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次期魔王は人間に恋をする

作者: まつ
掲載日:2025/12/17

 魔界の空は、絶えず不気味な紫色の雲に覆われ、時折走る稲光が荒野を白く照らし出す。その中心に聳え立つ魔王学院の最上階で、ヴァロン・ディス・アルカディアは、頬杖をつきながら窓の外を眺めていた。


「――ヴァロン様、聞いておいでですか?」


 教官である老魔族が、神経質そうに杖で黒板を叩く。次期魔王候補としての教育は、ヴァロンにとって退屈の極みだった。弱肉強食、支配、虐殺。耳にタコができるほど聞かされた「魔族の矜持」という名の呪縛。


「ええ、聞いておりますよ。強き者が弱き者を統べる……当然の理屈でしょう?」


 ヴァロンは視線を窓の外に戻した。漆黒の髪に、真紅の瞳。背中には、まだ若くはあるが巨大な力強さを秘めた一対の翼が畳まれている。その整った顔立ちには、常に冷めた諦観が漂っていた。


(また、同じような一日が始まるだけだ……)


 そう思った瞬間だった。

 紫の雲海を割り、一筋の閃光のような「何か」が落ちてきた。

 最初は鳥かと思った。だが、それはあまりにも大きく、そして魔界には存在しないはずの「白」と「黒」の色を纏っていた。


「……人間?」


 ヴァロンの瞳が、驚愕に大きく見開かれた。

 それは、一人の少女だった。魔力という名の浮力を一切持たない彼女は、重力のなすがまま、絶望的な速度で地面へと叩きつけられようとしている。


「ヴァロン様!? どこへ行かれるのですか!」


 教官の叫びを背に、ヴァロンは窓を蹴破った。

 ガラスの破片が星のように散る中、彼は空中へと躍り出る。漆黒の翼を力強く羽ばたかせ、風を切り裂き、弾丸のような速度で降下した。

 地上まであと数百メートル。

 ヴァロンは腕を伸ばし、落下する少女を力強く抱き寄せた。


「――っ、これは……」


 腕の中に収まった感覚は、羽毛のように儚く、そして驚くほど温かかった。


 少女は意識を失っており、長い黒髪が風に舞ってヴァロンの頬をくすぐる。魔族の女にはない、日向のような、どこか懐かしい香りが鼻腔を突いた。ヴァロンは翼を全開にしてブレーキをかけ、ゆっくりと城の広場へと降り立った。


 腕の中の少女は、ぴくりとも動かない。

ただ、規則正しい呼吸の音だけが、彼女が生きていることを告げていた。ヴァロンは不意に、自分の胸の鼓動が激しくなっていることに気づいた。


「……驚きましたね。まさか空から人間が降ってくるとは」


 彼は、眠る少女の穏やかな寝顔から目を離すことができなかった。



 魔王城の一室。天蓋付きのベッドに横たわる少女を、数人の医師が取り囲んでいた。


「ヴァロン様、信じがたいことです。彼女は魔力を欠片も持っておりません。心臓の鼓動も血流も我らとは根本的に異なる。そして、この黒い髪」


 ヴァロンは腕を組み、ベッドを見つめた。


「彼女に、何か脅威はありますか?」


「皆無です。吹けば飛ぶような存在ですな。魔王城に置いておく価値など……」


「黙りなさい」


 ヴァロンの冷徹な一喝が部屋を凍らせた。


「彼女をここへ連れてきたのは私です。私の客として扱いなさい。指一本触れることは、私が許しません」



 数日後。その少女はようやく目を覚ました。


「ここは……どこ?」


不安そうに揺れる黒い瞳。ヴァロンはその瞳に吸い込まれるような感覚を覚えながら、努めて穏やかに声をかけた。


「気分はいかがですか? 私はヴァロン、この城の主の息子です。貴女を、空で拾いました」


 その少女は怯えながらも、自らの素性を明かした。名前は真藤美琴であること。元の世界で「屋上から飛び降りた」こと。そして、この現象が「異世界転生」と呼ばれるものかもしれないということ。


「なるほど、異世界転生……古の文献で見たことがありますが、実在したのですね…」


 ヴァロンは好奇心で胸が躍る。


「美琴さん、一つ提案があります。私がこの世界のことを教えましょう。その代わりに、貴女の世界のことを教えていただけませんか?」


 美琴は戸惑いながらも、小さく頷いた。


「……私にできることなら。助けていただいた、お礼に」



 それから一ヶ月が経った。

 美琴は驚くほど早くこちらの生活に馴染んだ。彼女が取り出した「すまーとほん」という不思議な道具を、ヴァロンは興味深げに覗き込んだ。


「ほう、これが『すまーとほん』ですか。景色を切り取ることができる……。それはつまり、貴女と過ごすこの楽しい思い出も、一生残せるということですね」


「えっ……ヴァロン、それは……」


 美琴は顔を真っ赤にして俯いた。

 ヴァロンは確信していた。人間は狡猾で欲に従順だという教えは、彼女には当てはまらない。彼女は自ら進んで城の掃除を手伝い、魔力のない小さな花を慈しむ。その心根は、誰よりも清らかだった。


 ある星の綺麗な夜、美琴はぽつりぽつりと過去を話し始めた。

「私、あっちの世界では……透明人間になりたかったんです。毎日、机に死ねって書かれて、トイレで水をかけられて……」


 美琴の表情が曇る。


「でも、桃ちゃんっていう子だけが私に優しくしてくれたんです。だから、本当に友達だと思ってた……。でも、それも嘘だったんです。彼女、私を騙すのが面白いって、笑ってたんです」


美琴の瞳から涙が溢れる。ヴァロンは静かに、けれど激しい憤りを感じていた。


「……許せません。貴女を傷つける者も、その『桃』という女も、私がその場にいたなら跡形もなく焼き尽くしてやったものを」


「ヴァロン……」


「私は誓いましょう。私は貴女を裏切りません。誰が貴女を否定しても、私が貴女の存在を肯定します。貴女を傷つけるすべてから、私が、この命を懸けて貴女を守ります」


 ヴァロンは美琴の手を、壊れ物を扱うように優しく、けれど強く握った。

 二人の頭上には、魔界の星空が広がっていた。


「私の世界の星は、貴女がいた場所とは違うのでしょうね。ですが、どうですか? 私は……星よりも、貴女に見惚れてしまいそうですが」


「……っ、ヴァロンは、本当にお上手ですね」


 美琴は照れくさそうに笑った。その笑顔が、ヴァロンの冷え切っていた世界を少しずつ、確実に変えていった。

 だが、この時の彼はまだ知らなかった。魔王という座が、この幸せをどれほど残酷に引き裂こうとするのかを。



 美琴と出会ってから、一年の歳月が流れた。魔王城の冷たい廊下も、彼女が歩けばそこだけ陽だまりができる。ヴァロンにとって、それはもはや日常であり、守るべき世界のすべてとなっていた。


 しかし、その平穏を切り裂くように、ヴァロンは父である現魔王に呼び出された。玉座の間は、いつも以上に冷気に満ちている。


「ヴァロンよ。来月、お前が魔王学院を卒業するのと同時に、魔王戴冠式を執り行うことに決めた」


 重厚な石造りの広間に、父の低い声が響く。ヴァロンは跪いたまま、静かに頭を下げた。


「……承知いたしました、父上」


「だが、条件がある。魔王とは、情を切り捨て、魔族の生存のみを背負う孤高の存在」


「……」


「その証として……お前が囲っている、その人間を殺せ」


 ヴァロンの心臓が、跳ねるのを止めたかのように凍りついた。


「……何とおっしゃいましたか?」


「聞こえなかったか。真藤美琴を、お前のその手で殺せと言ったのだ。魔王になる儀式として、これ以上のものはないだろう。もしできぬというのであれば、私が直々にお前を殺す」


 ヴァロンの指先が、怒りと恐怖で小さく震える。


「……父上、正気でおっしゃっているのですか? 彼女は魔力も持たず、この世界にとって何の脅威にもなりません。そんな彼女の命を奪って、一体何の意味があるというのですか!」


「意味など、私が決めることだ」


「ッ……!!」


「ヴァロン……私も、かつてお前と同じような経験をした。愛だの情だのという、魔族には不要な毒に侵されたことがある。……だが、私は選んだのだよ」


 父の瞳に宿る、底知れぬ空虚。その抽象的な言葉が、ヴァロンの胸を締め付ける。魔王は最後、突き放すように言った。


「選択を誤るなよ。……自分の意志に従うのだぞ」


 部屋に戻ると、美琴がいつものように「おかえりなさい!」と駆け寄ってきた。ヴァロンは、その笑顔を直視することができなかった。


「ヴァロン……? 何かあったのですか?」


「……いえ、何でもありませんよ。少し、卒業後の仕事のことで考え事をしていただけです」


 ヴァロンは無理に微笑み、彼女の頭を優しく撫でた。


(私が殺す……? 私が、彼女を……?)


 掌に伝わる彼女の温もりが、今のヴァロンにはあまりに重く、あまりに尊かった。

 その夜、二人は並んで月を眺めていた。魔界の月は赤い。


「美琴さん」


「はい、ヴァロン」


「もし……もし、明日世界が終わるとしたら、貴女は何を望みますか?」


 美琴は少し驚いたように目を丸くしたが、やがて穏やかに笑った。


「そうですね……。ヴァロンと一緒に、おいしいお茶を飲んでいたいかな。あっちの世界にいた時は、明日なんて来なければいいって毎日思ってましたけど……今は、明日が来るのが楽しみなんです。ヴァロンが、私に明日をくれたから」


 ヴァロンは言葉を失った。彼女が「明日」を望めるようになったのは、自分を信じているからだ。その信頼を、自らの手で裏切ることなど、死んでもできるはずがなかった。



 戴冠式当日。

 魔王城の大広間は、漆黒の礼装に身を包んだ魔族の幹部たちで埋め尽くされていた。中心には、真白なドレスを着せられた美琴と、漆黒の正装を纏ったヴァロンが立っている。


 美琴は、周囲の殺気立った空気に怯え、ヴァロンの袖をぎゅっと掴んでいた。

「ヴァロン……なんだか、皆さんの顔が怖いです……。これ、本当にお祝いの式なんですか?」


 ヴァロンは何も答えず、ただ前を見据えた。

 玉座から立ち上がった魔王が、厳かに宣告する。


「さあ、儀式を始めよう。ヴァロンよ、前へ」


 ヴァロンは一歩踏み出し、父から手渡された銀の短剣を受け取った。その重みは、まるで何千人もの命を背負っているかのように感じられた。


「選択の時だ。己の命を断ち魔王の座を捨てるか、それともその女を殺して王となるか。……貴様の答えを見せよ」


会場が静まり返る。美琴はその言葉を聞いた瞬間、膝から崩れ落ちた。


「え……? 殺す……? ヴァロンが、私を……?」


 彼女の脳裏に、あの日廊下で聞いた桃の裏切りの言葉が蘇る。


(また……また、信じた人に裏切られるの? 私が幸せになれる場所なんて、やっぱりどこにもなかったの?)


 美琴の瞳から、大粒の涙が零れ落ちる。

 ヴァロンは短剣を抜き放ち、美琴の方へと向き直った。

 短剣の刃が、魔法の灯火に反射して冷たく光る。


「……すまない、美琴さん」


 その言葉は、絶望の宣告にしか聞こえなかった。美琴はギュッと目を閉じ、来るべき衝撃に備えて体を強張らせた。


 しかし、ヴァロンが向けた刃先は、彼女ではなく、自らの腹部だった。


「……私は、魔王になどなりません」


 ヴァロンの凛とした声が、広間に響き渡る。


「貴方が私に魔王の座と引き換えに『情を捨てろ』と言うのであれば、私は喜んでこの命ごと座を捨てましょう。美琴さんがいない世界で王になるなど、私にとっては地獄よりも空虚なことですから!」


「ヴァロン! やめて!」


 美琴が叫び、ヴァロンの手を止めようと駆け寄った、その瞬間。

 視界が真っ白な霧に包まれた。


 幹部たちの罵声も、父の冷酷な視線も、すべてが霧の中に消えていった。

 静寂の中で、たった一人、父の声だけが聞こえてくる。


『……己の意志に従い、正しき選択をしたのだな、ヴァロン。我は、お前を誇りに思う』


 その声は、戴冠式での厳格な王のものではなく、優しく、どこか安堵した父親の響きだった。


『我ができなかったことを、よくぞ成し遂げた。かつて私も、お前と同じように、愛する人間を守ろうとした。だが……私は王座への執着を捨てきれず、彼女を失い、心まで魔王という名の怪物に変えてしまった。……お前には、私と同じ後悔をさせたくなかった』


 ヴァロンは目を見開いた。父が言っていた「抽象的な経験」の真実が、今、胸を打つ。


『生きろ、ヴァロン。魔王としてではなく、一人の男として。……私に代わって、愛する人を守り抜くのだ』


 意識が急速に浮上していく。

 心地よい風の音、草の匂い。土の感触。

 目を開けると、そこは小さな村の入り口だった。魔王城の冷たさは微塵もなく、陽光が柔らかく二人を照らしていた。


「……父上……。貴方は、最初から……」


 ヴァロンは空を見上げ、独り言ちた。父は、ヴァロンの覚悟を試したのだ。魔王という重責から息子を解き放つために、あえて悪役を演じたのだ。


「……ヴァロン……?」


 隣で倒れていた美琴が、ゆっくりと身を起こした。 彼女は自分の体を、そしてヴァロンの体を交互に見て、傷一つないことに気づくと、一気に涙を溢れさせた。


「生きてる……。ヴァロン、私、死んでない……! それに、ヴァロンも……!」


「ええ、生きていますよ、美琴さん。……父上が、私たちを逃がしてくれたのです」


 ヴァロンは、彼女の泥のついた手をそっと取った。

 美琴はまだ震えていた。裏切られたと思った瞬間の恐怖が、まだ癒えていない。


「美琴さん、本当に怖い思いをさせてしまいましたね。……ごめんなさい」


「ううん……。ヴァロンが私を裏切らなかった。それだけで、私は……」


 ヴァロンは、彼女の濡れた頬を指で拭った。


「美琴さん、私はもう、魔王候補ではありません。貴女を守るための軍隊も、贅を尽くした城もありません。ただの……名もなき、一人の男です」


「……はい」


「ですが、私はこの選択を一生後悔しません。貴女がいない永遠の命よりも、貴女の隣で老いてゆく一瞬の時の方が、私には何億倍も価値があるのです」


 ヴァロンは大きく息を吸い込み、彼女の瞳を真っ直ぐに見つめた。

 鼓動が、戴冠式の時よりも激しく打ち鳴らされている。


「美琴さん。……元の世界でたくさん裏切られ、傷ついてきました。これからは、その傷をすべて私が癒させてください」


 ヴァロンは大きく息を吸う


「私と、結婚してください」


 美琴は目を見開き、そしてまた、ボロボロと涙を流した。


「……私で、いいんですか? 何も持っていない、ただの人間なのに」


「貴女がいいのです。貴女だから、私はすべてを捨てられたのです」


 美琴は、ひきつるような笑顔を浮かべ、何度も、何度も頷いた。


「はい……! 私も、ずっと……ずっとヴァロン様の隣にいたいです!」


 二人が抱き合った瞬間、彼女のポケットからスマートフォンの通知音が小さく鳴った。


 バッテリーが切れる寸前、画面に映し出されたのは、一年前に二人で撮った、初めてのツーショット。


「思い出だけではありません。これからは、二人で新しい時間を積み重ねていきましょう」


 ヴァロンの言葉に、美琴は幸せそうに微笑み、その胸に顔を埋めた。

 空はどこまでも青く、二人の前には、魔王の宿命さえ届かない、静かで穏やかな明日が広がっていた。

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