第4章:酵母の導きと、森の精霊
本格的なパン作りには、かまど以上の設備と、より良い素材が必要です。タクミは【魔酵母】のスキルを頼りに、村の外へと足を踏み出します。
『荒馬のいななき亭』での朝食騒動から数日が過ぎた。
僕が焼く「タクミの柔らかパン」は瞬く間に村中で評判となり、毎朝宿屋の前に行列ができるほどになっていた。ゴルドはホクホク顔だが、僕には新たな悩みがあった。
「限界だな……」
厨房のかまどを見つめ、僕は溜息をついた。
宿屋のかまどは煮炊き用のもので、パンを焼くための密閉性や温度管理ができない。平焼きパンやシンプルな丸パンなら何とかなるが、僕が本当に作りたいバゲットや、繊細な菓子パンを焼くには「窯」が必要だ。
それに、酵母もだ。
今は空気中の天然酵母を無理やり集めて使っているが、安定した発酵力を持つ「種」を育てるには、もっと純度の高い、力強い菌のコロニーを見つける必要がある。
「森へ行くか」
僕は決意した。
この村の裏手に広がる『迷わずの森』。そこなら、手つかずの自然の中で育まれた極上の酵母が眠っているかもしれない。
「えっ、タクミさん、森に行くの?」
準備をしていると、ニーナが飛んできた。手には大きな籠を持っている。
「危ないよ! あそこには『グリーン・スライム』とか『角ウサギ』が出るんだから!」
「大丈夫だよ。こう見えても逃げ足には自信があるし、護身用の麺棒(樫の木製)も持った」
「だーめ! 私も行く! 案内くらいできるもん」
結局、ニーナの押しに負け、二人で森へ入ることになった。
***
森の中は、ひんやりとした静寂に包まれていた。
木漏れ日が苔むした地面を照らし、湿った土の匂いが立ち込めている。
普通の人間ならただの「森の匂い」としか感じないだろうが、僕の【魔酵母】の視界には、極彩色の光景が広がっていた。
「すごい……まるで宝石箱だ」
腐葉土からは分解を司る紫色の菌たちが妖しく光り、木の幹にはキノコの菌糸が銀色のネットワークを張り巡らせている。そして、果実のなる木々の周りには、甘い香りを放つ黄金色の酵母たちが群れを成して舞っていた。
『オイデー』『コッチー』『アソボー』
菌たちの声に導かれるように、僕は森の奥へと進んでいく。
ニーナは不思議そうに僕の後ろをついてくる。
「タクミさん、何か見えてるの? さっきから何もない空間に向かってニコニコしてるけど」
「うん、道案内がいるんだよ。……おっと」
ふと、強烈な「気配」を感じて足を止めた。
目の前には、樹齢数百年はあろうかという巨大な古木。その根元に、透き通るような白い花が咲き乱れ、中心に小さな泉が湧いている。
そこから発せられる光は、今まで見たどの菌よりも強く、純粋で、そして神聖だった。
白金色の輝き。
「見つけた……『長老』クラスの酵母だ」
僕が泉に近づこうとした、その時だった。
「グルルルルゥ……」
低い唸り声と共に、泉の陰から巨大な影が飛び出した。
全長二メートル近い、茶色い毛皮の猛獣。頭には鋭い一本角が生えている。『角熊』だ。
「きゃあっ!」
「ニーナ、下がって!」
僕は麺棒を構えて前に出た。だが、相手は熊だ。パン職人の腕力でどうにかなる相手ではない。
熊が立ち上がり、爪を振り上げる。
万事休すか。
そう思った瞬間、僕の視界の中で、泉の周りを漂っていた白金色の酵母たちが一斉にざわめいた。
『パンノヒト、アブナイ!』『タスケル!』『ボクラノチカラ、ツカッテ!』
声と共に、僕の体の中に熱い奔流が流れ込んできた。
魔力だ。それも、自然界の純粋な魔力。
スキル【魔酵母】が、周囲の菌たちと共鳴する。
「うおおおおおっ!!」
僕は無意識に、持っていた袋から小麦粉を鷲掴みにし、熊に向かってばら撒いた。ただの小麦粉ではない。僕の手から溢れる魔力と、白金色の酵母が瞬時に付着した「超活性化小麦粉」だ。
「発酵――!!」
叫ぶと同時に、空中に舞った小麦粉が爆発的に膨張した。
それはまるで、即席の粘着性ネットのように熊の顔面を覆い尽くし、さらにモコモコと膨れ上がって視界と呼吸を塞いでいく。
「グオッ!? ガガッ!?」
熊は顔に張り付いた巨大なパン生地(生焼け)にパニックになり、もがいている。
その隙に、僕はニーナの手を引いた。
「今だ、走れ!」
「えっ、ええっ!? 今の何!? 小麦粉が爆発した!?」
僕たちは全速力でその場を離脱した。
だが、ただ逃げたわけではない。僕の手には、どさくさに紛れて採取した「泉の水」と、その周囲に自生していた「白い花」がしっかりと握られていた。
これこそが、探していた最強のパン種となるはずだ。
森を抜け、安全な場所まで戻ってきた僕たちは、息を切らして座り込んだ。
「はぁ、はぁ……死ぬかと思った……」
「タクミさん、すごかった……あの魔法、何? 『小麦粉拘束』とか?」
「いや、ただの過発酵だよ。制御できないとパンが台無しになる失敗例だ」
僕は苦笑しながら、手の中の小瓶を見つめた。
中では、白金色の光の粒が静かに、しかし力強く脈動している。
「でも、手に入れたよ。これで、本当のパンが焼ける」
この日手に入れた『白金酵母』と名付けた菌は、後に世界を救うことになる伝説のパン種の、記念すべき第一号となるのだった。




