第3話「花束」
「紅音お嬢様」
このまま瞼を下げて、眠りの世界に誘われるのも悪くない。
そんなことを思っていたら、私は誰かに名前を呼ばれた。
でも、私には声の主を確認する必要はなかった。
だって、私の名前を呼んでくれた、この声は。
「書生さん?」
月明かりが美しく照らす中、私に優しさを差し伸べてくれた彼の声だと知っている。
「探しました」
振り向くと、彼には太陽の光も似合うと瞬時に感じた。
儚い月明かりも、眩しすぎる太陽の光も、彼を美しく着飾るところが羨ましい。
「どうして、この時間帯に……」
「お嬢様に詫びていなかったことを思い出して」
月見里家の令嬢と書生が一緒にいることを見られるわけにはいかない。
私は彼の立場を危うくしてしまうと感じているのに、私は今日も彼の美しさから目を離すことができない。
「これを、お嬢様に」
差し出されたのは、花束。
色鮮やかな花々が視界いっぱいに広がり、私の世界にはまだ色が残されていたのだと思い出す。
「え、あの」
「受け取ってください」
「こんなにも高価な物、受け取ることはできません!」
美しい花を束にするには、お金がかかる。
書生の身分で、この色彩豊かな花束を入手するのは難しい。
婚約者がいる身で、この花束を受け取るわけにはいかない。
「女性の身体に不用意に触れた、せめてものお詫びです」
頭では分かっている。
理解している。でも、私は、この花たちに触れたい。
「お気に召しませんか?」
書生さんの顔を見ることができない。でも、声の雰囲気で察することができる。
私に花束を受け取ってもらいたいという、彼の気持ちが声を通して伝わってくる。
「悪い金で購入したものではありませんよ」
「でも……」
「部屋に飾ってください。お嬢様だけの空間に、この花たちをお邪魔させてください」
初めて、願いを叶えることができた。
「……ありがとうございます」
願いが叶う瞬間は、こんなにも心が高鳴るものだと初めて知る。
「お嬢様は、笑顔が似合いますね」
けれど、書生の方から言葉をもらった瞬間、心臓が驚きすぎた。
そして、いただいた花束は地面に向かって行ってしまった。
すると書生の方は私が落としてしまった花束を拾って、柔らかな笑みを向けてくれる。
「俺なんかに対して、緊張しないでください」
俺なんか。
それは、私と彼が生きる世界が違うと言われているみたいで寂しくなった。
でも、それは事実。
拒むことすら間違っていると、私は知っている。
「じゃあ、俺は行きますね」
書生を引き留めなければ、この会話は終わってしまう。
彼を、この場に留めるための言葉を知りたい。
行かないでと素直に言葉にできない立場で、私はどうやったら彼と言葉を交わし合えるのか分からない。
「寒くて……」
分からない。
見つからない。
考えても、答えは出てこない。
「昨夜は、とても寒くて……」
それでも、私は彼に居残ってほしかった。
「春なのに、とても寒くて……」
世界が、壊れる音がする。
「凍えそうだったのに……」
吹く冷たい風を、怖いと思っていた。
このままでは死んでしまえたら楽なのに、そこまで恐ろしい風は吹いてこない。
中途半端な風に、何度も涙を零した。
「昨日だけは」
風が、嫌い。
風が優しくない。
風が、他人事のように笑う。
「暖かかった」
寒い、寒い、寒い。
誰か、私を助けてくれないだろうか?
そんな叶うはずもない願いを叶えてくれる人が現れた。
「私に温かさを、ありがとうございました」
だから、最後にお礼が言いたい。
私を助けてくれて、ありがとうって。
自分の声で、言葉で、届けたい。
「……お嬢様」
終わっていく。
彼との時間が、終わっていく。
「今夜、部屋にいてください」
終わっていく。
彼との時間が終わるから、始まりがある。
「花を見て、少しでも心を穏やかに」
終わりがあるから、始まりがあるなんて綺麗事。
私に始まりなんてない。
私に待っているものなんて、絶望しかない。
「今日も、院瀬見様がいらっしゃいます」
部屋の中にい続けることは不可能だと、書生の彼に訴える。
心を穏やかなんて言葉は、今の私に一番ふさわしくない言葉だと彼に訴える。
「ええ、お嬢様がおっしゃる通りですね」
奇跡。
私が考える奇跡という言葉の定義は、現実に絶対起こりえないことが起きること。
そう、奇跡なんてものは簡単に起きるはずがない。
奇跡を起こすことができる人間は、決まっている。
「それでも」
彼は奇跡を起こすことのできない私に、奇跡を起こすように促してくる。
なんて酷だと思うけれど、なんて素敵な話だなとも思う。
婚約者から逃げ出すことができるなんて、どんなに望んでも許されることではないと両親から諭されたはずなのに。夢物語を広げる私は、相当な愚か者だ。
「昨夜会ったばかりの人間を、信頼しろというのは難しいことだと思います」
彼の瞳と、私の瞳が合わさって。
ああ、ずっと彼の瞳を見ていたいなって思った。
でも、ずっとを望んではいけないって知っている。分かっている。
だから、私は彼から目を逸らさなければいけない。
「でも、信じてほしい。信じてください」
逸らしてしまおうと思った視線に、彼が映り込んでくる。
「俺を信じることは、お嬢様を守ることに繋がります」
ここで、いろんな奇跡たちが巡り合ったのだと思う。
次々に訪れる奇跡に、私は奇跡という言葉の定義が分からなくなりそうだった。
言葉が、迷子になっている。
「誰が来ても、部屋を開けないでください」
私は、奇跡を起こす力を持っていない。
今の私にたくさんの奇跡が降り注いでいるのは、奇跡を起こす力を持った素晴らしい彼が傍にいてくれるから。
「内鍵を必ずかけて」
花束を持った手に、彼の手が触れる。
まるで私に懇願するかのような彼の姿勢に、心が痛い。