第35話 最後の鎖
シリルの葬儀が終わり、屋敷の整理もあらかた片付いた頃。王太后エレノアのもとに、一人の公証人が訪れた。
「シリル・ヴァレット子爵からの、極秘の遺言です」
彼はそれだけ告げ、重厚な黒革の鞄を置いていった。
「……おじさまからの、秘密の贈り物?」
エレノアは自室に鍵をかけ、震える手で鞄を開いた。中に入っていたのは、金塊でも宝石でもない。膨大な量の「書類の束」と、一通の手紙だった。
『愛する娘、エレノアへ』
懐かしい筆跡。エレノアは、シリルの最後の「温かい言葉」が書かれているのでは、と期待した。しかし、読み進めるうちに、エレノアの顔色は青ざめ、やがて戦慄に変わっていった。
『レオンハルトは最強の王となるだろう。だが、獅子は時に飼い主をも噛み殺す。……彼が暴走し、ヴィルトゥス家の名を汚すようなことがあれば、この遺産を使い、お前がすべてを処断せよ』
それは、新王レオンハルトの「手綱」を握るための指南書だった。同封されていたのは、この国の「裏側」そのもの。ーー全貴族の不正、不貞、犯罪の証拠。他国の王族の弱み。
シリルが長年かけて築き上げた「世界中を脅迫できる諜報網」。その継承手段が、そこに記されていた。
『これは猛毒だ。だが、毒を制する者だけが、真に王を操れる』
また、別の書類では、ヴァレット商会の莫大な財産の管理方法について指示がなされていた。
『国王陛下にお渡しした商会の財産は、ほんの一部に過ぎぬ。商会は王権と分離し、ヴィルトゥスの傍系に継承させよ。情勢に応じ王家の味方になり、また敵ともなり、ヴィルトゥスの血脈の維持だけを最優先事項に据えるのだ」
そして書類の底には、特に厳重に封蝋された分厚い封筒があった。
表書きには『エレノア・ヴィルトゥスに関する調査書』とある。
「……え?」
エレノアは息を呑み、封を切った。そこには、彼女自身の「全て」が記されていた。
幼少期の母との思い出。
セオドア王との出会いとその関係性。
父アルフォードを欺いて、シリルに協力した日々の記録。
そして彼女の罪――幼いころ、ちょっとした悪戯で飼い猫を殺してしまい隠蔽したこと。
若き日に、彼女が一度だけ心惹かれた近衛騎士との、誰にも知られていないはずの淡い恋人関係。その恋文の写しまでもが。
『――人間は、誰しも秘密を持つ。もちろん、私の可愛い娘も例外ではない』
手紙の最後には、シリルの悪戯っぽい、しかし冷酷な追伸があった。
『この資料は、私の死後、自動的に「ある場所」へ転送される手はずになっている。……もしお前が、ヴィルトゥス家の守護者としての責務を放棄したり、レオンハルトの手綱を放して国を傾けたりすれば……これらの情報は即座に世間に公表されるだろう』
「……っ!」
エレノアは書類を取り落とした。全身から冷たい汗が吹き出す。
死んだはずだ。シリルは間違いなく死んだ。なのに、彼の冷たい指先が、今も自分の喉元に触れているような感覚。
『安心しなさい。お前が賢明な「国母」であり続ける限り、この箱はただの紙切れに過ぎぬ。……頼んだよ、エレノア。私の愛した血脈を、永遠に守り抜いてくれ』
エレノアは、その場に崩れ落ちた。恐怖。屈辱。そして、逃れられない依存。彼は、死してなお彼女を認めず、許さなかった。「アルフォードの孫を守るための道具」として、死ぬまでこの鎖に繋がれて生きろと、優しく脅迫しているのだ。
シリルと父の歪な関係も、冷徹な政治判断も――すべてを理解し、あの怪物を凌駕したと、エレノアは自負していた。だが、それは致命的な驕りだった。
「……あは、あはは……」
エレノアの口から、乾いた笑いが漏れた。涙が溢れて止まらない。それは悲しみなのか、それともあまりに完璧な支配への感動なのか、彼女自身にもわからなかった。
「……勝てないわ。本当に、貴方には……」
エレノアは涙を拭い、黒革の鞄を抱きしめた。
その重みは、これからの彼女の人生そのものだった。
彼女は、自身の恥部さえも握る「死せる養父」に背中を押され――あるいは蹴り飛ばされながら、最強の王の影で、国を操る魔女となる覚悟を決めた。
シリル・ヴァレット。その男の愛は、墓の下からでも世界を支配していた。
シリルの死で、いったん区切りはついたのですが、エピローグを追加しようと思います。
よろしければお付き合いくださいませ。
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