プロローグ
■本編執筆(プロローグ・第1章)
プロローグ:ラスト・バゲット
オーブンのタイマーが鳴った。
それは僕、麦倉匠にとって、人生で最も待ちわびた音だった。
「……よし。完璧な焼き上がりだ」
耐熱ミトンを嵌めた手で、慎重に鉄板を引き出す。
熱気と共に、香ばしい小麦の香りが狭い厨房いっぱいに爆発した。バゲットの表面は理想的な黄金色で、冷えるにつれてピキピキと「天使の拍手」と呼ばれる心地よい音を立てている。
明日は、念願だった自分の店『ベーカリー・タクミ』のオープン日だ。
高校卒業から十五年。有名店での修行、フランスへの渡航、そして借金をしてようやく構えた小さな城。
このバゲットは、その第一歩となる記念すべき一本だった。
「さて、試食といくか」
まだ熱いバゲットをナイフで切ろうとした、その時だった。
店の外、通りから激しいブレーキ音と衝撃音が響いた。ガラス戸を突き破り、コントロールを失ったトラックが厨房へと突っ込んでくる。
スローモーションのような視界の中で、僕はバゲットを胸に抱きしめた。
(ああ、くそ。せっかく綺麗に焼けたのに)
痛みは一瞬。
僕の意識は、小麦の香りに包まれたままブラックアウトした。
次に目が覚めたとき、目の前には白衣を着た女神が立っていた。
彼女は僕を見るなり、困ったように眉を下げて言った。
「あの……麦倉さん? 魂になってもパンを離さないのは、貴方くらいですよ?」
見ると、半透明になった僕の腕には、同じく魂となった(?)バゲットが抱えられていた。
「手違いで死なせてごめんなさい。お詫びに、剣と魔法の世界にご招待します。何か欲しい能力はありますか? 聖剣とか、大魔法とか」
「……イースト菌は、ありますか?」
「は?」
「向こうの世界に、パンを発酵させるための酵母はありますか、と聞いています」
「あ、ありますけど……今のところ、向こうの人類は有効活用できていないみたいですね」
「じゃあ、それでいいです。僕に、酵母と語り合える力をください。あと、パンを焼く場所を」
女神は呆れ、そして少しだけ笑った。
「わかりました。貴方のそのパンへの執念、異世界で花開かせなさい。スキル【魔酵母】を授けます」
視界が再び白く染まる。
最後に聞こえたのは、「おいしいパン、期待してますよ」という女神の声だった。




