第3章:宿屋の主人と、朝食革命
頑固な宿屋の主人・ゴルドに、タクミの「常識外れのパン」が挑みます。
ゴルドの太い腕が、僕の差し出した皿を受け取った。
彼の顔には深い疑念が刻まれている。無理もない。この世界の常識では、パンとは「保存のためにカチカチに乾燥させた携帯食料」であり、焼きたての湯気が立つなどあり得ないのだから。
「毒見は済んでるのか?」
「娘さんがペロリと食べちゃいましたよ」
「……ふん」
ゴルドは警戒を解かぬまま、フォカッチャのような平焼きパンを鷲掴みにした。
その瞬間、彼の眉がピクリと動く。指が生地に沈み込む感触に驚いたのだ。
「なんだ、この手触りは……スポンジか?」
彼は怪訝そうにパンを鼻先に近づけ、匂いを嗅いだ。
そして、意を決したように大きく口を開け、ガブリと噛み付いた。
――サクッ。
岩を噛む音ではない。枯れ葉を踏むような軽快な音。
続いて、モチッとした粘りのある音が微かに響く。
ゴルドの動きが凍りついた。
咀嚼が始まらない。口に入れたまま、彼の目が見開かれ、一点を凝視している。
「……親父さん?」
僕が声をかけると、ゴルドは猛然と顎を動かし始めた。
一度、二度、三度。噛みしめるたびに、彼の強面が崩れていく。
「な、なんだこれは……ッ!」
ゴルドが唸った。
「硬くない! それどころか、噛めば噛むほど麦の甘味が湧き出してきやがる! スープも飲んでないのに、喉をするりと通っていくぞ!?」
「生地を発酵させて、中に気泡を沢山作ってるんです。だから柔らかくて、口溶けがいい」
「ハッコー? 知らんが、とんでもねえ美味さだ……! 塩加減も絶妙だ。脂のコクと、麦の香りが鼻に抜ける!」
ゴルドはあっという間に一切れを食べきり、名残惜しそうに指についた油を舐めた。
そして、僕の肩をガシッと掴んだ。痛い。
「おい、アンちゃん! これだ!」
「はい?」
「これをもっと焼けるか!? 今すぐだ!」
「ええ、まあ。材料さえあれば」
「材料なら全部使っていい! 今、食堂には腹を空かせた冒険者連中が待ってるんだ。あいつらにいつも通りの『石パンのスープ煮』を出すのが急に申し訳なくなっちまった!」
ゴルドの目は、もはや商人のそれだった。
「よし、商談成立ですね。――ニーナちゃん、手伝ってくれるかな?」
「うんっ! 私、もっと食べたい!」
こうして、宿屋『荒馬のいななき亭』の厨房は、一時的に僕の支配下となった。
***
宿屋の一階、食堂兼酒場。
朝の空気は重かった。
夜明けと共に起き出した冒険者や行商人たちが、気だるげにテーブルについている。彼らの目の前にあるのは、薄い塩スープに浸された、ふやけきっていない硬い黒パンだ。
「あーあ……朝から顎が疲れるぜ」
革鎧を着た剣士の男が、匙ですくったパンを睨んで溜息をついた。
「文句言うなよ。腹が膨れりゃいいんだ、腹が」
向かいに座る魔術師風の男も、死んだ魚のような目でスープを啜っている。
異世界の朝食風景は、実に殺伐としていた。食への楽しみなどなく、ただの燃料補給でしかない。
――その時だ。
厨房の奥から、暴力的なまでの「香り」が漂ってきたのは。
「ん……? なんだこの匂い」
「なんか、すげぇ香ばしいぞ」
「甘いような、焦げたような……」
冒険者たちが鼻をひくつかせる。
殺伐としていた食堂が、ざわめき始めた。
直後、厨房の扉が勢いよく開かれ、ニーナとゴルドが大きなバスケットを抱えて出てきた。
「お待たせしましたー! 今日の朝食は特別製、『タクミ風・朝焼きパン』だよー!」
ニーナの元気な声と共に、バスケットが各テーブルに置かれていく。
そこには、こんがりときつね色に焼けた、ふっくらとした物体が山盛りにされていた。
「パン……だと?」
「嘘つけ、パンがこんな色してるかよ。焦げた泥じゃないのか?」
剣士の男が疑わしげに一つ手に取る。
「うおっ、熱っ!? ……それに、柔らかい?」
彼は恐る恐るパンをちぎった。
湯気が立ち上り、食堂中に香りが広がる。彼はそれを口に放り込んだ。
瞬間、ガタッと椅子が倒れる音がした。
剣士が立ち上がっていたのだ。
「お、おい! どうした、毒か!?」
「バカ野郎……!」
剣士は叫んだ。目には涙すら浮かんでいる。
「美味すぎるだろぉおおお!! なんだこれ! ふわふわだ! 俺の布団よりふわふわだぞ!!」
「はあ? お前、寝ぼけて……貸せ!」
魔術師の男もパンを奪い取り、口にする。
次の瞬間、彼は無言でバスケットを抱え込み、二つ目を貪り食い始めた。
「ずるいぞ! 俺にもよこせ!」
「親父! こっちのテーブルにもだ!」
「スープなんていらねえ! このパンと水だけでご馳走だ!」
食堂は一瞬にして戦場と化した。ただし、血ではなく、パンを求める歓声が飛び交う幸福な戦場だ。
厨房の入り口からその光景を眺めていた僕は、そっと胸を撫で下ろした。
視界には、【魔酵母】のスキルによって見える無数の金色の粒が、喜ぶ人々の感情に呼応するように輝きを増して舞っている。
『オイシイ!』『ミンナ、ワラッテル!』
菌たちの声が聞こえる。
僕も小さく笑った。
「ああ。いい食いっぷりだ」
こうして、僕の異世界でのパン屋生活は、最高のスタートダッシュ――いや、もはや暴動に近い熱狂と共に幕を開けたのだった。




