第2話「月夜」
「望むことなら、なんでもします」
書生を口止めするためなら、なんでもできる。
お母様と月見里家を守るために、私の覚悟を声に出すはずだった。
「お嬢さ……」
「だから、だから」
でも、私にできることなんて、何もない。
「お嬢様、落ち着いて……」
「私にできることは何もないかもしれませんが」
色仕掛けで命令に従ってもらう?
お金の力を使う?
父親が管理しているお金を私が自由に使えるはずもなく、書生を口止めするにはどうしたらいいか頭が回らない。
「お母様を助けたい……っ」
懇願。
それしかできない自分に情けなさを感じた瞬間、私の首元に冷たい手の感触が触れた。
「血が出ていますよ」
驚きで肩を震えさせてしまう。
自分が思うとおりに体を動かせないことが、また情けない。
「噛み跡……」
「……ください」
「お嬢様、手当てを……」
「見ないでください」
か弱い声で懇願したって、その願いは届かないことを私は知っている。
私が抱いた願いは、何ひとつ叶わないと知っている。
「見ないでください……触らないでください……見ないで……見ないで……」
こんな簡単に涙を零すつもりはなかったのに、涙の止め方が分からない。
自分の身体と付き合い始めて、どれくらいの年月が経ったと思うのか。
何年も付き合いのある身体なのに、今日は自分でいうことを聞かせるのが難しい。
「手当をするのに、見ないのも触らないのも難しいですが」
冷たい指が、涙の跡を辿っていく。
「今日あったことは誰にも言いません」
涙の跡をなかったことにしようと、彼の指が優しく頬を撫でていく。
「俺に手当をさせてください」
まるで、もう泣かなくて大丈夫って言われているような優しさ。
そんな錯覚に、私の涙腺は壊れてしまった。
「ほかに噛まれたところはありますか?」
「髪で隠れているところに……何か所か、噛み跡が……」
この屋敷で、最も人が通らない場所はどこなのか。
屋敷に住んでいる私ですら思いつかない場所に連れて行かれ、月の光が差し込む空き部屋で私は婚約者に噛まれた場所を手当てしてもらった。
「少し触りますね」
「っ、はい……」
月の光が差し込む部屋ということは、私も書生の彼も月の光を浴びることができるということ。
「申し訳ございません、指が冷たくて」
「大丈夫です……」
ただ月の光に照らされている、その光景。
ただ、月の光が差し込んでくるだけ。
ただそれだけの光景が、あまりにも美しく見えて目を奪われた。
「暦の上では春なのに、夜は随分と冷え込みますね」
脳裏から離れられなくなるほど、彼が美しく見えたことに涙を零しそうになった。
「暖かくなる頃……」
こんなにも心惹かれる月明かりを見るのは、今日が最後のような気がする。
「この屋敷から私はいなくなりますが」
こんなにも美しい世界を見ることができるのが今日で最後なら、尚更記憶に留めておきたい。
「このときの優しさを、必ずお返しします」
ああ、でも、私が抱く願いは、いつも叶わない。
だから、どんなに忘れたくないと願ったところで叶わないかもしれない。
「どうか、お元気で」
私の願いは、いつも花を咲かせることなく散ってしまう。
「すみません」
翌日、院瀬見様は月見里家を離れた。
父と出かけたこと以外は何も分からず、私は院瀬見様が帰ってくるまでの間、庭先の花を見ようと中庭へと足を運んだ。
「お嬢様! こんなところに、いらっしゃるなんて……私共が何かしでかしたでしょうか」
「この長椅子を、お借りしても宜しいですか」
寝込むほどではないけれど、立ち眩みがした。
自分の体が大事に至る前に、私は庭に用意されている長椅子へと避難した。
「もちろんです! さあ、こちらに」
こんなにも気を遣ってもらうほど、私は偉い人間ではない。
月見里家の当主である父に敬意を表する人がいるのは理解できても、ここまで娘の私に気を遣う理由がいつまで経っても理解できない。
(私は、どこにでもいる普通の人間なのに……)
そんなことを思っていても、それを口にすることは許されない。
月見里家に仕えてくれている人たちと言葉を交わしたいと思っていても、その願いを口にすることも許されない。
「はぁ」
春の日差しは心地良い。
昨夜、凍えそうなくらい冷え込んでいたのが嘘のよう。
花や植物たちが生き生きとした姿を見せる春が訪れたのだと実感できるほど、庭先の花々は美しい色彩を放っている。
(院瀬見様の元に嫁げば、すべてが終わる……)
大切なお母様のために何かしたいと思っても、力がないという現実はどう足掻いても変えることができない。
でも、流れに身を任せるだけで、私は誰もが憧れる院瀬見様の正妻になることができる。
(やっと、お母様が笑ってくれるようになる……)
抗って生きたところで、どうにもならないのなら流れに身を任せるしかない。
(あとは院瀬見様の機嫌を損ねないように……)
捨てられる。
捨てられる。
捨てられる。
捨てられてしまう。
良い子じゃない私は、院瀬見様に必要とされなくなる。
そんな事態を招いてしまったら、私は自分を産んでくれた両親に顔向けができない。
「この桜、今年も咲きませんね」
「木が腐ってしまったのなら、旦那様もいっそのこと木を切ってしまえばいいのに」
四季というものは確かに存在しているのに、庭に花を咲かせることのない一本の桜の木があった。
(桜……)
私が産まれるより遥か昔に植えられた木で、花を咲かせることができたら多くの人たちを魅了するに違いないと確信を持つことができるほどの大樹へと成長した。
それだけ見事な桜の木が我が家にあるのに、この桜の木は私が産まれてから一度も花を飾ったことがない。
(我が家の桜の木だけは、生きることを許されなかった……)
捨てないで。
捨てないで。
桜の木のように、私のことを見捨てないでください。
院瀬見様、お父様。
(私に期待することを、どうかやめないでください……)
屋敷の外を出れば、世を生きる人々を祝福しているように満開の花を咲かせているらしい。
けれど、まるで父に限界を定められてしまった桜の木は私と同じく息をしていないように映る。
そんな桜の木は、今日もなんとも表現できない寂しい空気をまとっている。