第6章:商人の誘いと、黒いパンの誇り
石窯で作ったバゲットの評判は、予想以上の速さで広まった。
村の小さな宿屋には、連日長蛇の列ができている。もはや宿屋の売り上げよりも、朝のパン販売の売り上げの方が上回ってしまい、ゴルドは嬉しい悲鳴を上げていた。
そんなある日の午後。
客足が落ち着き、僕が翌日の仕込み(種継ぎ)をしていると、厨房の裏口に一人の男が現れた。
上質なベルベットのコートを着込み、指には宝石のついた指輪。手入れされた口ひげを蓄えた、いかにも「都会の商人」といった風体の男だ。
「失礼するよ。君が噂の職人、タクミ殿かな?」
男は慇懃に頭を下げた。
「はい、そうですが。どちら様で?」
「私は王都で『金麦商会』の支部長を務めている、ベルンと申します。君の焼くパン……いや、あの『奇跡の黄金棒』について、お話をさせていただきたく」
ベルンと名乗った男は、懐から布に包まれたバゲットを取り出した。冷めきっているが、僕が朝焼いたものだ。
「一口食べて衝撃を受けましたよ。王都の貴族街でさえ、これほど香り高く、食感の豊かなパンは見たことがない。……単刀直入に言おう。君、我々の商会に来ないか?」
彼は指を二本立てた。
「契約金として金貨二百枚。さらに月々の報酬は、今の稼ぎの十倍を保証する。王都の一等地に店を用意しよう」
金貨二百枚。
この村で一生遊んで暮らせるだけの大金だ。
後ろで話を聞いていたニーナが息を呑む音が聞こえた。ゴルドも目を丸くしている。
「……好条件ですね」
「だろう? こんな辺境で燻っている才能ではない。王都へ行けば、君は『宮廷御用達』になれるかもしれないのだ」
ベルンは自信満々に笑った。
だが、僕は首を横に振った。
「ありがたいお話ですが、お断りします」
「……何?」
ベルンの笑顔が凍りついた。
「不足かね? ならば三百枚……」
「お金の問題じゃありません。僕はまだ、この村の人たちに食べさせたいパンが山ほどあるんです。それに、ここの水と空気が、僕の酵母たちには合っているみたいでして」
嘘ではない。森で見つけた【白金酵母】は、この地の環境に最適化されている。王都へ持っていけば、環境の変化で死滅するかもしれない。
何より、毎朝「美味い!」と言って笑ってくれる村人たちの顔を、金のために捨てたくはなかった。
「……正気か? 王都の栄華を蹴って、こんな泥臭い村を選ぶと言うのか?」
「泥臭い、ですか」
僕は少しムッとした。
「この村の小麦は力強い。水は清らかだ。ここで焼くパンは、どんな高級品よりも温かい味がしますよ」
ベルンはしばらく僕を睨みつけていたが、やがてフンと鼻を鳴らした。
「……交渉決裂か。残念だよ、タクミ殿。だが覚えておきたまえ。出る杭は打たれる。特に『パンギルド』は、既得権益を荒らす新参者には容赦がないぞ」
捨て台詞を残し、ベルンは去っていった。
嵐が去ったような静けさが厨房に戻る。
「タ、タクミさん……よかったの? すごい大金だったのに」
ニーナが心配そうに僕の袖を引く。
「いいんだよ。僕は『異世界の大富豪』になりたいわけじゃない。『異世界のパン屋』になりたいんだから」
僕はニーナの頭をポンと撫でた。
「それに、ニーナちゃんにまだ『クリームパン』を食べさせてないしね」
「くりーむぱん!?」
ニーナの目が輝いた。現金なものだ。
だが、商人の残した「パンギルド」という言葉が、僕の胸に小さな棘のように引っかかっていた。
この世界のパン作りを牛耳る組織。彼らが、僕の「柔らかいパン」をただ黙って見ているはずがない。
戦いの匂いが、香ばしいパンの香りに混じって近づいてきていた。




