながら、漫画のネタを考える用のメモ帳を引っ張り出す。

パラパラとページを捲りながら、夏のイベントに向けて新刊の構成を考える。プロットを読みながら、脳内でコマ割りと構図を繋ぎ合わせていく。

思い付いた場面をメモしておこう、そう思いながらネームノートに手を伸ばした。その時だった。


――ガララッ!!


「はぁ……はぁッ!」


「……は?」


扉が乱暴な音を立てて開かれ、突然のことに思わず肩が跳ね上がる。

驚きのあまり、心臓がうるさい位にバクバクと鳴り響く。反射的に扉へと視線を向ければ、派手な見た目の女生徒が立っていた。


明るいミルクティーベージュの髪色と、淡い褐色の肌がコントラストのように映えている。

第二ボタンまで開いたポロシャツと、短いスカート丈の制服姿が、上位カーストの象徴を表していた。

所謂、陽キャに属する人たち。

自分とは雲泥の差があり、一生関わることのない立場とも言える人種である。


どこか切羽詰まった様子の派手な女生徒は、慌てた様子で扉を閉めると辺りを見回した。

そして、俺の怪訝な視線に訴えるように「シーっ」と口元に指を当てる。

なんの事か分からずに女生徒を見守っていると、前方にある教卓の影に素早く身を隠した。

困惑したままその様子を見届けた数秒後、入れ替わるようにして、またも扉が勢いよく開いた。


 今度は男子生徒であるが、ワックスで綺麗に整えられた髪色は薄く、両耳には複数のピアス痕が見える。

半袖のポロシャツから覗く四肢は健康的な色をしており、大きく開いた瞳には、くっきりと二重の線が刻まれている。

俺とは対極にある、正統派イケメンという存在に眩しさすら覚える。

一つ残念な点を挙げるとすれば、服装の緩さが相まって、どこか軟派っぽさが際立っている所だろうか。


誰かを探すように教室を見渡す男子生徒に、面倒ごとの気配を察して弁当へと視線を戻した。

全身で『俺は何も見ていない』という体を示す。

だが残念なことに、そんな俺の祈りも虚しく、軽そうな男子生徒は無遠慮に教室へと入り込んできた。

これまた気の抜けた声音をしながら、わざとらしく声をあげる。


「夕姫奈~、ここにいる~?」


「……。」


「……。」


ヘラヘラとした男の声が居心地悪い。


さっさと出て行け、ここは俺の神聖な領域だ。そんな願いが通じる訳もなく、弁当を突く俺の顔を軟派男は覗き込む。


「おーっす!ねぇねぇ、ここに派手めな女の子来なかった?」


「ッ!?……なっ――!」


突然の声かけに、咀嚼途中の米が喉を下りて行く。

気管支に入り込んだ米のせいで、思わず咳込むほど咽た。両手で口元を覆いながら、肩を揺らして涙目になる。


急に話しかけるな、死んだらどうする。


そんな恨み言が言える訳もなく、早く落ち着けと思いながら一際大きく咳込んだ。

軟派男は「あらま、だいじょーぶ?」と相変わらず笑っている。


一度だけ教室を見回すと、もう一度俺の顔を覗き込んで声をかけてきた。距離が近くて鬱陶しい。


「ねーねー、女子見なかった?肌が日焼けしててー、髪の長いギャル系!用事あったんだけど逃げられちゃってさ~」


「……知らないです。」


逃げられたなら諦めろよ、という言葉を寸での所で飲み込んだ。

だけど視線は誤魔化せなかったかもしれない。


少し落ち着いた気管支に、ペットボトルのお茶を流し込んで一息つく。

そのまま視線を合わせないよう、食事を再開させる俺に軟派男は気分を悪くすることもなく、変わらない態度で笑っている。


「えーマジかぁ。こっちな気がしたんだけど……ま、いっか!あんがとね~眼鏡君。ばいばーい。」


人懐っこい笑顔を浮かべながら、嵐のような軟派男は生物室を後にした。


「はぁ……なんだアイツ。」


早歩きのような足音が遠ざかるのを、俺の疲弊したため息がかき消したのだった。


登場人物紹介

三木遊希(みきゆうき)…主人公。好きでぼっちやってます。不本意な生物部員

稲塚翔平(いなづかしょうへい)…数学担当教師。優しいけど容赦なく減点とかするタイプ。

島芽々湖(しまめめこ)…生物担当教師。水生生物オタク。良い感じの飼育係をゲット出来てラッキー。

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