第26話 傀儡の自我
セオドア王の治世も、早三十年が経とうとしていた。王都は平和そのものだった。摂政シリル・ヴァレットの敷いた鉄のレールの上を、国は、音もたてず滑らかに走り続けていた。だが、その平穏な王宮の奥底で、小さな亀裂が生まれ始めていた。
「……陛下。いつまで、あの鉄仮面の言いなりになっているのですか?」
王の執務室。セオドア王の周囲には、若い貴族たちが集まっていた。彼らは、かつての「鉄の子爵」の恐怖を知らない世代だ。セオドアは、三十代半ばを迎え、父ユリウスによく似た優男になっていた。
「言いなりではない。シリルは……私の師であり、国の重鎮だ」
「ですが、民は陛下ではなく、ヴァレット子爵を崇めています。『真の王はシリル様だ』と」
側近の言葉に、セオドアの眉がピクリと動いた。長年、心の奥底に封じ込めてきた劣等感。愛する妻エレノアも、息子のレオンハルトも、そして国民も――誰も自分を見ていないという虚無感。
「それに、レオンハルト殿下のご教育方針についても、シリル殿は独断が過ぎます。このままでは、陛下はただの『飾り物』として歴史に名を残すことになりますぞ」
「……飾り物」
セオドアは拳を握りしめた。彼は狂ってはいない。ただ、遅すぎた反抗期が来ただけだった。自分は王だ。アウルムの血を引く、正統なる君主なのだ。
「……では、どうすればいい?」
「簡単です。陛下のご命令で、シリル殿を解任なさればよいのです。……我々がついております」
甘い言葉。だが、それは蜜ではなく、破滅への誘い水だった。
その日の夜。私はいつものように、王への定例報告のため執務室を訪れた。だが、扉の前で近衛兵に槍を交差された。
「……何の真似だ?」
「陛下のご命令だ。シリル・ヴァレット子爵、貴殿の入室を禁ずる」
若い近衛兵が、緊張した面持ちで告げた。私は眉一つ動かさず、扉の向こうの気配を探った。中にはセオドアと、数人の側近たち。息を潜めてこちらの様子を窺っているのがわかる。
(なるほど。……自我が芽生えましたか)
「傀儡」としての役割に徹していれば、彼は安泰だった。美味しい食事、美しい妻、そして平穏な生涯。だが、彼はそれを捨て、自らの意思で「王」になろうとした。それが、私という怪物の前でどれほど無謀なことかも知らずに。
「承知した。……陛下にお伝えしろ。『ご無理をなさいませぬよう』と」
私は静かに踵を返した。騒ぎ立てる必要はない。廊下を歩きながら、私は無表情のまま懐中時計を取り出した。
「……アルフォード」
曲がり角で待っていたアルフォードが、心配そうに歩み寄ってくる。
「シリル。セオドア陛下の様子がおかしいと聞いたが」
「ええ。どうやら陛下は、私という補助輪を外して走りたくなったようです」
「……説得するか?」
「いいえ」
私は冷徹に即答した。
「一度、主人に牙を剥いた飼い犬は、二度と元には戻りません。……躾の段階は終わりました」
私の目には、もうセオドアへの情など欠片もなかった。あるのは、排除すべき障害物を見る計算だけ。
「……準備を進めます」
「準備?何のだ」
アルフォードの問いには答えず、私は歩を進めた。私の頭の中では、すでに冷酷な決断が下されていた。セオドア・アウルム。「神の贈り物」と名付けられた彼は、今や「不要な荷物」へと変わったのだ。




