第14章:崩れ落ちた天才と、握手の味
広場が静まり返った。
フォークを取り落とした伯爵は、震える手で自身の口元を押さえている。
「……ありえん」
伯爵が呻くように言った。
「見た目は重い全粒粉のパンだ。ボソボソしているはずだ。なのに……なぜだ!? 口の中でバターのように溶けていくぞ!?」
隣のギルド幹部も、もはや審査を忘れてパンに喰らいついている。
「香りだ! この圧倒的な香ばしさはなんだ! ジャン=リュックのパンが『砂糖菓子』なら、これは『肉料理』にも匹敵する満足感じゃないか!」
「耳まで……いや、耳こそが美味い! 香ばしくて、甘くて……止まらん!」
審査員たちは我を忘れてパンを貪った。
それは、ただの食欲ではない。本能が求めてしまう味。
古代小麦の生命力と、特濃ミルクの優しさ、そして【白金酵母】が生み出す魔法のような旨味が、彼らの味覚を完全に支配していた。
「バカな……」
隣で見ていたジャン=リュックの顔から血の気が引いていく。
彼はふらふらと審査員席に近づき、残っていた僕のパンの切れ端を奪い取った。
「こんな泥色のパンが、私の芸術に勝てるわけが……」
彼はパンを口に放り込んだ。
噛みしめる。
その瞬間、彼の膝がガクリと折れた。
「あ……ああ……」
天才職人の目から、大粒の涙がこぼれ落ちた。
「負けた……。完全に、負けた」
彼は地面に手を突き、嗚咽した。
「私は……見た目の美しさと口当たりの軽さばかりを追い求めていた。だが、これは違う。パン本来の『力強さ』がある。……悔しいが、美味すぎるッ!!」
広場に爆発的な歓声が巻き起こった。
村人たちが抱き合い、ゴルドが雄叫びを上げ、ニーナが僕に飛びついてくる。
「やったあ! タクミさん、大勝利だよ!」
「ありがとう、ニーナちゃん。君のバター作りのおかげだよ」
審査結果は明白だった。
美食家伯爵はハンカチで口を拭うと、立ち上がって宣言した。
「勝者、ムギクラ・タクミ! このパンこそ、真の『至高』である!」
***
騒ぎが落ち着いた夕暮れ時。
撤収作業をしていた僕のもとに、ジャン=リュックがやってきた。憑き物が落ちたような、清々しい顔をしていた。
「……約束通り、私はギルドを辞めるつもりだ。こんな未熟者が筆頭職人を名乗る資格はない」
「辞める必要はありませんよ」
僕は彼に手を差し出した。
「あなたの技術は凄かった。あの成形、あの焼き加減。僕には真似できません。……どうです? 僕にその技術を教えてくれませんか? 代わりに、僕の酵母の使い方を教えますから」
ジャン=リュックは目を丸くした。
「敵に塩を送る……いや、酵母を送るつもりか?」
「言ったでしょう。美味しいパンは独り占めしない主義なんです」
ジャン=リュックは苦笑し、そして僕の手をしっかりと握り返した。
「……君は底知れない男だ。いいだろう、受けて立つ。王都に戻ったら、君のパンを広める手伝いをさせてもらおう」
こうして、パンギルドとの対立は、まさかの技術提携という形で幕を閉じた。
最強のライバルが、最強の味方になった瞬間だった。
だが、僕たちの冒険はこれで終わりではない。
王都へ帰るジャン=リュックから、別れ際に気になる情報を聞いたのだ。
「そういえばタクミ殿。最近、隣国との国境付近で、兵士たちの食料事情が悪化しているらしい。君のような『保存が効いて栄養価の高いパン』が求められているかもしれないぞ」
その言葉が、僕を新たなステージ――戦場へと導くことになるとは、まだ知る由もなかった。
(第一部 完)




