第2話「春」
「紅音様」
「はい、過去に戻る準備はできています」
未来の空が、綺麗な色を含んでいて良かった。
私は歴史を変えるほどの重要人物ではないけれど、過去に生きた人たちが未来に繋ぐ何かを残すことができたからこそ晴馬さんたちが存在する。
晴馬さんたちが生きる世界にも吸血鬼という存在がいたとしても、彼の生きる世界が美しい色を放っていて良かったと思う。
「せっかくですから、未来の土地を歩いてみませんか」
「でも……」
「この時代も平和なわけではないですが、少なくとも紅音様が生きた時代よりは平和な世界をお見せできるかと」
まるで異国を歩いているかのような高揚感に戸惑いすら抱いてしまうくらい、私が歩むことのない未来の世界は姿かたちを変えていた。
「洋装をするだけで、心臓が壊れてしまいそうなのですが」
明治初期に文明開化が始まり、日本は西洋文化を積極的に取り入れ始めた。
それでも洋装は徐々に広がりを見せている段階で、着物を着ている人もまだ多い。
それなのに百五十年以上先の未来では、個性を尊重する時代が広がっていた。
同じ服装をしている人を探すのが難しいくらい選択肢ある未来に、何度も瞬きを繰り返してしまう。
「そんなことを言ったら、俺も不安だらけでしたよ」
「晴馬さんも……?」
「袴なんて、初めての経験でした」
高層ビルと呼ばれる建物が立ち並ぶ世界は、私が想定していた未来とは遥かに違っていた。
どこを振り返っても光が反射しているように煌めいていて、身分不相応という言葉は私のためにあるのではないかと思ってしまうほど世界は美しく眩しい。
「過去と未来を行き来する人間にも、緊張は付き物ということです」
書生として月見里家に仕えていた頃の晴馬さんを、私はほとんど知らない。
「でも、紅音様が笑わないでいてくださったので、それ相応に似合っていたと解釈させていただきます」
婚約者のいる身で晴馬さんと深い仲になっていたら、それはそれで問題だったかもしれない。
それでも、もっと早く晴馬さんと出会っていたかったという過去への悔いは消えない。
「可愛いですよ、紅音様」
それだけ彼は優しくて、それだけ彼は私を喜ばせる言葉を知っていて、私は日を追うごとに晴馬さんに惹かれていくのが分かった。
「俺のために可愛く着飾ってくれたのだと自惚れたくなります」
「っ、私ではなく、菖蒲さん……髪型を工夫されるのが本当にお上手なんです……」
婚約者のためだけに着飾ってもらっていた日常に変化が訪れ、私は自分のためにお洒落をするという喜びを吸血鬼狩りの菖蒲さんに教えてもらう。
「がさつな方だと思ってはいたんですけど、紅音様のお役に立てたのなら何よりです」
「検査のためとはいえ、未来の時代に連れて来てくれてありがとうございました」
私が生きてきた過去の時代を忘れたくなるほど、未来の世界は活気に溢れていて元気をもらえる。
こんなにも胸を高鳴らせることができたのも、吸血鬼狩りの晴馬さんと菖蒲さんの気遣いあってこそだった。
「明治の時代が終わったあとも未来が続いていると、自分の目で知ることができて良かったです」
「紅音様が生きた時代の人々が、こうして過去から未来へと繋げてくれました」
私が月見里家の人間であることは間違いないのだけど、家を飛び出したい人間がいつまでも様付けで呼ばれることには抵抗と疑問を抱いた。
「晴馬さん……」
「どうしました?」
紅音と呼び捨て手もらいたいけれど、その願いを口にしていいのかすら分からない。
「あの……残された時間、どうぞよろしくお願いいたします」
願いを声で奏でていいのか分からないのなら、俯くのではなく空を見上げたいと思った。
晴馬さんとは限られた時間の間でしか一緒にいることができないのなら、尚更、私は彼の前で少しでも多く笑顔を向けてみたいと思った。
「はい、喜んで」
すると、晴馬さんも素敵だと思える笑顔を返してくれた。
そんな些細なやりとりに照れてしまって、結局、私の視線は下を向いてしまう。
(晴馬さんの笑顔、とても綺麗)
晴馬さんの容姿が影響しているのもあるけれど、綺麗に笑うことができるというのは凄いことだと思う。
人々の命を脅かす吸血鬼という存在と日々対峙しているというのに、相手に安心感を与える笑顔を浮かべることができるというのは本当に素敵なことだと思う。
(普段、こんなにも笑えるようになるまで……晴馬さんは、どれだけ努力をされてきたのか……)
私を導いてくれる晴馬さんを視線で追いかけながら、私は自分の知らない晴馬さんの人生を考えた。
どんなに考えたところで、晴馬さんの人生を振り返ることはできない。
それでも、日常生活で笑顔を浮かべられるようになるまで、彼が相当な努力をされたことだけは私でも理解できる。
(だから、考えたい……)
晴馬さんのことを。
少しでも長く、考えていたい。
「紅音様」
刺さる視線を鬱陶しく思ったのか、前を向いていた晴馬さんの視線はいつの間にか私の方を向いていた。
「一人で考えに耽るくらいなら、俺に話しかけてください」
「…………え」
私は晴馬さんのことを見つめていただけに過ぎないはずなのに、晴馬さんは見事に私が考えごとに夢中になっていることを言い当ててきた。
「尋ねたいことがあるのでしょう?」
「どうして……」
「面白いくらい、紅音様の視線が突き刺さるもので……」
そう言って、晴馬さんは堪えきれなくなった笑い声を世間に晒す。
晴馬さんが笑った原因である私が一緒に笑うなんて変かもしれないけれど、晴馬さんの笑い声を聞いていると、なんだか面白くなってきた。
自然と口角が上がっていくのが分かって、不安がいっぱいのはずなのに面白さを感じるようになってきた。
「笑いすぎです……」
「すみません……ははっ」
作り笑顔なんて必要ないということを、彼の笑顔を見ていて思う。
晴馬さんや菖蒲さんが生きている時代を訪れるという感覚自体がよく分からなくて、焦りすぎたのかもしれない。今という時間が消えてしまうとものだとしても、晴馬さんの前でなら自然と笑うことができる気がする。