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ベッカライウグイス③ とらおと呼ばれた日

羽鳥さんの送別会。ベッカライウグイスは、しんみり。

だが、その翌日、ベッカライウグイスの面々は、

熊のような不審者に遭遇する?!

 ベッカライウグイスは、真新しいお店ではない。店舗もしかり工場もしかり、古い建築や機械を大切に磨き上げて存在している。

 嵌め殺しの窓は、木の桟も(かまち)も古く、冬は結露するであろうし、カウンターの辺りは冷えるだろう。お店の、古城から切り離して据え付けたかに見える重たい扉は、ここを建ててくれた大工さんが、図書館で本に載っている写真を模写し、他県の鋳物工場へお願いしに行って細かな部品まで整えたものだそうだ。大工さんは生粋の日本人だが、一度だけ旅行に出掛けた海外で、その土地土地の建築物に目を奪われ、たくさんの写真を撮ってきた。古びた石や木の手触りがどれほど人の生活に溶け込み、摩耗しながらも変わらない形で人の営みとともにあるのか、その歳月が存在し求められていることに心を奪われたという。建築物とは、深い思いがあちこちに沈んでいるからこそ意味があるのだと、リスさんは子どもの頃、その大工さんから聞いたそうだ。そのときに修理されて以来のまま、ベッカライウグイスは大切に日々を暮らしている。


 

 私は、木の角も丸みを帯びている古い床を丁寧に箒で掃き、それから固く絞ったモップで磨き上げていった。

 いつもは、羽鳥さんがしてくれていた仕事だったが、今日からは私の仕事である。


 昨夜、ベッカライウグイスを従業員として最後に後にした羽鳥さんから、床はこう磨くのよ、と教わった通り、特に節の部分は窪まないよう優しく、それ以外の部分は木の油を拭き取りすぎないように、だが力を込めて磨いていく。年月を経て焦げ茶色に変わった床は、このお店の宝物の一つだと羽鳥さんは教えてくれた。

 「私はね、パンを作るのも好きだったけど、ここの床磨きが一番好きだったのよ」

 

 羽鳥さんの送別会は、閉店後の夜、しめやかに開かれた。

 お料理は、みっちゃんの奥さんのみずほさんが準備してくれていた。リスさんとさくらさん、弘子さん、そして私も一品ずつ持ち寄った。みずほさんはパート勤務が終わると、よくベッカライウグイスにみっちゃんを迎えに来るので、私は何度も顔を合わせていた。みっちゃんとどことなく似た雰囲気の、おっとりと優しそうな人である。そして、何より料理が上手で、果物の皮の砂糖漬けや栗の甘露煮を作りにベッカライウグイスの工場へ入ることもあるのだと、リスさんから聞いていた。羽鳥さんとみずほさんは、長年の友人のようだった。送別会が始まる前から、二人の思い出話は堰を切ったようにあふれ出し、淀みなく空気を流れていく。その流れに、小舟に乗ったようにさくらさんや弘子さんが遊び、みっちゃんとリスさんと私は、そばで感心したり笑い転げたりした。


 リスさんと私は、賑やかな話に耳を傾けながら、準備を整えた。

 いつもはリスさんが作る焼き菓子を並べているテーブルに、明るいたまご色のクロスを掛け、そこに料理を並べた。飾りだと思って磨いていたランプが、テーブルとカウンターに灯されているのをはじめて見た。その明かりは細く揺らめいて、しまってあった思い出の在処を指し示す羅針のように思えた。思い出を示し、思い出をそっと閉じ込める、そのために飾られているのかも知れなかった。小さな炎心から立ち籠めるかすかな匂いは、見えない煙に変わって、私たちと昔から今までをつなぐ思い出話を、この時間に閉じ込めた。

 

 みっちゃん、さくらさん、弘子さん、みずほさん、リスさん、そして私は羽鳥さんと別れがたかった。私は、羽鳥さんと出会ってほんのひと月も一緒にいなかったが、羽鳥さんは、丸い頬をふくふくさせた笑顔で、私を毎朝迎え、一つ一つお店のことを教えてくれた。私がしっかりと覚え自分で考えて動けるようになるまで、羽鳥さんが知っていることを全部伝えてくれた。細部まで教えてくれながら、必ず「あとはリスちゃんに聞くといいわ」と言った。

 羽鳥さんは、ベッカライウグイスにずいぶん長く勤めていたようだったが、その年数を私は知らない。みっちゃんたちの方がたぶんよく知っているのだろう、リスさんよりも……そんな気がするので、羽鳥さんが、ベッカライウグイスの「好きだった」こと、と過去形で話すのを辛く思うのは、私よりも彼らだろうと思った。

 「定休日にお引っ越しすると、みんなお手伝いに来そうだから」

 と言って、羽鳥さんはわざとお店のある日を選んで引っ越しをする。けれどその日は、きっとお店にいるのはリスさんと私だけだろうと思う。送別会の夜は更けていった。


 思い出がより馴染むように、私は床を磨き上げる。じわじわと寂しくなるのは、リスさんも私も覚悟していた。


 「また来るわよ!」

 と明るく言って、昨夜、羽鳥さんはお店を後にした。家はこの地域にあるので、手入れのために連休には帰ってくるという。羽鳥さんは、ご主人の定年後、自分の人生に再びベッカライウグイスの日々が始まることを目論見、私たちは無事にその日が来ることを願い、送別会はお開きになった。



 翌日、リスさんと私は、はじめて羽鳥さんのいない工場で、二人だけで朝の仕事をやり遂げ、開店を迎えた。することはたくさんあったので、忙しさに紛れ羽鳥さんのことを忘れたり、お客さんが途絶えた休憩時間には、二人で、今頃羽鳥さんはどうしているかと話したりした。そんな、静かな午後だった。 

 


 カランコロン

 「いらっしゃいませ」

  

 お店の厚いドアが押され、入ってきたお客さんは、左奥のカウンターへ視線を移し、開口一番に言った。


 「みっちゃん、あなたもしかして毎日いる?」


 そう言ったのは、私を面接してくれた三人のうちの一人、弘子さんだった。みっちゃんは、弘子さんの冷静な問いに、食べかけのパンからぽってりと顔を出した大事なクリームを落としそうになって慌てた。

 「おっ」

 みっちゃんの口が無事にクリームを受け止める。

 セーフ。そこにいる誰もが、そう思った。

 みっちゃんは、何事もなかったようにそれを味わうと、しばらくしてコーヒーを一口啜った。

 みっちゃんは、羽鳥さんの家の前で見送りを終え、空港までは行くことをせずに、まっすぐベッカライウグイスへやってきた。そして、リスさんと私に引っ越しの様子を教えてくれた。羽鳥さんの引っ越し荷物の中で、一番重要だったのは、多数の植木鉢だったそうだ。向こうに持って行く荷物はそう多くなく、あらかたこちらの家へ置いていく中、大切に梱包されていた大小様々な植木鉢がトラックに積み込まれるのを、みっちゃんは見守ったそうだ。


 弘子さんは、すでにみっちゃんから興味を失ったようで、ショーケースの中のパンを選んでいた。

 「リスちゃん、これをお願いね」

 そして、私には

 「三多さん、コーヒーもお願いしますね」

 と言って笑いかけ、みっちゃんの隣に腰掛けに行った。

 弘子さんとさくらさんは、空港で羽鳥さんを見送る予定だと言っていた。見送ってから、まっすぐここへ来てくれたのだろう。


 「みっちゃん、あなた、入り浸りすぎなんじゃない?」

 弘子さんは、薄い体を滑り込ませるようにして腰掛けた。肩の下で切りそろえられた艶のある髪が、体の僕のようにきっちりと従って揺れた。

 「そんなこと、……ないよ?」

 弘子さんはあきれて言った。

 「私に聞いてどうするのよ。そういえば、来る途中で床屋さんに聞いたんだけれど」

 みっちゃんが、何かを気に留めたように眉を動かした。

 「うん?」

 弘子さんも、みっちゃんの眉を見て、自分の眉をひそめた。

 「それがね、不審者情報なの。リスちゃんたちも、気を付けてね!昔から安全な地域だって言われてるけど、このご時世、隣にどんな人が住んでいるのか分からないから!戸締まりをしっかりね!」

 よく通る声で弘子さんは私たちに言った。リスさんと私は、顔を見合わせて

二人と同じように眉根を寄せて頷き合った。

 「床屋さんが言うにはね、その不審者の容貌が、熊みたいだって言うのよ」

 住宅地に熊が出没するニュースはよく目にする。まさか、熊のような人間も出没するとは……。

 「ついさっき、この地域をうろうろしているのを見かけたって言うの。……羽鳥さんは、ご主人と無事搭乗したわよ。さくらさんと見送ってきたわ」

 「そう」

 二人は、一緒に庭を眺めながらコーヒーを啜った。



 この頃では、すっかり接客に慣れた私は、コーヒーとパンを乗せた木のトレーを持って、カウンターを出た。リスさんは、私にすべて任せ、スツールを出すとショーケースの奥に腰掛けた。

 「どうぞ」

 弘子さんの具合のいい位置へ、小ぶりなトレーを置いた。話題は、羽鳥さんがベッカライウグイスを去ったことしかない。それも、尽きてしまった。そこで、私はずっと気になっていた疑問を口にした。

 「あの、質問なんですけれど、三山さんは、『みやま』だから、みっちゃんなんですか?」

 定年後の男性が「ちゃん」付けで呼ばれるのを、私はあまり聞いたことがなかった。そして私は、珍しい名字や名前が気になる質だった。

 弘子さんやさくらさんは下の名前で呼ばれているが、みっちゃんももしかして光男とか道雄とか、「み」のつく名前なのではないか、と思っていた。

 私の昔の友人には、早苗という名字の男の子と、早苗という名前の女の子がいる。そこまではなくても、三山三夫だったら……、三山三夫ならばどうするということもないが、画数の少なさが素敵である。山一やまおさむさんには敵わないとしても、想像の正解不正解を私は知りたくなって尋ねた。 


 みっちゃんと弘子さんは、私の質問に思わず顔を見合わせた。

 そして、弘子さんはこらえきれずに笑った。

 「ふふふ。みっちゃんは、名前からきてる呼び名じゃないのよ」

 私は、首を傾げた。

 弘子さんは、コーヒーの湯気の香りを味わいながら、さりげなく言った。

 「みっちゃんのみーは、みんなのみーなの」

 みっちゃんを見ると、弘子さん越しの窓辺の外へ、遠い目を向けている。

 「みっちゃんは、女の子みんなと遊んでくれたから」

 そうなんだ……。

 私は、みっちゃんを凝視せずにはいられなかった。私の視線に気づいたみっちゃんは、とうとう口を開いた。

 「誤解されるよ」

 「誤解って?」

 弘子さんは、笑いをこらえきれない。お腹を押さえながら話し出した。

 「昔、女の子の魔法もののアニメが流行ってて、幼稚園児って、よくなんとかごっこって、するじゃない?」

 しますね。私は頷きながら、我が身を振り返った。

 「なんだったかな……今じゃみっちゃんがはじめに何をやってうけたのかは覚えていないんだけど……。女の子って、可愛い魔女っ子役がみんな好きで、クールないじめっ子役は嫌でしょ?ところが、一度、みっちゃんが、そのいじめっ子魔女役をやってくれたことがあって……」

 弘子さんは、懐かしさに恍惚となっている。

 「しびれたわ~幼心に。いじめっ子魔女は、こうでなくちゃって、みんながみっちゃんの憑依ぶりに感動したのよ。幼稚園児たちが。それから、女子のなんとかごっこには、みっちゃんが必須になってね、みっちゃん、みっちゃん、って、もう引っ張りだこだったのよ。だから、みっちゃんのみーは、三山のみーじゃなくて、みんなのみーなわけ」

 なるほど……と私は、みっちゃんを見た。

 みっちゃんは、もうどうにもならない表情を浮かべていた。

 黒歴史、とは怖いものである。こんな年齢になっても暴露され、いたたまれない気持ちになったりするのだ。私は、今からでも気をつけよう、と心に誓った。

 みっちゃんは、冷めたコーヒーを一口啜ってから言った。

 「姉がいてね、いつもやらされてたんだよ。だから……」

 だから、慣れていたんですね。私は、黙って深く頷いた。



 カランコロン

 「いらっしゃいませ」

 リスさんが、スツールから立ち上がると、さくらさんがお店の扉を元気よく押し開けて入ってきた。


 弘子さんが、さくらさんに声を掛けた。

 「今、三多さんに、みっちゃんの幼稚園時代の話をしてたのよ!あ、私たち、幼稚園が同じだったの。さくらさんは、みっちゃんと高校も同じだったのよ」

 その後半は私へ言った。

 さくらさんの楽しげな声が、店内に響いた。

 「あはは。そういえば、みっちゃん、高校の時、よく授業をサボって、お向かいの雀荘に入り浸ってたよね?」

 みっちゃんは、再び、遠い目をした。

 つくづく興味深い人である。


 さて、そんな平穏な時間を迎えていたベッカライウグイスに、突如として混乱が訪れたのは、それからまもなくのことであった。


 カランコロン

 「いらっしゃいませ」

 リスさんが再び立ち上がって、お客さんを迎えた。

 私たちも、自然、入り口に目がいった。

 そして、息を飲み、停止した。


 大きな、まさに熊のように大きな、実際に、髪も、髭も、腕も、毛むくじゃらなお客さんが立っていた。

 赤みがかった巻き毛が額を覆い、目の居所が分からない。

 耳さえも、髪とつながった髭に隠れて、分からない。

 まくり上げた袖から出ている太い腕も、同じ色の体毛で覆われている。


 ギシッ、ギシッ、床が重みで悲鳴を上げた。

 私は、羽鳥さんが長年磨き上げてきた、これから私が大事に磨こうとしている床が、きしむ音を初めて聞いた。その頑丈な汚れた靴が、兵器に見えた。壊される……!そう思ったときだった。

 「ベッカライ!」

 熊のようなお客さんが大きな声を上げた。

 彼の声はこちらを押し黙らせる威力を含み、濁音が二重に聞こえた。ドイツ語を発音しているのだと思った。

 私にはドイツ人の友人がいる。一度だけ、彼女がドイツ語で会話をしている場面に出くわしたことがあった。だが、彼女はもっと違うドイツ語を話していた、と思う。そんなことにすら、急に自信が消失したかに思えた。どうしよう。私は、おろおろしながら、みっちゃんたちを見た。

 みっちゃんはじめ三人は、並んで腰掛けたカウンターから、心細げにショーケースの方へ体を向けて、じっと事態を見守っている。その場にいる全員が、まるで子どものように小さく見えたことだろう。それほど、そのお客さんはすべてが大きかった。体も、声も、ジェスチャーも。

 彼は、ショーケースの奥のリスさんを見ると、突如として叫んだ。

 「ググゴォズ!!ググゴォズゥ!!」

 両腕を広げてショーケースにがぶり寄る。

 リスさんは、一瞬、ビクリと体を縮めた。

 喉が苦しく震えるこの発音は、Rだ、と思った。

 リスさんを呼んでいるのだ。

 ただならぬ彼の様子を目の当たりにしたさくらさんと弘子さんが、立ち上がって憤然とショーケースへ向かった。

 大きなお客さんは、そんなことには気づかず、ショーケースに上半身でのしかかった。

 「ググォズーゥ!」

 まるで、煮えたぎる地面の底から地表を割って湧き上がる声が、激しく何度もその名を呼ぶ。

 さくらさんは、

 「ちょっと待って!」

 と両手を挙げてお客を牽制した。だが、彼には、さくらさんが目に入らない。

 困り果てた弘子さんが、さくらさんの袖口をひっぱり、二人は慌てて私を振り返った。

 私は、硬直した。

 どうしよう……警察……?!近所の派出所が脳裏に浮かび、そこまで走るんだ!と私が決意したときだった。

 二人が、私へ向かって叫んだ。

 「とらおーーっ!!」

 えっ?!

 私…………?

 大きなお客がドイツ語でまくしたて、勢いよくショーケースの横のカウンターへ飛び込もうとした時だった。

 私の後ろで、ガタッ、と椅子の倒れる音がした。

 みっちゃんが、猛然とカウンターへ向かった。

 みっちゃんは、ものすごい速さの大股でカウンターに歩み寄ると、リスさんとお客の真ん中に立ちはだかった。

 私の脳のどこか裏側が、呟いた。

 とら……お……。


 「お客さん!こちらは、関係者以外立ち入りできませんから」

 みっちゃんは、きっぱりと日本語でそう言うと、左手をカウンターの上へ乗せリスさんを庇い、ぴんと伸ばした右腕は、手のひらを上にして、パンの並ぶショーケースを指し示した。

 お客は、我に返り、ぶつぶつとドイツ語を呟きながら、乗り出した姿勢を元に戻した。

 そのとき、カウンターの中から大きな溜息が、私のいる場所まで聞こえた。

 リスさんである。

 「はぁーっ。シューさん……」

 シューさんという巨大な熊は、いや、人は、困ったように身の置き所なく肩をすくめた。だが、そんなポーズで大きな体が小さくなるはずはなかった。

 リスさんが、カウンターの出口を跳ね上げて出てくる。

 そして、その大きなシューさんを思い切り見上げながら言った。日本語で。

 「来るならちゃんと教えてください。いつ、日本へ来たんですか?」

 さくらさんが、はっと気がついて声を上げた。

 「えっ?シューさん、シューさんって、周さん?」

 弘子さんがさくらさんを小突いた。

 「何言ってるのよ?」

 「ほら、りすちゃんが、ドイツに修行に行っていたときに、パン屋のおじさんの息子さんと仲良くなったって言ってた……」

 「え、その周さん?……中国の人じゃ……」

 弘子さんが、シューさんをまじまじと見上げた。

 彼は、どう見ても中国圏の人には見えなかった。シューさんと呼ばれたお客さんは、リスさんの機嫌をとるように巨大にせり出したお腹の前で両手を組み合わせ、日本語を頑張って話した。

 「ワタシハ、シュバムボルン、トイイマス。リストトモダチ」

 リスさんは、再び思い切り溜息を吐いた。我々が、この熊のようなシューさんの次に驚きを隠せないのは、リスさんのこの溜息の大きさであった。

 「シューさん、分かりませんでしたよ。そんなぼさぼさに髪が伸びていたら」

 「ニッポンのびようしつにいってみたかった……カラ?」

 シューさんは、厚く伸びた前髪の奥で、多分、斜め上を見ながら、言った。


 それから、リスさんは、シューさんと並んで、私たちの方を向いた。模範的な紹介者のジェスチャーを付けて話し出す。

 「こちら、シュバムボルンさんです。私がドイツで修行していたときにお世話になった方なんです」

 「クラウス・シュバムボルンです。ヨロシクおねがいいたします」

 少しずつ故障が直ったかに、シューさんの日本語が滑らかになっていった。

 私たちは、気持ちではのけぞる思いだったが、体は、肩から首へ走った緊張が一気に緩み、虚脱したまま立っていた。だが、事情を飲み込むと、それぞれが挨拶を交わした。

 「あぁ、あぁ、私、さくらです。よろしくお願いします」

 弘子さんは、冷静で順応性が高かった。

 「リスさんの友人の、弘子です」

 握手にと差し出したシューさんの両手は、フライパンのように大きかった。豊富な赤茶色の巻き毛で覆われていて、取って握られた弘子さんの手が、その中で砕けそうに見えた。

 私も挨拶をした。

 「三多です。従業員です、よろしくお願いします」

 シューさんが一瞬にして目の前に移動してきたので、私はそっと後ろへ下がった。

 そこで、全員がみっちゃんを見た。みっちゃんは、すっかりあっけにとられ、口を半分開けたまま、ぱくぱくと動かしているだけだった。シューさん含め全員が、みっちゃんを心配した。

 私は思った。シューさんの来訪と、みっちゃんがとらおなことと、どちらがより衝撃的だっただろう……。

 

 

 翌日、リスさんの案内で、シューさんは、日本での願い事を一つ叶えた。そこは美容室ではなく、近所の床屋さんだったが、日本での理容技術を堪能したのに間違いはなかった。

 シューさんを散髪した床屋さんは、ベッカライウグイスにやってきて語った。

 「ヒグマが、くまさんになった」

 不審者事件は、無事に解決した。

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