第3話「過ぎる」
「何も分からないからこそ、こんなにも不安なんですから……」
「その不安の一つを話してみましょうか」
晴馬さんに手を取られ、心臓が別の意味で動き出す。
「……晴馬さんと過ごした日々の記憶が消されてしまうのかなと」
「昔は、人の記憶を消す実験もしていたみたいですけどね」
心臓が病んでいくような音ではない。
「本当に、そのようなことが?」
「吸血鬼に襲われたなんて記憶、残らない方がいいに決まっていますから」
初めて知る心臓の音に、泣きそうなくらい喜びを感じてしまう。
「ですが、今は記憶を消す術すら残されていません」
「……安心しました」
現代を走る電車というものに乗せられ、混雑する電車というものを初めて経験する。
今日は初めてのことだらけで、いつか心臓が破裂してしまうんじゃないかとありもしない妄想が浮かび上がる。
心臓が速まるのは電車が理由なのか、晴馬さんとの会話が理由なのか。
「晴馬さんと過ごした日々を、覚えておきたかったので」
窓際の席に腰を下ろすと、車窓の外には煌く太陽の光が世界を照らしている様子が視界に映る。
通り過ぎる風景すべてが新鮮なのに、それらすべてを記憶に留めておけないことが悔やまれる。
「……嫌な記憶も、残ることになりますよ」
「その嫌なことが起きなかったら、晴馬さんとも出会うことがなかったですから」
窓の向こう側に関心を示すのは私だけで、人々は流れゆく景色にも、他人にすら関心を寄せることなく、目的の場所へと向かっていく。
その無関心さが、私の心臓を少しずつ落ち着けていく。
「こちらの世界も、今の季節は春なのですね」
桜が、宙を舞っていた。
過ぎ去る景色の中から桜の木を見つけることは難しいけれど、風に運ばれてきた桜の花びらが何枚か乗客の足元で眠りに就いている姿を発見する。
「紅音様。あそこ、見えますか?」
「あそこ……?」
綺麗。
美しい。
どんな言葉で、この素晴らしい桜景色を表現すればいいのか分からなくなる。
「凄い……一瞬でしたけど、桜色が窓一面に広がるような絶景でしたね」
それくらい心惹かれる世界が、未来にも残っていることが素直に嬉しい。
「平和すぎて、驚きますよね」
少し離れたところに子どもを座席に座らせる両親の姿を見かけた。
家族で出かけるなんて経験のない私は、電車内で楽しそうに過ごす家族を見て素直に微笑ましいと思う。
「私が生きてきた時代は、ようやく女性解放運動が始まりました」
恐らく、未来を生きる晴馬さんは女性解放運動が後にどういう未来を辿るかということを知っている。
「それらの活動が、無駄で終わることはなかったのかなって」
その結末を聞きたいようで聞きたくなかった私だけど、未来を生きる人たちが私には縁のなかったことを経験している姿を見て少し安堵した。
「驚きもありますが、嬉しさも勝ります」
私は過去の時代に戻り、何ができるのか。何をしていきたいのかということを考える。
もちろん父が吸血鬼に関わっていたことから、父が逮捕されるまでは外を自由に出歩くことはできない。
それでも晴馬さんたちが過去から去ったあと、私は未来を生きる子どもたちのために行動をしていきたいと思う。
「私は歴史に名を残すことができなかったということだけは悔やまれますけどね」
「紅音様が歴史を変えるほどの重要人物だったら、こうして未来の地を歩くことができませんよ」
「はい、承知しております」
私が歴史に干渉しない人物だからこそ今があるけれど、私は女性解放運動に参加したところで意味をなさないのかなと残念にも思う。
そんな私の気持ちを汲んでくれたのか、晴馬さんは穏やかな笑みを浮かべて私を見つめてくれた。
「ここは……」
「紅音様が生きた時代に近しい雰囲気が味わえるかと」
連れて来られた参道には数えきれないほどの商店が並んでいて、統一された軒と看板には見覚えがある。
先程までは見慣れぬ高層ビルと呼ばれる建物に囲まれていたのに、一気に時代を遡ったかのような錯覚を引き起こす街並みに好感を抱く。
「自由に露店巡りでもしましょう」
言葉を返さなければいけないと分かっているのに、紡ぐことのできない言葉たち。
楽しく会話することの難しさを感じると同時に、言葉なんて必要ない。ただ今という時間を楽しみなさいということを晴馬さんが教えてくれる。
「そふとくりーむ……?」
「紅音様の時代は氷菓……でいいんでしょうか」
「氷菓!」
まったく縁がなかったわけではないけれど、久しぶりに聞く氷菓の響きに思わず声が大きくなってしまった。
「厳密には違うかもしれないんですけど……まあ、どうでもいいですね」
私が生きた時代を思い起こすような光景が広がる場所なのに、行き交う人たちは洋装も和装もどちらも自由に楽しんで色鮮やかな世界を私に魅せてくれる。
「紅音様」
人間、名前を呼ばれると振り向いてしまうものらしい。
「美味しいですか?」
「さつまいも……?」
「さつまいも味のソフトクリームらしいです」
月見里家を出て無一文の私を助けてくれたのはもちろん晴馬さんで、買い物を済ませている間に行き交う人たちを見入っていた私は口の中に広がる優しい甘みに目を丸くする。
「俺も初めて食べました」
「……晴馬さんにも、初めてがあるんですね」
「もちろんありますよ」
口の中ですぐに溶け切ってしまうのに、程よい冷たさと甘さは私に幸福感を与え出す。
「甘すぎなくて、でも食材の甘みはしっかりあって……美味しいです」
自分の感想が、幼い子どもでも言えるような簡単な日本語になってしまったことが悔やまれる。
こういうとき語彙力がないと、なんだか情けないことになってしまうのだと実感する。




