第1話「愛」
「んっ」
「はる、ま、さ……っ」
彼が、首筋に触れる。
「痛みを感じたら、すぐに声を上げてください」
「晴馬、さ、ん、晴馬、さん」
晴馬さんと過ごす時間が長くなればなるほど、溢れ出る血液を啜られる回数が増える。
彼に求められることが、必要とされることが自分の喜びになっていると気づくたびに、これではまるで自分が彼に依存してしまっているかのように思えてくる。
「っ、ん、はぁ」
「晴馬、さん……晴馬さん……」
依存性を持つのは吸血鬼ではなく、自分の方なのではないかと不安になる。
私の血を飲んだ晴馬さんが私に惹かれざるを得なくなるのではなく、私が彼なしで生きられなくなるのではないか。
「っ、はぁ、ぁ……」
「晴馬さ……」
「すみませ、ん……無理を、させました」
これまで、彼を抑えつけてきた理性が外れるかのように血を貪られる。
血を吸われるたびに、彼の内側に秘められた感情や記憶が伝わってきて、そのたびに彼から送られる愛情に酔いしれてしまいそうになる。
「今日も……名前を呼ばせてくれて……はぁ、ぁ、ありがとうございます」
自分の一部が、彼の一部となる瞬間。
「紅音様のおかげで、自分が強くなれているような気がします」
抱えきれないくらいの幸福に満たされて、心が締めつけられてしまう。
(別れるのなら、早い方がいい)
基本的には、院瀬見が使っていた屋敷に籠る生活が続いていた。
けれど、私の健康のことを考えて、ほんの少し散歩の時間を設けてもらっている。
早朝だけの、ほんの短い時間。
晴馬さんたちに護られながら、月見里の家へと戻ってくる。
その、ほんの少しの散歩時間は、自分の足できちんと歩くことができると確認するための貴重なものだった。
(最後の最後まで、花を咲かせることがなかった……)
四季というものは確かに存在しているのに、庭先の桜だけは今日も花を咲かせることがない。
使用人たちが口にしていた通り、木の生命というものが絶たれてしまった結果なのかもしれない。
(桜の命を絶やしたのは、月見里を明治から追い出すためなのかもしれない)
桜の木に触れて、世界が花の命で満たされるようにと祈りを込める。
毎日のように吸血鬼の脅威に襲われている時代に、ほんの少しでも色を添えてほしい。
その鮮やかな色で、この時代を生きる人々を支えてほしいと願いを込める。
「紅音」
聞き慣れない声に名を呼ばれたけれど、怯える必要はないと言い聞かせて後ろを振り返る。
「おはようございます、坂上さん」
「木に隠れて姿が見えないと、守れるものも守り辛い」
「申し訳ございません」
晴馬さんは私の血を吸ったあと、ほんの少しだけ距離を取る。
彼が私を突き放すことはないけれど、吸血行為に後ろめたさを感じているのかもしれない。
晴馬さんが傍にいないことを理由に、坂上さんは私の近くへと寄ってくれる。
「今日も、花との会話を楽しんでいるのか」
「私が桜の様子を気にかけていること……ご存知なのですね」
「花を愛でるのが好きで、な」
吸血鬼狩りの坂上さんと言葉を交わす機会は、滅多に訪れない。
きちんと言葉を交わしたのは初めてのことで、それはそれで緊張が体を走り抜けていく。
(坂上さんも、もしかすると人ではないのかもしれない)
血を求められない限り、坂上さんが吸血鬼かどうかを判断することはできない。
それでも、明治を訪れている吸血鬼狩りの中で、坂上さんだけはほとんど交流がない。
そこに引っかかりを感じてしまうけれど、私たちは穏やかに過ぎゆく時間の中で言葉を交わし合っていく。
「言葉を交わせないとわかっていても、産まれたときから見守ってくれていた木のことが心配になってしまうのです」
普段は坂上さんと二人きりになることはないのに、今日だけ偶然なんてものが演出されるわけがない。
晴馬さんが私と距離を取りたいのかもしれないけれど、彼は私と坂上さんが距離を縮めるための時間を用意してくれたのだと都合よく解釈する。
「無理はするな」
院瀬見が亡くなった日を境に、私の世界はがらりと変化を遂げた。
無理をするななんて優しさを投げかけてくれる人なんて存在しなかったのに、今では優しさを手渡してくれる人が傍にいることに感謝したい。
「私は吸血鬼の餌になるだけで、戦力に加わることができないことが大変悔やまれます」
どうして、今日という日に坂上さんと二人きりの時間を用意してくれたのか。
「私が無理をすることで吸血鬼狩りの皆さんが解放されるなら、無理をしてみたいって思ってしまうのです」
院瀬見との関係に無理をして、体を壊したこともあった。
院瀬見との関係に無理をして、心がずたぼろになったこともあった。
それなのに、また無理をしてみたいと思ってしまうのは、とうとう自分の頭が可笑しくなってしまったのか。
餌になることしかできない罪悪感からなのか、分からない。
「そういう強さは、似ているな」
「えっと……誰に、ですか?」
「悪い、少し喋り過ぎた……」
「そこまで言いかけて、黙るのは狡いと思います」
どうして、晴馬さんが坂上さんと二人きりの時間を作ってくれたのかを考える。
「紅音が生きているうちに、会わせたかった」
坂上さんは遠い未来を見つめるような目で、桜の木を見上げた。
「坂上さんは、私のお母様にお会いしたことがあるのですね」
坂上さんから言葉が返ってくることはなかった。けれど、坂上さんが花を咲かせない木に寂しそうな顔を見せる理由が気になってしまう。
「……愛されていた、とても」
ほとんど言葉を交わしたことがない坂上さんを、大切な人と称するのは可笑しいことなのかもしれない。
でも、私は坂上さんの寂しそうな顔を見るのが苦手に思えた。
「紅音は、確かに愛されていた」
大切な人に、寂しそうな顔をさせてしまう自分が大嫌いだった。
両親の大きな期待を裏切ってしまうこの感覚が、この瞬間が、何よりも恐怖心を煽っていく。
かつて抱いた感覚と、いま抱いている感覚が重なり合う。
吸血鬼狩りの坂上さんも、私にとっての大切な人だと自覚していく。
「その言葉を聞くことができたこと、嬉しく思います」」
明治の時代を壊そうとしている父と対峙する前に、少しでも心を穏やかにできるようにという晴馬さんの配慮なのかもしれない。
だって、坂上さんは、こんなにも私と距離を縮めてお話をしてくれるのだから。
「いつかの雷雨のとき、真っ先に屋敷へと駆けつけてくれてありがとうございました」
坂上さんに礼を述べる機会が訪れたことを察し、私は彼に向かって深々と頭を下げる。
「菖蒲に、私を信頼していないのかと怒られた……」
「ふふっ」
晴馬さんに求められた、あの日。
取り逃がした吸血鬼の行動を懸念して、晴馬さんと坂上さんは真っ先に屋敷へと駆け戻ってくれたことを思い出す。
「実は私、花の名に疎いのです」
私は桜の木を背にして、私を護衛してくれている坂上さんの元へと近づいていく。
「いつか、庭に咲く花の名を教えてもらえますか」
その問いに関して、坂上さんが言葉を返してくれることはなかった。
どんな話題を振っても、坂上さんは私に言葉を返してくれないかもしれない。
(でも、それは無視されているということではない)
坂上さんは、私の声を受け止めてくれている。
この短時間の間に、そんな確信が生まれてくるくらいの心の温かさを得た。
それだけで私は、このあとにどんなことが待ち受けていても耐えられるのではないか。そんな強さを、坂上さんと晴馬さんに分けてもらえた。




