砂場の月
SF/ジュブナイルの短編です。5歳の春に出会った少年と、十七歳に見える“靴音のない”宇宙人の少女。一ヶ月の記録と、その後の街の出来事まで。
5歳の春先、少年はひとり――たぶん――宇宙人と出会った。
その日は両親が仕事で家におらず、ひとり公園の砂場で遊んでいた。
「こんにちは。何してるの?」
男の子の後ろから、セーラー服の、十七歳くらいに見える女の人が声をかけた。
「僕?」
男の子は首だけ振り向き、自分を指さして言った。
「そう、君。名前は?」
女の人は隣にしゃがみ込んだ。
「イツキ」
男の子はそう言うと、砂遊びを再開した。
「イツキくんね。何つくってるの?」
「これはね、月のクレーター」
男の子は手を止めず、大きな丸い穴を掘っていた。
「月に行ったことあるの?」
女の人は顔をのぞき込み、長い髪がふわっと肩に垂れた。
「ううん、ない。けど見た」
「へえ、すごい。どうやって見たの?」
そこで、男の子の手が止まる。
「お姉さん、月好きなの?」
男の子は立ち上がり、しゃがむ女の人より少し高くなった。
「うん。好き」
女の人は上目づかいで微笑む。
男の子は公園の出口の方へ向いた。
「行こ」
手の砂をぱんぱんとはらいながら、歩き出した。
◇
一週目――
放課後の砂場はまだ冷たく、イツキは図鑑を小脇に抱えて公園へ行った。
女の人はいつもセーラー服で現れ、靴音だけがなかった。イツキはページを開き、クレーターの名前を指でなぞった。「ここ、ティコ。こっちはコペルニクス」
女の人はうれしそうにうなずいた。「覚えるって、いいね。なくならない感じがする」
イツキはベランダの洗面ボウルに水を張り、夜になると二人で身をのぞかせた。ゆれる輪郭を見つけるたび、イツキは誇らしくなった。ポケットのビー玉が、時々からんと鳴った。
二週目――
川べりの草の匂いが濃くなるころ、女の人は銀色の丸い船を見せた。
「少しだけ、浮くよ」
船は公園の雲梯よりも低い高さで、すうっと滑った。屋根の瓦が並ぶ模様に見え、交差点の白線はノートの罫みたいに整っていた。イツキは窓に頬をつけ、遠ざかる校庭を指差した。「僕の鉄棒、ちっちゃい」
女の人は笑った。「世界は、見る高さで別の名前になるんだね」
降りると、足元の砂だけが現実の重さを返してきた。
女の人は砂場の縁にしゃがみ、指で小さな円を描いた。
「ねえ、私のこと、好き?」
イツキは少しだけ考えるふりをして、うなずいた。「うん」
「嬉しい」
それだけ言って、彼女は描いた円を手のひらで消した。砂はすぐ、元どおりになった。
三週目――
夕立のあと、空がやさしく青い日。船は雲を抜け、地球の灯りがひとつの模様に見える高さまで上がった。
「息、止めなくていいよ」女の人が言う。
イツキはうなずいて、言葉の代わりに手を振った。やがて窓の外は灰色になり、しずかな海と呼ばれる場所が、教科書の写真より広く、冷たく、近かった。
「ほんものの穴だ」
頬にひやりとガラスの感触。女の人は横顔の高さを合わせて、小さな声で言った。「覚えていて。あなたの目の色で」
帰り道、彼女は地球の雲を指でなぞり、形をいくつも名づけた。名前をあげるたび、イツキはうれしくなった。名前があると、置いていかれない気がした。
四週目――
会える時間はいつも短かった。女の人は食べ物を受け取らず、イツキの麦茶にだけ手を添えた。温度を確かめるみたいに。
「あなたは、何をいちばん忘れたくない?」
「今日。いま」
即答すると、彼女は目を細めた。「それ、いちばん難しいやつだ」
その日の帰り、船が公園の上で静止したとき、彼女はためらいがちに切り出した。
「ねえ、私の星へ来ない?」
イツキは少し考えてから首を振った。「行かない。お父さんとお母さんがいるから。明日、またここで」
彼女は「そっか」と言って、いつも通り降ろした。砂場の縁に膝をつくと、ビー玉がぱらりとこぼれた。拾い集める間、彼女は何も言わなかった。靴音のない影だけが傍にあった。
その夜、イツキは図鑑の月のページをひらき、指で同じ穴をなぞった。水を張ったボウルには、窓の四角が揺れている。
明日も同じ時間、同じ場所。
それが約束であり、世界の形だった。彼はそう信じて、ページを閉じた。
◇
翌日。いつもの時間、いつもの角度で窓の外を見たイツキは、息を呑んだ。
街が、空に吸い上げられていた。校庭の鉄棒も、交差点の白線も、見慣れた屋根も、巨大な黒い円盤の腹に糸みたいに引かれていく。音はなく、砂時計を逆さにしたみたいに、地面から空へ砂が落ちていく光景だけがあった。
操縦席の彼女は、静かにこちらを見た。
「なんにも忘れぬよう、連れていきましょ?」
その声はやさしいのに、窓の向こうは恐ろしかった。イツキは喉の奥が熱くなり、口が勝手に言った。
「……嫌いだ」
彼女のまばたきが一度だけ遅れた。船が公園に降りるより早く、イツキは留め具を外し、開いたハッチから飛び出した。膝に砂の痛みが走り、ポケットのビー玉がぱらぱらと転がる。
背後で、風より小さく彼女の声が落ちた。
「分かってくれなくて、悲しいな……」
次の瞬間、船体が短く鳴き、空気が折れるような気配とともに、銀の円は光の線になって空の奥へ高速で飛び去った。
顔を上げると、遠い空では、街が形を失いはじめていた。
◇
街は崩れ、封鎖された。フェンスには黄色い帯と赤い札が連なり、通りの名前は黒い板で消され、地図の上でも灰色になった。あの巨大な黒い円盤は、いつのまにか空から姿を消した。音も、跡も残さなかった。
イツキは両親と、隣の市の遠い親戚の家に身を寄せた。書類には「四親等」と書かれていて、呼び名に困る距離感だった。縁側のある古い家で、夜は蛙がうるさく、朝はパンの焼ける匂いが台所から流れた。イツキは学校を変え、体操服の名札に新しいクラス名を書いた。ベランダがないので、庭のたらいに水を張って月を映した。丸い水面は小さく、映る空も別の形をしていた。
季節が七度めぐり、イツキが中学に上がる春、両親は親戚の家の近くに新しい家を建てた。真新しいポストに名字を入れ、まだ土の匂いのする庭に、父が古いたらいを運んできた。イツキはビー玉をひとつ、その縁に置いた。夜になると水面は四角い窓を揺らし、月は以前よりも遠く、そして少しだけ近く見えた。
その頃、封鎖された元の街の上に、黒いものが再び現れた。ニュースは「無音の飛来体」と呼び、ヘリの映像はフェンスの向こうに浮かぶ影を何度も拡大した。音はやはりなく、光だけが鈍く脈を打っていた。イツキはテレビを消し、自転車で境界線まで走った。フェンスの手前には新しい舗装ができ、等間隔に立入禁止の看板が立っている。向こう側は空き地のように静かで、風に吹かれた標識が、知らない街の名前みたいに鳴った。
フェンスの編み目から、黒い円を見上げる。形は前と同じなのに、どこか弱って見えた。腹のあたりで、小さな光が瞬く。イツキはポケットのビー玉を握りしめ、ゆっくりと息を吐いた。靴音のない人のことを思い出す。砂場の縁に描いた円、指のひらで消えた跡、水面に映した月の穴。
――「ねえ、私のこと、好き?」
――「うん」
答えたときの感触は、まだ掌に残っている。
黒い円の明滅が一度だけ大きくなり、すぐに収まった。誰かがこちらを見ているような、けれど誰もいないような気配。イツキはフェンスから離れ、たらいの置いてある庭へ戻る道を思い浮かべた。帰ったら、水を張ろう。たぶん、あれは映る。映せるかどうか、確かめたい。
忘れない方法は、連れていくことじゃない――あの日、心のどこかで決めた答えを、もう一度自分に言い聞かせる。
夜、たらいの水面は、境界線の向こうの黒い円を小さく映した。ガラス戸の四角、門灯の光、そして遠い空の脈。イツキはビー玉をそっと沈め、指で波紋をひとつ作った。輪は重なって、ほどけて、形を変え、やがて静まる。
「……明日も、ここで」
誰に言うでもなくつぶやくと、庭の暗がりで何かがほんの少しだけ避けた。靴音は、やっぱりしなかった。
読了ありがとうございました。
この作品もとある曲をイメージして作らせて頂きました。
短編ではあるものの、もしかしたら続きを書くと思います。いや、書きます。
その時はまたいつもの場所で。