第32話 お前は恐ろしい男だ
冬の終わり、春の訪れを告げる風が吹く頃。孫の即位と共に公爵の位を賜り、その治世を支え続けたアルフォード・ヴィルトゥスは、その長い責務を終え、静かに天寿を全うしようとしていた。
寝室では、立ち会っていた医師も、泣き崩れる娘のエレノアも、公務を抜けて駆けつけた国王レオンハルトも、すでに席を外している。
アルフォードが「最期はシリルと二人だけにしてくれ」と願ったからだ。静寂に包まれた部屋で、私は椅子に座り、痩せ細った彼の手を握りしめていた。
「……シリル」
「はい。ここにおりますよ」
「不思議だな。……死ぬというのに、怖くない」
アルフォードは天井を見つめ、掠れた声で言った。
「昔は、戦場で死ぬのが誉れだと思っていた。……剣を振るい、国のために散るのが騎士の本懐だと」
「ええ。貴方はそういう、愚直で美しい人でした」
「だが、お前がそれを奪った」
彼はゆっくりと視線を私に向けた。その碧眼は、老いてなお澄み渡り、私の魂の底まで見透かすようだ。
「お前は私の剣を奪い、誇りを奪い……代わりに、この平和で退屈なベッドを与えた。……王を殺し、歴史を書き換え、世界中を敵に回してでも、私の命を守ろうとした」
それは断罪のようであり、懺悔のようでもあった。私は何も言わず、ただ彼の手を握る力を強めた。私のやったことは、彼のエゴを私のエゴで塗り潰したに過ぎない。「推しを死なせたくない」という、転生者の独善的な愛だ。
「……シリル。お前は、私の人生をめちゃくちゃにした悪魔だ」
アルフォードが、悪戯っぽく口角を上げた。
「私の意思などお構いなしに、勝手にレールを敷いて……気づけば私は、お前の作った箱庭の中でしか生きられないようになっていた」
「……申し訳ありません」
「謝るな。……礼を言っているんだ」
アルフォードの手が、震えながら持ち上がり、私の頬に触れた。その指先は冷たかったが、そこにある温もりは私の胸を焦がした。
「国を守る重圧からも、政治の汚なさからも、お前はずっと私を遠ざけてくれた。……おかげで私は、娘の成長を見守り、孫を抱き、こうしてベッドの上で死ねる」
彼の瞳に、涙が滲んだ。
「お前は、私の全てを支配した。……国も、家族も、私の心さえも」
「……」
「シリル。……お前は、本当に恐ろしい男だ」
その言葉は、私がこの世界で聞いたどんな賛辞よりも甘美に響いた。恐ろしい男。それは、「貴方の人生を完全に掌握し、守りきった」という証明。私の愛が、彼に届き、彼を縛り、そして彼を幸福にしたという、勝利の宣言だった。
「……ええ、そうです。私は恐ろしい男です。そして、貴方の永遠の共犯者です」
「ふ……。頼もしいな」
アルフォードは満足げに目を細めた。呼吸が、少しずつ浅くなっていく。
「先に行っているぞ、シリル。……向こうでも、私の安寧を守ってくれるんだろう?」
「もちろんです。地獄の底だろうと、天国の果てだろうと……私が必ず、貴方の居場所を整えておきます」
「そうか……。なら、安心だ……」
アルフォードの手が、ゆっくりと枕元へ落ちた。まぶたが閉じられる。その顔には、苦痛も後悔もなく、ただ長い旅を終えた旅人のような、安らかな微笑みだけが残されていた。
窓の外から、春の鳥の声が聞こえる。私は、動かなくなった彼の手を両手で包み込み、額を押し当てた。涙は出なかった。あるのは、空っぽになった寂寥感と、それ以上に巨大な「達成感」だった。
(終わった……)
原作ゲーム『救国の騎士』。悲劇の騎士アルフォードは、非業の死を遂げる運命だった。だが、私は変えた。世界を騙し、王を陥れ、血塗られた道を歩んででも、この結末をもぎ取った。
「……おやすみなさい、私の英雄」
私は彼の冷たい額に、最後の口づけを落とした。私の役目は終わった。だが、私の愛は終わらない。彼が残した血脈がこの国を統べる限り、そして私が彼を覚えている限り、私の支配と献身は続いていく。
物語は、ここでひとつの幕を閉じる。しかし、その歪で美しい愛の爪痕は、歴史の中に永遠に刻まれることだろう。




