第4話「花」
「紅音」
私の婚約者である院瀬見様は華族にあたる方だと父に紹介され、この縁談は何がなんでも成功させたいと諭された。
「私の可愛い紅音」
院瀬見と呼ばれる華族がいたことを知識として得ていなかった私は、父が狐に化かされたのではないかと心配した。
けれど、その心配を口にすることは許されないと父がまとう重たく冷たい空気から察した。
「可愛いよ、私の紅音」
男性と付き合うどころか、男性と話すことすら不慣れな私を、院瀬見様は大層可愛がってくれた。
やることなすことすべてに恥じらいを感じると、近いうちに夫婦となるのだから慣れなさいと言われた。
「ああ、私が求める声だ」
抗いたいという気持ちを抱いていても、私たちは夫婦になるのだと言い聞かせて逆らう気持ちを静める。
「初めて君を見たときから、ああ、君は私の妻になる女性だと確信した」
未来の旦那様に愛されるのは、光栄なこと。
「その確信は間違っていなかったようだ」
未来の旦那様に触れてもらえるのは、喜ぶべきことだと思い込んでいく。
「だって、私たちの体の相性はこんなにもいい」
婚約者に触れられるのは、気持ちの悪いことではない。
親切な気持ちあっての行為だと受け入れていく中、首筋に温かな舌の感触が触れた。
「紅音?」
首筋を温かな感触が辿り、歯を立てられた。
そのとき背筋がぞくりと震え、嫌悪の気持ちが体中を駆け抜けた。
私の体は、一瞬だけ大きな反応を示してしまった。
「申し訳ございませんっ……! 申し訳ございませんっ……!」
婚約者に嫌悪の気持ちを向けるなんてあってはならないことだと頭では理解しているのに、体が言うことを聞かない。
私の中で芽吹き始めた嫌悪の気持ちは、月見里家を駄目にする。
「ああ、そうか」
「院瀬見さ……」
必死に謝れば、院瀬見様も許してくださるはず。
懸命に口を動かすと、院瀬見様は私を咎めることなく笑った。
「無理をさせてしまったね」
「院瀬見様……?」
「ちゃんと可愛がってあげるから、安心なさい」
これでいい。
未来の旦那様に愛されるのは、光栄なこと。
未来の旦那様に触れてもらえるのは、喜ぶべきこと。
そうですよね?
お父様、お母様。
「ん……」
体が汗に塗れて不快感に包まれていることが原因だったのか、鮮明すぎる悪夢を見た。
「夢……?」
夢を見ていたはずなのに、夢を見ていたという実感も湧かない。
あまりにも、あの人に触れられたときの感覚が生々しく体に残っていることが怖い。
「夢……」
夢であることは確かなようだけど、私があの人に触れられたことだけは夢ではない。
自分の身体が、あの人の感覚を覚えてしまっている。
近いうちに夫婦になるのだから、あの人の感覚を覚えていくことは間違いではない。
今日も、そんな思い込みを始めようとしたときのことだった。
「え……」
自分は、どれだけ深い眠りに陥っていたのか。
自分の部屋で軽く休むつもりだったのに、窓の向こうへ目を向けると太陽の存在は欠片も残っていない。
月と星が輝きを増す時間帯になっていることに驚かされ、私は急いで部屋を出る準備を整えた。
『今夜、部屋にいてください』
今朝、書生の彼に言われた言葉を思い出す。
『誰が来ても、部屋を開けないでください』
彼は、そう言った。
「…………」
どうして、誰も私を迎えに来ないのか。
今日も院瀬見様は私に会いに来るはずなのに、辺りが夜に覆われる時刻になっても誰も私に院瀬見様がいらしたことを知らせに来ない。
(誰かが訪れても気づかないくらい寝入っていた……?)
部屋を訪れる人がいたにも関わらず、それに気づかないくらい深い眠りの世界に誘われていた可能性も否定できない。
(でも、院瀬見様を待たせるはずがない……)
実の娘よりも、婚約者の院瀬見様を大切にする父の姿を何度も拝見してきた。
私の睡眠時間を許容するほど、父を優しい人だとは思わない。
「…………」
月明かりにばかり目を奪われてしまって、部屋に花が生けてあることを忘れてしまっていた。
「花……」
花瓶で息をしている花々は、書生の彼が私に贈ってくれたものだということを思い出す。
(この花に、睡眠薬が仕込まれていたら……)
書生の彼が、私に睡眠薬を差し出す理由が分からない。
そんなことをしたところで、私は院瀬見様の婚約者のまま。
今も、未来も、決して変わることがない。
「…………」
私に見せたくない何かが起きている。
そんな予感がした。
何か特殊な能力があるわけでもないのに自分の勘が当たっているような気がして、開こうとしていた扉に手を掛けるのを躊躇った。
(私が部屋の中にいることで、何かが変わるのなら……)
部屋に居残ることを望もうとした、そのときだった。
部屋と廊下を繋ぐ扉が大きな衝撃音を響かせた。
「っ」
無理に扉をこじ開けるように、耳を塞ぎたくなるほどの衝撃音と大きな切れ込みが何度も何度も扉に刻まれていく。
まるで斧か何かで扉を傷つけているような光景から目を逸らそうとすると、書生の彼から渡された花の束が視界に映る。
「心を……穏やかに……」
彼に言われた言葉を繰り返す。
もしかすると、未来は変わるのかもしれないという希望を抱く。
でも、その希望を抱いたことが、そもそも間違いだったことに気づかされる。
「痛いです! そんなに強く手を握らなくても、私はここに……」
「こうでもしないと、おまえは逃げ出してしまうだろ!」
扉を破壊してまで、私を迎えに来た人。
それは私が望んでいた人ではなく、私の希望を打ち砕くために現れた婚約者の方だった。