第16話 父の跪礼
王都の大聖堂。ステンドグラスから差し込む極彩色の光が、新調された深紅の絨毯を照らし出していた。今日は新国王セオドアの戴冠式。国の内外から集まった数百の貴族たちが、固唾を呑んで儀式の行方を見守っている。
「――これより、戴冠の儀を執り行う」
司教の厳かな声が響く。祭壇の前には、身の丈に合わぬ豪奢なマントを羽織った五歳の少年、セオドアが立っていた。その立ち姿は、驚くほど堂々としていた。背筋を伸ばし、視線は揺らがず、表情は凍てついた湖面のように静かだ。私が教えた通りだ。
「王とは、何者にも動じぬ概念である」。
彼はその教えを完璧に体現している。
最前列の参列席で、私はその様子を眺めていた。隣には、青ざめた顔のアルフォードがいる。
「……見ろ、シリル。あの子の佇まいを。……まるで、歴戦の王のような威圧感だ」
「ええ。これこそが、民が求めた『強い王』の姿ですよ」
私の視線の先で、一人の男が祭壇へと歩み出た。前国王の長男であり、新国王の父――ユリウス・アウルムだ。彼はやつれていた。隔離期間中、息子に会えない焦燥で眠れぬ夜を過ごしたのだろう。だが、その瞳にはまだ微かな光があった。
「ようやく息子に会えた」
「今日からは私が支えてやるのだ」
そこには、父親としての使命感があった。
(……哀れですね)
その光が、これから永遠に消えるとも知らずに。
ユリウスはセオドアの前に立つと、感極まったように口元を震わせた。
「……セオドア。立派になったな」
小声で呼びかける。親子の再会だ。だが、セオドアは眉一つ動かさなかった。ただ、儀式の手順通りに冷ややかな視線を父へ向けるだけ。
「……後見人殿。儀式の進行を」
司教に促され、ユリウスはハッと我に返った。そうだ。ここは公の場。親子の情を交わす場所ではない。彼は唇を噛み、ゆっくりと、その膝を床についた。
重い音が響く。かつては王になるはずだった男が、自分の息子に対して、臣下として跪く。屈辱的な構図。だが、ユリウスは顔を上げた。
「私、ユリウス・アウルムは……新国王セオドア陛下に、生涯変わらぬ忠誠を誓います」
震える声での宣誓。彼は自分に言い聞かせているのだ。
「これは息子のためだ」
「私が泥を被れば、あの子は輝ける」
宣誓が終わり、ユリウスは優しく微笑んで息子を見上げた。
「さあ、陛下。私に手を。……これからは、父が全力でお守りしますから」
それは、台本にはない言葉だった。溢れ出る父性。彼はまだ信じている。自分が息子の庇護者であることを。
その時。セオドアが、ゆっくりと父を見下ろした。その瞳には、父への愛慕も、再会の喜びもなかった。あるのは、無能な部下を見るような、氷のごとき理性。
「――面を上げよ、ユリウス」
大聖堂の空気が凍りついた。5歳の子供の発声ではない。低く、抑揚を抑えた、王としての命令口調。ユリウスが驚愕に目を見開く。
「セオ……ドア……?」
「言葉を慎め。もはや、余は其の方の息子ではない。この国の『法』であり『秩序』である」
セオドアは、私が昨夜徹底的に暗記させた台詞を、一言一句違わず、感情を排して紡いだ。
「其の方は言ったな。『守る』と。……笑わせるでない」
幼い王は、跪く父の鼻先へ、冷徹に指を突きつけた。
「借金一つ返せず、政策一つ通せぬ無能が、誰を守れるというのか?……王に必要なのは、情に溺れる父親ではない。余の手足となり、黙って泥を被る『忠実な臣下』のみだ」
「な……ッ!?」
ユリウスの顔色が土気色に変わる。ショックだったのは、息子に罵倒されたことではない。その言葉があまりに理路整然としており、そして何より――「正論」だったからだ。今のユリウスには何の力もない。その事実を、最愛の息子に、王としての威厳を持って断罪されたのだ。
「下がるがよい。……二度と、余の御前で『父』などという甘えた顔を見せるな。不愉快である」
セオドアは汚いものを見るように視線を切り、玉座へと戻った。そのマントを翻す仕草は、あまりに洗練され、完璧な王の所作だった。
「……あ、あぁ……」
ユリウスは立ち上がることさえできなかった。床に手をつき、喉の奥から押し殺したような嗚咽を漏らす。わかってしまったのだ。あの日、離宮の扉が閉ざされた瞬間、愛しい息子は死んだのだと。そこにいるのは、シリル・ヴァレットの思想を完璧にインストールされた、美しい「生きた玉座」なのだと。
式典は、新国王の威厳を称える拍手の中で幕を閉じた。茫然自失のユリウスは、側近に抱えられるようにして退場していった。その目は虚ろで、もう二度と「理想」を語ることはないだろう。
「……見事でしたね」
退出する回廊で、私は満足げに呟いた。隣を歩くアルフォードは、幽鬼のような顔で震えている。
「……あの子は、まだ五歳だぞ」
アルフォードが、絞り出すように言った。
「あんな言葉を……あんな冷酷な理屈を、五歳の子供に言わせたのか。父親の心を殺すためだけに」
「教育の成果と言ってください。……あのおかげで、ユリウス殿下は自身の立場を理解されたでしょう。これで国は安定します」
私はアルフォードの背中に手を添え、優しく支えた。
「心が壊れた人間は、反逆を企てたりしません。……ねえ、アルフォード。貴方も安心したでしょう?もう、愚かな理想に振り回されなくて済むのですから」
「……っ」
アルフォードは私を睨みつけたが、その瞳には明らかな怯えの色があった。「次は自分かも知れない」という恐怖。そして、この怪物(私)の手を離せば、自分たちもあの親子のようになってしまうという、逃れようのない依存心。
(それでいい、アルフォード)
私は震える彼の肩を抱き寄せた。ユリウスという希望は完全に排除された。貴方がすがるべき「正義」はもうどこにもない。この泥沼の中で、私と共に踊り続ける以外には。
遠くで、祝砲の音が虚しく響いていた。鉄の子爵による、完全なる支配体制の完成を祝う音が。




