完
朝は、だいたいいつも同じだ。
霧が薄く畑にかかって、土は夜露を含んで柔らかい。
作物は相変わらず、ちょっと元気すぎるくらいに育っている。
「……また、増えてるな」
誰に言うでもなく、俺は独りごちる。
麦も、芋も、野菜も。
昨日より、確実に一回り大きい。
別にいい。
急いで売る気もないし、誰かに自慢する気もない。
俺はただ、畑を耕して、火を起こして、飯を食って、眠るだけだ。
それで十分だ。
ここに来てから、ずっとそうだった。
ショーンは、相変わらずちょくちょく顔を出す。
来るたびに何かを持ってきて、何かを勝手に置いていく。
ノールは酒を仕込んでは、「今回は傑作です」と言って、
半分以上自分で飲んでいく。
誰も定住はしない。
でも、誰も完全には去らない。
この農園は、そういう場所になった。
……俺は、それでよかった。
焚き火のそばに腰を下ろす。
朝のコーヒーを淹れながら、ふと横を見る。
「……コノハ?」
返事はない。
いつもなら、コットの端か、俺の足元か、
どこかに丸くなっているはずの白い狐の姿がない。
「……あれ?」
胸の奥が、少しだけざわつく。
理由はわからない。
でも、嫌な予感というほどでもない。
ただ――
何かが、静かに終わった気がした。
畑の奥。
風が通る場所に、小さな気配があった。
白い毛並み。
揺れるしっぽ。
コノハは、こちらを振り返らずに、そこに座っていた。
「……行くのか」
俺が言うと、
コノハは、ほんの一瞬だけ耳を動かした。
「はい」
声は、静かだった。
「秩序は、落ち着きました。
土地は癒えて、人の流れも穏やかです」
「そっか」
それ以上、言葉は出てこなかった。
引き留める理由はない。
もともと、ここは仮の居場所だったはずだ。
「……楽しかったです」
コノハが、少しだけ微笑む気配がした。
「焚き火も、畑も、
あなたの“何もしない日常”も」
「変な言い方すんな」
「でも、本当です」
しっぽが、ゆっくりと揺れる。
「神としては、失格だったかもしれません」
「でも――」
一瞬、風が止まった。
「ここにいた時間は、安寧そのものでした」
光が、ふっと溶けるように消える。
そこにはもう、狐の姿はなかった。
残ったのは、
踏み固められた土と、
朝の静けさだけ。
「ったく。勝手にいなくなりやがって」
文句の一つも言ってやろうと思ったが、
相手はいない。
俺は、深く息を吸って、吐いた。
畑を見る。
焚き火を見る。
変わらない景色だ。
……いや。
少しだけ、変わったか。
静かになった。
でも、不思議と寂しくはなかった。
クワを持ち、土に刃を入れる。
いつもの動作。
いつもの感触。
「さて」
俺は空を見上げる。
「今日も、畑仕事だ」
誰も褒めない。
誰も命令しない。
それでも、土は応えてくれる。
日常は、続く。
この農園で、静かに。
それでいい。
完




