第7話「覚める」【晴馬視点】
「晴馬さん、晴馬さん」
独りで生きていくはずの、その世界に一筋の光が差し込んでくる。
そんなに強い光でもないくせに、俺はその光に心を引き止められてしまう。
「朝、ですよ」
目が覚めた。
夢があまりにも現実的すぎて、自分がさっきまで夢を見ていたとは思えなかった。
寝起きの目を擦りながら、自分に与えられた部屋をゆっくりと見回す。
家具の位置や部屋の間取りは記憶と一致していて、ここは確かに自分が借りている部屋だと認識できる。
「夢見が悪かったですか?」
「さほど……悪い夢でもなかった気もします」
得体の知れない感情が、心の底から湧き上がってくることが怖い。
ここは確かに自分が生きている世界なのに、何かが違う気がして恐ろしい。
まだ、夢を見ているような気がする。
「……はぁ」
一息大きく吐いてみた。
たったそれだけのことだけど、それだけでいつもの日常が戻ってくるような気がした。
「……おじい様のことは、お嫌いでしたか?」
「っ、どうして、それを……」
「血を吸われることで、晴馬さんの記憶や感情が流れてきました」
その言葉を受けて、自分が犯した罪の大きさを思い出す。
「っ、は」
「晴馬さん、大丈夫ですか」
伏せていた目を開く頃には、すべてが終わっていたことに気づく。
どれだけ彼女の血を貪ったのかと記憶を辿るけれど、自我を失ってしまった自分に思い出せる記憶なんてものは残されていない。
「……さい」
彼女の瞳が見えなくなるくらい俯いた。
「ごめんなさい……本当に、ごめんなさい……」
それでも彼女のことを視界に入れたくて目線を変えると、彼女は小さく息を吐いて、俺の言葉に頷いた。
「晴馬さん」
優しさは、時に恐怖を煽ってしまうこともある。
けど、俺にとって紅音様の優しさは、大きな幸福へと繋がる。
「抱き締めてください」
自分が彼女に恐れと混乱を与えてしまったせいで、彼女の頬に涙が伝う。
自分の声を振り絞るように、何度も何度も謝罪の言葉を呟く。
でも、何度、謝罪の言葉を述べても、自分が犯した罪は償いきれるものではない。
「紅音様を、怖がらせて、ごめんなさい……」
強く、強く、彼女を抱き締める。
胸が少しだけ軋むように痛んだけれど、彼女を独りにしたくないという気持ちが勝った。
彼女の腰回りへと腕を伸ばして、より深く彼女を自分の中へと閉じ込める。
彼女の震えが止まるまで、彼女の傍を離れないと心に誓う。
「いつも……こんな風に、吸血の衝動が……?」
腕の中にいる彼女が、尋ねづらそうな小さな声で疑問を呈してきた。
「いえ、昨夜みたいに、呼吸を乱すほどのことにはなりません」
ちゃんと言葉を交わし合うために、腕の中にいた彼女を解放する。
けど、ここから逃げ出すことはないという意志を示すために、彼女の瞳をしっかりと捕らえる。
「現代には献血と言って……吸血鬼に血を、無償で提供する仕組みがあるので」
「ここは明治時代だから、晴馬さんにとっては生き辛いということなんですね……」
症状が落ち着いてきたと主張するためにも、なるべく優しい声色を発するように心がける。
でも、自分も、彼女も、もう心配しないでほしいという共通の気持ちを抱えていることに気づく。
相手を気遣うための優しい声色が、彼女のそんな気遣いが、今は切ない。
「俺は、人間と実験体との間に生まれた子で……中途半端なんです。すべてが」
人間の母と、吸血鬼の父に愛されてきた確かな記憶が、自分を強くしてくれたことに間違いはない。
でも、自分が情けなかったおかげで、彼女の血を求めることに繋がってしまった。
彼女の甘美なる特殊な血に、どうしても抗うことができなかった。
「紅音様の血が特別だと知っていた人間が、こんな失態を……」
「私は」
彼女の人生に暗い影を落とすくらいなら、自分は身を引こう。
彼女の血なしでは生きられなくなるなんて気のせいだと、気持ちを新たにしようとしたときのことだった。
「晴馬さんに、この身を捧げるために産まれてきたのかなと」
自分の手に、彼女の手がそっと重ねられた。
「そんな自惚れ、抱いてしまいました」
彼女の温もりが、冷たく沈みこんでいた心にじんわりと染み込んでいくような気がした。
「晴馬さんの記憶と感情を、勝手に受け取ったことは謝罪します」
あまりにも彼女の声が優しすぎて、ずっと伏せていたかった顔を、ゆっくりと顔を上げる。
「でも、血を求められることで、私は晴馬さん救うための情報を得られました」
現代に紅音様を連れて行った際に、律に言われた言葉が脳裏を過る。
情報を隠すことの大切さと、情報があることで守れるものがあるということを。
「これを、奇跡と呼んではいけませんか」
彼女は、柔らかい笑みを浮かべた。
俺は彼女に恐怖を与えることしかできていないのに、彼は朗らかな笑みを浮かべて言葉を紡ぐ。
「俺は、紅音様の血を貪ることしかできなくなったんですよ? そんな綺麗な物語を描かれても、俺は……」
「晴馬さんの名前を呼ぶ幸福を、私にくださいませんか」
彼女の瞳に映るのは、何もかもを受け入れてくれるような安心感だった。
自分にとって都合のいい物語が次から次に生まれて、どうしようもなく涙腺が緩み出すのを察する。
「この先、私の血を欲すことがあるのなら……晴馬さんの名前を呼びたい。見返りなんて求めていません。でも、私が見返りを要求することで、晴馬さんが私を求めてくださるのなら」
涙を堪えるのが難しいということを、久しぶりに思い出す。
「ありがとう……本当に、ありがとうございます……紅音様」
瞳に溜まった涙が溢れそうになって、彼女から顔を背けたくなる。
すると、彼女は肩にそっと手を置いた。
その瞬間、自分の弱さを受け入れてくれる存在の温かさに気づいて、どうしようもなく涙が溢れ続けた。




