第7話 王の疑念
王城の最も奥深く、国王の私室。重厚な調度品に囲まれたその部屋は、今、主の苛立ちで満たされていた。
「――また、ヴァレットか」
国王クラヴィスは、元老院から上がってきた報告書を机に叩きつけた。報告書には、王都における物資流通のシェア率が記されている。食料、衣料、そして建築資材。その実に六割が『ヴァレット商会』の息のかかったルートで動いているという事実が、数字として示されていた。
「たかが成り上がりの子爵風情が、増長しおって……」
クラヴィスは舌打ちをした。当初は利用するつもりだった。金のある商人を飼い慣らし、その富を吸い上げる。それが王の特権だと思っていた。だが、現実はどうだ。『鉄の子爵』は、王の命令には恭順な姿勢を見せつつ、気づけば国の経済という血管を握っている。魔鉱石の納品も滞りはないが、その採掘現場はヴィルトゥス家の私兵によって鉄壁に守られ、王の監査官すら立ち入れない「聖域」と化していた。
(このままでは、余が飼い殺しにされる)
王としての本能が、警鐘を鳴らしていた。あの男は危険だ。底が見えない。笑顔の下で何を考えているのかわからない不気味さがある。排除せねばならない。だが、単に処刑すれば経済が混乱する。ならば――。
「……おい、近衛隊長を呼べ」
クラヴィスは、口の端を卑しく歪めた。正攻法で勝てぬなら、盤面をひっくり返せばいい。商人の財産も、鉱山の権利も、すべて合法的に没収する方法があるではないか。「国家反逆」という、便利な罪状を使えば。
その日の午後、ヴァレット商会の本店は、怒号と悲鳴に包まれた。
私は執務室で書類に目を通していたところだった。
「動くな!王国近衛騎士団である!」
武装した騎士たちが、土足で磨き上げられた床を踏み荒らし、なだれ込んでくる。私は、乱暴に開け放たれた扉と、そこに立つ近衛隊長を、眉一つ動かさずに見やった。
「……これはまた、随分と賑やかな来客ですね」
ペンを置き、ゆっくりと立ち上がる。隊長は私に剣先を向け、高らかに宣言した。
「シリル・ヴァレット!貴様を『国家反逆罪』の容疑で拘束する!」
「反逆、ですか。……身に覚えがありませんが」
「しらばっくれるな!貴様の倉庫から、敵国『ガレリア帝国』との密通を示す書簡と、横流ししようとした武器が発見された!」
ああ、なるほど。そういう筋書きか。私は心の中で失笑した。あまりに芸がない。倉庫から見つかったという証拠品は、十中八九、彼らが先ほど勝手に持ち込み、マッチポンプで「発見」した捏造品だろう。
敵国への横流し。確かに、王に内緒で武器を作ってはいるが、それはアルフォードのためであって帝国のためではない。だが、ここで無実を叫ぶのは三流のすることだ。
(待っていたよ、クラヴィス王)
私は、わざと怯えたように両手を挙げた。
「……抵抗はしません。ですが、これは何かの間違いです」
「言い訳は尋問室で聞こう。連行せよ!」
騎士たちが私の腕を乱暴に掴み、背手に縛り上げる。騒然とする従業員たち。番頭が青ざめた顔で私を見ている。私は連行されるすれ違いざま、彼だけに聞こえる声で短く告げた。
「『鍵』を閉めろ」
番頭の顔色が変わる。彼は小さく頷いた。それは、事前に決めておいた暗号コードだ。――トップが不在となった瞬間、商会の全機能を停止せよ。倉庫を封鎖し、物流を止め、資金を凍結する。王都の動脈を止めるのだ。
私は連れ去られる馬車の中で、王都の空を見上げた。
さあ、始めようか。王様。貴方が仕掛けたその罠が、自分の首を絞めるロープになるとも知らずに。
「シリルが捕まっただと!?」
ヴィルトゥス伯爵邸のリビングで、アルフォードは急報を持ってきた家令に詰め寄った。手にしたティーカップが床に落ちて砕ける。だが、そんなことを気にしている余裕はなかった。
「国家反逆罪……馬鹿な。あいつは強欲な商人だが、国を売るような男ではない!」
アルフォードにとって、シリルは理解し難い男だった。冷徹で、強引で、何を考えているのかわからない。だが、この数ヶ月、彼と共に過ごしてわかったことがあった。シリル・ヴァレットという男は、損得勘定で動く怪物だが、決して「契約」を破らない。彼はアルフォードに「ヴィルトゥス家を守る」と言った。
(シリルが、私やや領民を危険に晒すような真似をするはずがない)
アルフォードはそう、確信していた。
(これは、罠だ)
アルフォードの直感が告げていた。シリルの台頭を疎んだ何者かの陰謀。助けなければ。今まで、散々彼に助けられてきたのだ。アルフォードは、今度は自身が彼を守る番だと感じた。
「馬を引け!王城へ向かう!」
家令の制止も聞かず、アルフォードは屋敷を飛び出した。
雨が降り始めていた。泥を跳ね上げ、馬を走らせる。王城の正門にたどり着いた頃には、自慢のプラチナブロンドも礼服も、雨と泥で汚れていた。だが、門番たちは冷淡だった。
「通せ!私はヴィルトゥス伯爵だ!陛下に直訴したい儀がある!」
「お引き取りを。陛下は今、公務でお忙しい」
「ふざけるな!無実の罪で子爵が捕らえられたのだぞ!話だけでも聞いてくれ!」
アルフォードが叫ぶと、門の向こうから、聞き覚えのある嘲笑が響いた。濡れた石畳を歩いてきたのは、知己のある近衛隊長だった。
「騒がしいと思えば……没落貴族の成れの果てですか」
「なに……ッ!」
アルフォードは前へ出ようとするが、門番たちに抑え込まれる。雨水が膝に染み込む。
「言っておく!シリル・ヴァレットの容疑は冤罪だ!彼は確かに強引な男だが、国への忠義は……」
「忠義?あのドブネズミにか?」
近衛隊長は鼻で笑い、蔑むような目で見下ろした。
「ヴィルトゥス。私は知っているぞ。貴様があの男に借金を肩代わりしてもらい、飼われていることをな」
「っ……」「誇り高き『王国の剣』と謳われた家も地に落ちたものだ。商人の金に尻尾を振る犬になり下がるとは」
屈辱で、アルフォードの顔が熱くなる。反論できなかった。事実はその通りだからだ。アルフォードはシリルに買われた。その事実が、今、鋭い刃となって胸を抉る。
「……それでも!彼がいなければ、北の鉱山は再稼働しなかった!彼の商才は国に必要だ!」
「黙れ」
近衛隊長は冷たく言い放つ。
「反逆者の肩を持つなら、貴様も同罪として処断せねばならんぞ?……今は慈悲で見逃してやる。失せろ」
近衛隊長は踵を返し、門番たちが槍を構えてアルフォードを威嚇した。閉ざされる重厚な鉄の門。その冷たい音は、アルフォードに「拒絶」を突きつけていた。
「……くそッ!」
アルフォードは泥濘に拳を叩きつけた。無力だ。家柄も、誇りも、正義感も。王権の前では、何の役にも立たない。シリルはいつも、こんな理不尽な世界と戦っていたのか?冷たい雨に打たれながら、アルフォードは初めて、あの鉄仮面のような男の孤独に触れた気がした。
「シリル……」
そして、どうしようもない不安がアルフォードの胸を支配する。
(もし、このままシリルが処刑されたら?誰が私を導く?誰がヴィルトゥス家を、領民を守ってくれる?)
気づけば彼は、シリルという存在に、骨の髄まで依存させられていたのだ。
王城の地下牢。湿った石壁に囲まれた独房で、私は硬い寝台に腰掛けていた。手足には鉄の枷。食事も与えられず、ただ処刑の決定を待つだけの身。普通なら絶望する状況だろう。
だが、私の口元には、抑えきれない笑みが浮かんでいた。
(アルフォード。今、君は泣いているか?)
(悔しがっているか?自分の無力さを呪っているか?)
想像するだけで、背筋がゾクリと震える。王に門前払いを食らい、泥にまみれた君。その絶望こそが、君を私の檻に繋ぎ止める鎖になる。大丈夫だ。心配はいらない。これは「休憩」に過ぎないのだから。
「……そろそろ、王都の市場から小麦粉が消える頃ですね」
私は暗闇に向かって呟いた。私の商会が止まれば、明日のパンも焼けない。物流が止まり、物価が高騰し、民の不満は爆発する。そして、私が仕込んだ「もう一つの爆弾」も、そろそろ火を噴くはずだ。かねてより王軍に納品し続けた、あの欠陥だらけの武器たちが。
「チェックメイトはまだ先ですよ、陛下」
鉄の枷が擦れる冷たい音を聞きながら、私は目を閉じた。瞼の裏に浮かぶのは、涙に濡れた美しい君の顔だけだった。




