第5章:石窯と、はじめてのバゲット
それでは、第5章です。手に入れた「白金酵母」と、パン作りに不可欠な「石窯」作りへと進みます。
森から持ち帰った『白金酵母』の威力は凄まじかった。
試しに少量の粉と水で培養してみると、通常の数倍の速度で発酵が進むだけでなく、柑橘系のような爽やかな香りを放ち始めたのだ。これはただ膨らませるだけではない。小麦の旨みを極限まで引き出し、保存性も高める「魔法の酵母」だ。
だが、この素晴らしい生地を焼くための舞台がまだない。
「窯を作るぞ、ニーナちゃん」
「カマ? 草を刈るやつ?」
「違う違う。パンを焼くための、石でできた小さな家みたいなものさ。宿屋の裏庭、少し借りてもいいかな?」
ゴルドに相談すると、「あの美味いパンがもっと食えるようになるなら、裏庭どころか離れを潰してもいいぞ」と即答された。パンの魔力は頑固親父をも従順にさせるらしい。
僕は村外れの河原から、耐熱性の高そうな石を大量に運んできた。さらに粘土質の土と藁、水を混ぜて接着剤代わりのタレを作る。
僕が目指すのは、フランスの伝統的な薪窯だ。ドーム型の天井を持ち、熱を均一に対流させ、床石からの蓄熱で生地を一気に持ち上げる。
「よーし、やるぞ!」
僕とニーナ、そして途中から面白がって参加してきたゴルドの三人で、泥だらけになりながら石を積んだ。
ドームのアーチを作るのは難しいが、そこは前世での知識と【魔酵母】の応用が役に立った。土の中の微細な菌たちに魔力を送り、粘土の結合を強化させることで、コンクリート並みの強度を持たせたのだ。
三日後。
宿屋の裏庭に、無骨だが愛らしい、ドーム型の石窯が完成した。
「これが……パンの家?」
ニーナが煤けた顔で窯を見上げる。
「ああ。まずは火入れをして、中を乾かさないとね」
窯の中で薪を燃やす。炎がドームの天井を舐め、石が白く変色していく。十分に熱が蓄えられたところで、燃えかすを脇に寄せ、濡れた布で床を清める。
準備は整った。
僕は厨房に戻り、一晩かけて低温でじっくり発酵させておいた生地を取り出した。
今回は、パン職人の腕が最も試されるパン――『バゲット』だ。
材料は小麦粉、水、塩、酵母のみ。誤魔化しが効かない。
生地を細長く成形し、カミソリ代わりのナイフで表面にクープ(切れ込み)を入れる。
スッ、スッ、スッ。
迷いのない五本の線。これが窯の中で開き、美しい模様となる。
「いってらっしゃい」
長い木べら(ピール)に生地を乗せ、熱い窯の中へと滑り込ませる。
じゅぅっ。
生地が熱い床石に触れ、水分が蒸発する音。
僕は素早く手桶の水を窯の中に打ち水し、木の蓋を閉じた。蒸気が重要だ。これがあることで、パンの表面がパリッと硬く、艶やかに焼き上がる。
二十分後。
裏庭には、これまで村人が嗅いだことのないような、濃厚で香ばしい匂いが充満していた。
宿屋の客だけでなく、近所の住人たちも塀の上から顔を覗かせている。
「そろそろだな」
蓋を開ける。
熱気と共に、黄金色の輝きが溢れ出した。
「うわぁ……!」
ニーナが感嘆の声を漏らす。
取り出されたのは、美しいキツネ色に焼き上がり、クープが鮮やかに開いた(エッジが立った)バゲットたちだ。
冷たい外気に触れると、パンの表面からパチパチ、ピキピキと小さな音が聞こえ始めた。
「パンが……鳴いてる?」
「『天使の拍手』って言うんだ。上手く焼けた証拠だよ」
粗熱が取れるのを待ちきれず、僕は一本を手に取り、ナイフを入れた。
ザクッ。
乾いた高い音。断面には、大小様々な気泡が艶やかに光っている。
「さあ、みんな。焼きたてのバゲットだ。今までの柔らかパンとは一味違うぞ」
見物していた人々に切り分けたパンを配る。
ゴルドが一番に口に入れた。
ガリッ、ザクッ。
しっかりとした噛み応えのある皮。しかし、中はもっちりと瑞々しい。
「……なんだこれは。硬いのに、硬くない!?」
ゴルドが混乱したような声を上げる。
「皮はパリパリで香ばしいのに、中はスープを吸ったみたいにしっとりしてやがる! 噛むたびに味が濃くなるぞ!」
「うーん! おいしーい!」
ニーナは両手で頬を押さえて身悶えしている。
「皮のところがちょっと苦くて、でも中が甘くて……これ、何もつけなくてもいくらでも食べられちゃう!」
集まった村人たちも次々に歓声を上げる。
「おい、俺にも売ってくれ!」
「こっちが先だ!」
「銀貨一枚出すぞ!」
僕は焼き立てのバゲットの山を見つめながら、確かな手応えを感じていた。
石のようなパンしかなかったこの世界に、ついに「ハード系パン」の美味しさが伝わった瞬間だった。
だが、この騒ぎが大きくなりすぎたことは、新たな火種を生むことにもなる。
人混みの後ろで、上等な服を着た男が一人、険しい顔で僕とバゲットを睨みつけていることに、僕はまだ気づいていなかった。




