第3話 支配という名の契約
王都の社交界は、ある噂で持ちきりだった。ヴィルトゥス伯爵家が手放した「北の廃坑」で事故が多発し、死霊の祟りが起きている――と。
「先祖伝来の土地を商人に売り払い、その結果がこの様か」
「ヴィルトゥス家の管理責任はどうなっている」
その悪評は、当然ながら私の耳にも、そして彼の耳にも届いていた。執務室の窓を叩く雨音を聞きながら、私は冷たく笑う。全ては計算通りだ。
「――会頭。ヴィルトゥス伯爵がお見えです」
秘書の言葉が終わるより早く、執務室の扉が乱暴に開かれた。濡れた外套を羽織ったまま、アルフォードが足早に入ってくる。その顔には、焦燥と抑えきれない怒りが張り付いていた。
「ヴァレット!話がある!」
「おやおや、アポイントもなしに……。伯爵ともあろうお方が、礼儀を欠いておられる」
「礼儀など構っていられるか!」
アルフォードは私のデスクに両手をつき、碧眼を吊り上げて私を睨みつけた。
「北の鉱山を返してもらおう。契約は破棄だ!」
「……ほう?それはまた、随分と一方的な」
「あの山で事故が多発しているそうだな。それに魔獣被害も出ていると聞いた。商人の杜撰な管理のせいで、かつての私の領民たちが怯えている。……これ以上、ヴィルトゥス家の土地で悪評が立つのを看過することはできん」
彼は私の経営破綻など心配していない。気にしているのは「領民の安全」と「家の誇り」。実に彼らしい、貴族的な傲慢さと正義感だ。
「なるほど。家の名誉を守りたい、と」私はペンを置き、淡々と答えた。「構いませんよ。ご不満があるなら、お返ししましょう」
あまりにあっさりとした承諾に、アルフォードが拍子抜けした顔をする。だが、私はすぐに掌を上に向け、突きつけた。
「では、違約金を含めた代金の返還をお願いします。……今すぐに」
その瞬間、アルフォードの顔が凍りついた。視線が泳ぎ、口元が引きつる。
「そ、それは……後日、必ず用意する。だから先に権利を……」
「おやおや。まさか、もう使い切ってしまわれたのですか?」
図星だった。私が支払った巨額の買収金は、長年の借金の返済、使用人の未払い給与、そして屋敷の修繕費に消えているはずだ。彼の手元にはもう、山を買い戻す金など一銭たりとも残っていない。
「金がないのに、契約を白紙に戻せと?……伯爵、それは通りませんよ」
私は立ち上がり、言葉を失って立ち尽くす彼を見下ろした。
「貴方は私に売ったのです。所有権は私にある。私がその山をどう扱おうと、放置しようと、貴方に口を出す権利はない」
「っ……だが、このままでは領民が……家の名誉が……ッ!」
アルフォードが拳を握りしめる。金はない。だがプライドが許さない。彼は今、完全に詰んでいる。
さあ、ここからが本当の商談だ。
「……ですが、私も鬼ではない。解決策を提案しましょう」
「解決策……?」
私は新しい書類を取り出し、彼の前に提示した。
「対外的には、『ヴィルトゥス家が鉱山を買い戻した』と公表しましょう。これで貴家の名誉は守られる」
「……金がないと言ったはずだ」
「ええ。ですから、私がスポンサーとして裏から資金を提供します。安全対策を徹底し、魔獣討伐のための私兵団も私が雇いましょう。領民の安全も、私が保証します」
アルフォードが怪訝な顔をする。
「貴様に何のメリットがある?それでは貴方がただ金を出すだけではないか」
「メリットはあります。鉱山から出る利益の実質的な権利は、引き続き私が保持する。……そして」
私は机を回り込み、彼のすぐ側まで歩み寄った。
「貴方が私に借りができる。……そう、一生かかっても返せないほどの巨大な借りが」
「な……ッ」
「買い戻す金がないのなら、別のものを差し出していただきましょう」
私は彼の手首を掴み、強引に引き寄せた。抵抗しようとする腕をねじ伏せ、その耳元で低く囁く。
「貴方の『身柄』です、アルフォード伯爵」
「き、さま……何を」
「貴方の社会的地位、人脈、そしてその剣。今後、貴方はヴィルトゥス伯爵として振る舞いながら、その実、私の操り人形として動くのです」
商人が表立って政治に口を出せば叩かれる。だが、名門貴族の発言なら重みが違う。私は彼という美しい「看板」を使って、政界に食い込むのだ。
「断れば、私はこのまま鉱山を放置します。事故は増え、噂は広まり、ヴィルトゥス家の名は地に落ちるでしょう。……金のない貴方には、それを止める術はない」
アルフォードが歯を食いしばる。悔しさと無力感に、その身体が震えている。だが、彼に拒否権などないことは、彼自身が一番よく理解していた。
長い沈黙の果てに。アルフォードは、糸が切れたように膝を折った。
「……わかった」
床を睨みつけたまま、彼は血を吐くように言った。
「表向きの名誉と、領民の安全が守られるなら……この身など、くれてやる」
屈辱の選択。だが、彼は選んだ。自身の尊厳よりも、家と民を守ることを。ああ、やはり君は高潔だ。だからこそ、こうして私の罠に落ちる。
「賢明なご判断です」
私は跪く彼の顎を指で掬い上げ、無理やり視線を合わせさせた。屈辱に濡れた碧眼が、睨みつけるように私を見ている。その反抗的な瞳に、背筋がゾクリと震えた。
「では、契約成立だ。……我が主」
皮肉を込めてそう呼ぶと、アルフォードは顔を背けた。だが、その首にはもう、見えない首輪が嵌められている。
金も、土地も、名誉も。そしてこの身さえも。彼はすべてを失い、私のものとなったのだ。私が作った黄金の檻の中で、彼はこれから、私の望むままの片割れとなる。




