第20章:森のエルフと、発酵しないパン
勝利の宴から数日後。
北の森から、エルフの使節団が砦を訪れた。
彼らは人間との不可侵条約を結んでいるが、先日のオーク軍の侵攻が森にも影響を及ぼしたため、情報交換に来たのだという。
「人間たちの砦から、妙に良い香りがすると聞いてな」
使節団のリーダー、長身で金髪のエルフ・シルヴァンは、すんと鼻を鳴らした。
「だが期待外れだ。所詮は人間の作るもの。油と獣の臭いがきつすぎる」
彼はガレス将軍が出した歓迎の宴席で、肉料理やバターたっぷりのパンに手をつけようとしなかった。
エルフは菜食主義者が多く、また感覚が鋭敏すぎるため、人間の味付けは「刺激が強すぎる」のだ。
「……食わんのか。贅沢な奴らだ」
ガレス将軍は不機嫌そうだ。同盟相手のご機嫌を損ねるのはまずい。
僕は厨房からその様子を見ていて、ふと思いついた。
「ニーナちゃん、あれを作ってみようか」
「あれ?」
「酵母を使わないパン(無発酵パン)だ」
エルフは自然の魔力をそのまま取り込むことを好む。発酵というプロセスすら「人工的」と感じるのかもしれない。
僕は小麦粉を水と少量の塩、そしてオリーブオイルだけで練り上げた。
生地を極限まで薄く伸ばし、高温の石窯で一瞬だけ焼く。
パリッ。
数秒で焼き上がったのは、香ばしい『クリスピー・フラットブレッド(チャパティやクラッカーに近い)』だ。
これに、森で採れたフレッシュハーブと、トマトに似た赤い木の実のペーストを添える。
「どうぞ。これならお口に合うはずです」
僕が皿を差し出すと、シルヴァンは訝しげに一枚つまみ上げた。
「……薄いな。紙のようだ」
彼は小さくかじった。
パリッ、サクッ。
軽快な音が響く。
「む……?」
シルヴァンの耳がピクリと動いた。
「余計な味がしない。麦の素朴な香りと、ハーブの清涼感だけがスッと入ってくる。……悪くない」
彼は二枚、三枚と手を伸ばし始めた。
「ふむ。人間の作るものも、捨てたものではないな」
どうやら気に入ってくれたようだ。
場の空気が和んだその時、シルヴァンがふと真剣な表情で僕を見た。
「パン職人と言ったな。……忠告しておこう。最近、森の奥で『黒いカビ』を見た」
「黒いカビ?」
僕の心臓が跳ねた。あの夜、城壁で感じた気配と同じものか。
「ああ。それに触れた植物は瞬く間に腐り落ち、動物は狂暴化して死ぬ。……あれは自然のものではない。『魔界』の瘴気を孕んでいる」
シルヴァンの言葉に、ガレス将軍も顔色を変えた。
「ただのオークの侵攻ではないということか……」
予感は確信に変わった。
この戦場の裏には、単なる領土争いではない、もっと根源的な「菌」の脅威が潜んでいる。
そしてその脅威は、僕たちの足元――パンの材料である小麦にまで、既に手を伸ばしていたのだった。




