第2章:少女と、呼吸する生地
前章で、硬いパンしかない世界に絶望しつつも、スキル【魔酵母】によって空気中の菌たちと意志を通わせ始めたタクミ。そこへ、最初の「お客さん」が現れます。
小屋の扉を押し開けると、眩しい朝日と共に、ひとりの少女がそこに立っていた。
年は十二、三歳くらいだろうか。赤茶色の髪を二つに結び、麻の服を着ている。手には掃除用と思われる箒と、あの「黒いレンガのようなパン」が握られていた。
「あ……目が覚めたんだ」
少女は僕を見ると、少し警戒したように半歩下がった。
「おはよう。君がここを貸してくれたのかい?」
「ううん、父ちゃんが。行き倒れてたあんたを拾ってきたの。……変な独り言が聞こえたけど、大丈夫?」
「ああ、商売道具の確認をしていただけだよ。僕はタクミ。パン職人をやっている」
「パン……ショクニン?」
少女は首を傾げた。そして、手に持っていた黒い塊を掲げて見せる。
「パンを作る人のこと? でもパンなんて、村の焼き場でまとめて焼いて、一年かけて食べるものでしょ? わざわざ専門の人がいるの?」
その言葉に、僕はめまいを覚えた。
一年かけて食べる。つまり、ここのパンは保存性のみを重視した「乾パン」以下の代物なのだ。水分を極限まで飛ばし、カチカチに焼くことで腐敗を防ぐ。食べる時はスープやワインに長時間浸してふやかすのが常識なのだろう。
少女――名をニーナといった――は、その黒い塊をガリリとかじった。
硬い音。眉間にしわが寄る。どう見ても美味しくはなさそうだ。
「ニーナちゃん。ちょっと待っててくれ。お礼に、本物のパンをご馳走するよ」
「ホンモノ?」
「ああ。歯が折れなくて、スープがいらなくて、雲みたいに柔らかいパンだ」
僕は小屋の隅にあるかまどへと向かった。
幸い、薪と火打ち石はある。水瓶の水も綺麗だ。
小麦粉の袋を開ける。ふすま(外皮)が多く混じった茶色い粉だが、香りは悪くない。
「さて、みんな。出番だぞ」
僕は空中に漂う、金色の光の粒――天然酵母たちに呼びかけた。
スキル【魔酵母】を通じて、意識を集中させる。
『ハラヘッタ!』『トウブン、クレ!』『アタタカイノ、スキ!』
頭の中に、無邪気な子供のような声が響いてくる。
僕はボウル代わりの木桶に粉と水を入れ、少量の塩、そして酵母たちが好むであろう果実の絞り汁(棚にあった干し葡萄を水で戻したもの)を加えた。
通常、パンの発酵には時間がかかる。一次発酵、ベンチタイム、二次発酵……数時間はざらだ。
しかし、今の僕にはこのスキルがある。
「【魔酵母】――活性化」
僕が念じながら生地を捏ね始めると、集まってきた光の粒が生地の中に潜り込んでいく。
僕の手のひらから伝わる魔力が、菌たちの代謝を爆発的に加速させた。
ボコッ、ボコッ。
桶の中の生地が、まるで生き物のように蠢き、膨らみ始めた。
「ひゃっ!?」
背後で見ていたニーナが悲鳴を上げた。
「な、ななな、なにそれ! 泥が動いた! 魔物!?」
「違うよ、ニーナちゃん。これが『発酵』だ。生地が呼吸をしているんだよ」
菌たちが糖分を食べ、炭酸ガスを吐き出す。そのガスがグルテンの膜に閉じ込められ、生地を風船のように膨らませる。
見る見るうちに、生地は二倍の大きさに膨れ上がった。表面は艶やかで、赤ちゃんの肌のようにすべすべしている。
「よし、いい子たちだ」
僕は十分に膨らんだ生地を取り出し、手早く平たく伸ばした。
オーブンはないが、かまどの上に置かれた平らな鉄板がある。これを熱すれば十分だ。
作るのは『フォカッチャ』に近い、平焼きパン。
熱した鉄板に油(獣脂しかなかったが、贅沢は言えない)を薄く引き、生地を乗せる。
ジュゥウウウ……。
心地よい音と共に、湯気が立ち上った。
その瞬間、小屋の中の空気が変わった。
焦げた匂いではない。小麦の甘く、香ばしい、そしてどこか懐かしい香り。焼けた酵母の放つ、芳醇なアロマ。
「いい匂い……」
ニーナが鼻をひくつかせ、無意識に一歩近づいてくる。
両面をこんがりときつね色に焼き上げ、仕上げに岩塩をパラリと振る。
「完成だ。焼きたてだよ」
僕は熱々のフォカッチャを皿に乗せ、ニーナに差し出した。
湯気がほわほわと立っている。
「これ……本当にパンなの? 石じゃないの?」
「触ってみて」
ニーナは恐る恐る指を伸ばし、パンの表面をつついた。
ぷにっ。
指が沈み込み、離すとゆっくりと戻ってくる。
その弾力に、ニーナは目を丸くした。
「柔らかい……!」
「冷めないうちにどうぞ」
ニーナは両手でパンを持ち上げた。「あちち」と言いながら、半分にちぎる。
パリッという表面の音の後に、もっちりと生地が伸びて、中から真っ白な湯気が溢れ出した。
彼女はそれを、大きな口でパクりと頬張った。
サクッ、ふわっ。
咀嚼するニーナの動きが止まる。
次の瞬間、彼女の緑色の瞳が潤み、キラキラと輝き出した。
「んーーーーっ!!」
言葉にならない声を上げ、彼女は夢中で咀嚼を続ける。
飲み込んだ後、彼女は叫んだ。
「なにこれぇえええ! 甘い! 柔らかい! すっごく美味しい!!」
「よかった。ここの小麦は力強いから、シンプルに焼くだけで美味いんだ」
「信じられない! スープにつけてないのに、口の中で溶けちゃう! ねえ、これ魔法? 魔法の食べ物なの!?」
ニーナはあっという間に一枚を平らげ、物欲しそうに指についた塩を舐めた。
その顔を見て、僕は職人として久しく忘れていた充実感を覚えた。
そうだ。これだ。
客が笑顔になる瞬間。これがたまらなくて、僕はパン屋になったんだ。
「何事だ、騒々しい!!」
その時、小屋の扉がバンと開かれ、エプロン姿の厳つい大男が入ってきた。
ニーナの父親で、この宿屋の主人であるゴルドだ。
「ニーナ、悲鳴が聞こえ……む?」
ゴルドは鼻を鳴らし、あたりを見回した。
そして、僕の手元にある残りの焼き立てパンに釘付けになった。
「なんだ、この美味そうな匂いは……貴様、何をした?」
僕は残りのパンを割り、湯気を立たせながらニヤリと笑った。
「家賃代わりの朝食です、オーナー。まずは一口、いかがですか?」
辺境の村の小さな小屋から、異世界の食文化を覆す革命が始まろうとしていた。




